プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山本桂

2012-03-04 21:09:11 | 日記
1978年
・一昨年から業務提携しているニュヨーク・ヤンキースへの「野球留学生」は、日ハム・ヤングの関心の的だが、大型ルーキーが、ここにきて有力候補に挙がってきた。ドラフト3位入団の山本桂・外野手が、それ。「今でもパワーならプロの主力組に見劣りしない。巧く育てば大変な選手になる」三沢スカウト・・・と、球団関係者もタイコ判を押しているほど。183センチ、78キロと体もいい。もともとは投手だが、肩を痛めて転向した組だけにまだ荒削り。そのへんを米国留学で磨き直そうというのがフロント陣の計画だが、当の山本は「自分の母校からの初めてのプロ入りだけに最後までくじけたくない。できればアメリカにも行ってみたい。一日も早く一軍でプレーできるように技術を研いていきたい」という。米国行きキップの知らせが届くのは2月、鳴門キャンプの真っ最中の予定だが、いずれにしても山本にとっては夢一杯のキャンプとなりそうだ。

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鶴崎茂樹

2012-03-04 20:59:06 | 日記
1972年・・・春季キャンプ

・「オイ、お前ちょっと投げてこい」岡本二軍監督に指名されてマウンドに走ったのが鶴崎。人間、チャンスなんてどこに転がっているか分らない。ちょうど審判の練習が併行して行われていた。主審・久喜は、鶴崎のタマを見て感心した。「この子、ええタマ投げるやないか。なんというピッチャーかいな?」横に立っている野村監督に聞いたものである。「ええタマ投げよるやろう。そやけど、この子は投手やないで」野村監督は笑いながら答えた。鶴崎は南海では野手として契約した。だが筑紫工高時代はノーヒットノーランをやったこともあるバリバリの投手だった。南海は鶴崎の投手としてよりも打者としての素質に目をつけた。だが、それでいて審判が目を見張るような伸びのある生きたタマが投げられる。この時、野村監督はあらため鶴崎の投手としての素質を認め直したのではないだろうか。高校出の新人にしては珍しく選球眼がよく、バッテイングもシャープなものを持っている。又、調整過程にある投手のタマをじっくり見極めて四球で出塁することも多い。入団と同時に内野手に徹して、バネのある動きで、フィールディングも鮮やかなものを見せているが、鶴崎の胸中には投手には少しばかり未練が残っている。もし首脳陣が「両方やれ」とでもいおうものなら、飛びついてやりたい気持ちだ。「打つことも面白いけど、投手も面白いですからね」とあどけなく笑う鶴崎には、押さえてはいても投手でやってみたい気持ちはある。二刀流はあくまで思いつきであって、この話は実現するはずもないが、鶴崎が打者としても認められていることは事実。岡本二軍監督は「鶴崎は出てきて当然の男。出てくれなければチームが困る。だが、それ以外で誰が一番早く一軍入りするかといえば、鶴崎のような気がする」という。南海の二遊間はこれといって決め手がない。小池、桜井、青野、佐野の一角に鶴崎がどう食い込むか楽しみである。

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神垣雅行

2012-03-04 20:58:35 | 日記
1977年
・「このままでは、女房も子供も生活ができません。そこをなんとかしてください。頼みます。お願いです」中川代表と宮岸常務を前にして神垣は、粘りに粘った。その顔は上気して真っ赤であった。球団の呼び出しを受けて、大阪の実家から駆けつけ、球団事務所で契約更改にのぞんだ神垣は、それこそ必死であった。約50分間。やっとサインを終わるとはじめてニッコリした。「よかったです。入団して3年目。今回が一番いい交渉でした」その言葉には、やっと二軍からはい上がった選手だけが知る実感がこもっていた。シーズン終盤にはヤクルトの小林投手からプロ初安打となる左翼線を破る3塁打。これが初打点にもなった。欠場したベテラン高木のあとガマで2塁を守ったのが、運をつかむキッカケであった。11試合に出場し、広島戦では初ホーマーもマークした。今度の契約更改では、22%アップの推定330万円。球団では「異例の昇給だが、これには来シーズンの期待料が含まれているのを忘れないように・・」とクギをさした。「もう一軍半はご免です。死にもの狂いでやりますよ」という神垣は、近大で名を売った花形遊撃手だった。だが、プロの壁の厚さをイヤというほど味わった。二塁でも、三塁でも、内野ならどこでもいい。とにかく第一線で出場するのだ・・・というのがいつわりのない心境だ。新たにプレーイング・コーチとなった高木は「もともと遊撃が本職の男。あの守備なら、十分に遊撃手がつとまるはずです」と神垣を評する。やっとツボミが開きかけた来シーズンは楽しみが増してきている。

