プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

渋谷通

2014-04-06 22:55:26 | 日記
1970年

旧冬広島の秋季練習に参加、早くも大器の片リンを示して王二世の下馬評を裏付けた。左打ち、一八〇センチの長身から練習不足にもかかわらず左右へシャープな打球と飛ばすバッティングには、投手をつとめた安仁屋も舌を巻いたほど。ファーストミットを持っての守備練習でも、軽快な身のこなしを披露した。練習を見た根本監督も「バランスがとれているし、バッティングに柔軟性がある」と高く評価。渋谷の先輩衣笠をつかまえて、「ボヤボヤしてるとすぐ追い越されるゾ」とハッパをかける始末。王二世にかける広島関係者の期待は新春にふさわしくでっかい。
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浜崎正人

2014-04-06 20:52:15 | 日記
1967年

若手の中、期待されている投手の一人が左腕の浜崎、昨年プロ入り四年目で初の一勝をマークし、今年はめっきり自信をつけている。真田コーチも「ことし、一人前にならねば、もうお前の生涯は決まったも同然」と、おどしたり、おだてたりの末、とうとう浜崎と今季のカケをしてしまった。そのカケというのは、今シーズン浜崎が五勝すれば背広をつくってやるというもの。もっとも真田コーチだけが損なカケをしたワケではなく、五勝できないときは、浜崎のもっている背広を取り上げてしまうというもの。背広を作って貰えると意気込んでいる浜崎は、「真田さんの家には、香港で買ってきた舶来の洋服地があるんですよ。あれを載いて服を作れると思うと楽しいもんですよ。いま右打者に対するナックル・ボールを覚えているのですが、これにコントロールがつけば五勝ぐらいは平ちゃらですよ」と、威勢がいい。真田コーチも、「ハマ(浜崎)が五勝すれば、背広なんか安いもんだ。その代り出来ないときは背広を取り上げるからな」といえば、浜崎は顔色かえて「たった三着しかない背広を取られてはかないませんからね。どんなことがあっても目標を達成しますよ」とはり切っている。
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テハダ

2014-04-06 20:42:59 | 日記
1970年

好ダッシュを示した近鉄に、ファームからまた即戦力として参加する打のテハダと投の岡田である。「お待たせしました」と張り切る二人の助っ人だ。テハダは、四月上旬、須古球団部長が、中南米のスカウトみやげとしてつれてかえったパナマリーグの一塁手、兼外野手、来日早々の初練習では、外野へ打球が飛ばず、二十二日のウエスタン・リーグ対阪急戦に初出場したものの、三輪田のコーナーワークに封じられて、四打数、無安打「ちょっと無理だなあ」というネット裏の声に三原監督「別にあわてません」という返事だった。その後、徐々に調子をあげて月末の対西鉄戦では、ちょっぴり大器の片鱗を示した。ともに五番を打って、五打数二安打で通算三試合で、十四打数四安打一打点で、打率二割八分六厘。どうやら、日本の水に慣れてきたのか、バットも振れてきた。三原監督は、テハダを一軍に起用して、テストしてみる腹を固めたが、まだ一抹の不安は残っている。「ツーストライクをとられてもじっくり、ボールを見て、あわてないところを見れば、ゲームの経験はつんでいるようだ。だが、まだ実力が完全に、つかみきれぬ面もある」
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