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井上修

2012-03-04 20:58:10 | 日記
1979年
「井上、記念本塁打連発・・・・野球は長くやるものです」
・「なにせ長い間、野球をやらせてもらってるんですからね。たまにはこんなことがあってもいいでしょう」といいながら、今年で15年生になる井上修が顔をクシャクシャにした。ムリもない。なにしろ生まれて初めての「記念アーチ」を放ったのだから。6月7日のロッテ前期7回戦「川崎球場」で4回、2安打と敵失で迎えた無死満塁に、左翼スタンドへ4号ホーマー。プロ15年目でホームラン自体が通算17本目の井上修だが、むろん満塁での一発はこれが初体験だ。まして、この4号満塁アーチは逆転の一打となりチームを勝利に導いた。井上修はご存知の通り、正遊撃手ではない。大橋が足首のねん挫や左胸のロッ骨を折ったりして、その代役としてスタメンに名を連ねている。それでいて大橋にそん色のない守備ぶりだし、打っては大橋以上の健棒ぶりも見せている。井上修は、今シーズン、もう一つホームランで「記念」を達成している。それは5月31日の日ハム8回戦の3号ホーマーがチーム連続試合本塁打記録更新の「19試合目の一発」だったのだ。3号、4号と「記念」が続いたが、さて5号は果たして・・・

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山下司

2012-03-04 20:57:42 | 日記
1977年

「甦った闘魂!新天地で大暴れ」11年目の春・・・ついに掴んだレギュラーの座

・特徴である「大きく白い歯」に苦い思い出がある。巨人時代、川上監督が主審に「代走・ハヤマ」と告げた。「???」首をかしげる主審。ベンチで気づいた選手があわてて注意した。「監督、ハヤマではなく山下です」監督にはささいなうっかりでも本人には屈辱だった。元々そんなザコではない。1967年に伊野商から栄光の巨人軍にドラフト1位指名だ。が、少々の実力ではダメだった。巨人V3の年。ONを始め土井、黒江・・・。この壁は厚すぎた。一軍の経験はチョッピリ。ほとんど二軍で過ごした10年。その果ての「自由契約」その夜、敢子夫人に涙ながらに頼んだ。「苦しいのはわかっているが、もう1年ガマンしてくれないか。ダメならやめる」敢子夫人のふたつ返事に勇みルーキー並みの年俸280万円で日ハムに移った。「守備はよくても打てなきゃ」といわれた巨人と違って「打てなくても守備力だけでも」という日ハム。期待されて練習することの楽しさを初めて味わった山下。その成果はすぐにあらわれた。オープン戦「3月5日・対広島・徳島」では5回に左中間に120メートルのデカイ一発を叩き込んだ。「ホームランなんて・・・公式戦はおろか、オープン戦でも初めて。ファームの試合でも、年間2,3本がいいとこなのに・・・」と手放しで喜ぶ山下。翌6日の広島戦「鳴門」でも3打数2安打2打点と「予想外」の打で活躍。大沢監督は「打力がいいとは思わないので、どこまで続くがが勝負だが・・・」といいながらも11年目の春を喜ぶ山下と一緒に「誤算」にうれしい悲鳴だ。

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長井繁夫

2012-03-04 20:56:51 | 日記
1970年
・桑田、城戸、中村でシノギをけずっている三塁の定位置争いに加わったルーキー長井の評判がいい。中大時代は二塁手だったが、二塁には大学の先輩でもあり巧打の武上がいるため、オープン戦で急きょ三塁へコンバートされた。すでに二試合にスタメンで出場しているが、阪急戦では足立の低目の球を右中間へ二塁打するなど軽快な守備ぶりと合わせ「なかなかセンスがいい。三塁のダークホースといえそうだ」と、別所監督を喜ばせている。「元々、速球には自信を持っているし、早いとこレギュラーポジションをモノにしたいですよ」と、やる気いっぱいの長井だ。PL学園の3年時に春のセンバツ甲子園でベスト8までいったのが唯一の自慢の球歴で、比較的地味な感じだが「プロは自分一人が勝負だから、目標にする選手もいない」と自分との戦いに一生懸命だ。ファイトと渋とさで新人王を獲得した先輩・武上の根性にどこまで追いつけるか、ベテラン連中との力比べがおおいに見ものである。

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若林憲一

2012-03-04 20:56:19 | 日記
1979年
・いつも守備や代走要員の若林が、今季17試合目の中日戦で初打席に立った。スコア4-4の同点で迎えた延長10回表。2死1,2塁の一打勝ち越しの場面で鈴木と対したが、2-3からのきわどいスライダーを3球ファウルのあと見送り三振。5年間のファーム暮らしのあと一昨年の5月に阪神・池内からプロ初ホーマーするなど気を吐いたが結局プロ12年間の成績は45打数10安打。もっぱら守備と代走が専門だ。今シーズン2年目の屋鋪が開幕から一軍入りし3安打を記録しているだけに、先輩としては負けられないところ。「あの場面では決勝打でも打っていれば結婚も・・・」と歯ぎしりして悔しがった。

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安田泰一

2012-03-04 20:55:46 | 日記
1971年「イースタンリーグ」

・「打球の速さはイースタン一」と言われながら、期待された昨年は左手首のけんしょう炎などで一軍戦・打率118「本塁打1」に終わった大洋の安田が早くもイースタンで2号ホーマーを記録、快調なスタートを見せている。178センチ、83キロという体格の安田は今年が4年目。昨シーズンから晴れて一軍入りし、そのパンチ力にベタ惚れした別当監督は「将来の三番候補。出来たらさっそくクリーンアップを打たせたい」というほど目をかけていたが、よかったのは、春のオープン戦まで。公式戦では甘い守備と荒いバッテングが目立った上、致命傷ともいえる腱しょう炎にやられて1割台という不本意な成績に終わった。しかし、今シーズンはその故障も完全に消え、シャープな振りでクリーンアップに頑張っている。

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鈴木博昭

2012-03-04 20:55:30 | 日記
1977年

・西京極球場での対阪急オープン戦「3月10日」6回、スコア1-1という同点の場面で代打に出た鈴木博が、好投する新人

佐藤義則の初球を豪快に左翼芝生席へ。「へエー、中日にあんなパワーのある選手がいたの」と、一塁側阪急のベンチは

口アングリだった。この鈴木博、実は4年前に三菱自動車川崎から入団した31歳のベテラン。ノンプロでは全日本選抜

の4番打者で活躍、マニラのラサール球場では140メートルの特大ホーマーを放ったこともある。昨年の暮れ「もうプロから

足を洗おうか」とさえ考えたが「もう1年やろう。一度も公式戦に出ないまま終わっては悔いが残るから・・・」と

一念発起した。その努力が認められ、キャンプ途中で一軍入りを果たした。

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迫丸金次郎

2012-03-04 20:53:53 | 日記
1977年
「イースタンリーグ」
・庄司、大北の「実力派」がコンスタントな力を見せているヤング巨人の中で、メキメキ株を上げてきたのが4年目の迫丸である。
熊本第一工・愛知学院大という地味な球歴ながら、年々、シャープさとパンチ力をつけてきたのが目につく。今年は庄司と交互に
センター、レフトを守って定位置を確保、安定した攻守を見せている。北海道シリーズでも3号ホームランをマークしたあと、大曲での
大洋戦で4号、28日の日ハム戦で5号を放ち、長打力の方も見違えるばかり。174センチ、78キロと上背はないが、ガッシリした体はシャープな外野手の素質十分だ。
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堀井和人

2012-03-04 20:53:31 | 日記
1977年
近鉄最終戦でサヨナラ安打を飛ばしたのは、ことし8年目の堀井だった。45年に南海入りしたこの男。同期には佐藤、門田といった投打の主力に中山もいて、指名は7位。かっての名外野手・堀井スカウトの息子ということで、スンナリと入団した。が、、もっぱら代走と守備要員というワキ役ばかりで、同期生ばかりか、後輩連にもすっかり取り残される状態だった。しかし、堀井は「大器晩成型」といえるのだろうか?代走のあと打席に立ったときなどによく好打を飛ばし、この日のサヨナラヒットにもつながった。「うれしいですね。自分でも信じられませんよ。でもこれを自信にしていいプレーをしたい」二代目プレーヤーとして、堀井はやっと目の色を変えてやる気になってきたようだ。
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渡辺勉

2012-03-04 20:52:38 | 日記
1971年
・西本阪急が日本シリーズで巨人の前に四たび敗れた原因の一つとして、守りのもろさが指摘されている。この欠点是正のため、名遊撃手のほまれ高かった本屋敷氏を内野守備コーチとして迎えたが、同コーチにさっそく一から鍛え直されているのが内野のホープ・
渡辺勉である。渡辺はことし4年目を終えたが43試合で18打数5安打、1ホーマーの打率278.。西本監督は本屋敷コーチに「バッティングはいいものを持っとるんやが、守備がもう一つ。捕球が悪くては使いものにならん」と渡辺の横顔を紹介、早急に一人前にしてほしいと要望した。本屋敷コーチの指導で渡辺の守備が向上すれば、来春の高知キャンプでの楽しみが、また一つふえる。

1974年、ウエスタンリーグ、7月26日の中日6回戦「西宮」ではリーグ3人目となる「サイクルヒット」を達成している。
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荒武康博

2012-03-04 20:52:17 | 日記
1971年

・今年もまた、「かってのドラフト1位入団の選手」が去っていった。4年目を終えた荒武である。

荒武は12月11日、球団や周囲の説得をふり切り、古賀常務に最後の決心を伝えた。甲子園の

スラッガーとして鳴り物入りで西鉄入りしてわずか4年、ついに期待に応えることができなかったので

ある。荒武は「結局、パワーがなかった。力の限界を知った以上、プロ生活の四年間は大学に

行ったと思い、今度は社会人として生存競争に破れないようにがんばる」というが、厳しい社会人

としての健闘を祈りたい。
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問矢福雄

2012-03-04 20:51:54 | 日記
1971年「イースタンリーグ」

・ジュニア・オールスターにも文句なしに選ばれたロッテの二年生・問矢が目下「二冠王」で快調に打ちまくっている。7月13日現在、本塁打は7本。打点27はトップ。打率で4割台をマークしている阿部「巨人」に一歩ゆずってはいるが、359と素晴らしいアベレージを残している。この問矢、東京・二松学舎から昨年、ロッテ入り。一年目に早くも打率3割、3ホーマーをマークしその好素質に目をつけられていた。182センチ、84キロという巨体からはじき返す打球はリーグでも群を抜いている。特に6月は下旬の東映6回戦で5打数5安打「2塁打2本、ホームラン1本」続くヤクルト6回戦にも牧投手から二打席連続本塁打を飛ばし、連続7打席ヒットをマークする強打。結局、6月は打率487、4ホーマー、15打点という荒稼ぎぶりだった。問矢は「バッテイングの方はすごく調子に乗っている。守備に自信がないから一軍入りは来年からが目標。今年はうんと肩を鍛え、柔軟性のある守備力を身につけたい」と将来に備えじっくり実力をつくようという構え。大型の左バッターだけに、将来は有藤と3,4番を組む主砲として期待されている。
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松井優典

2012-03-04 20:51:32 | 日記
1972年「ウエスタンリーグ」

・南海の二軍若手選手で脚光を浴びているのが松井である。星林高時代に甲子園に出場したこと以外さして目立つた経歴もないが、南海入団後、捕手から強肩を買われ内野にコンバートされたのが転機。野村という不世出の大捕手のいる南海でマスクを被り続ければいわゆる「カベ捕手」になるのが関の山。その点、松井はラッキーだった。「あいつは、いまどきの若い連中には珍しいファイト、バイタリティーがある。見ていて気持ちのいいプレーをする」と岡本二軍監督が推薦し野村監督も惚れこんだというわけ。まだ守備はお世辞にもうまいとはいえないが、三塁線を破らんかという当たりに横っ飛び、倒れながら打球を止め、体勢を立て直すや一塁へ矢のような送球。久し振りに見る胸のすく豪快なプレーだ。「まだまだ勉強することが多くて・・・。夢中でプレーしています」といっている。
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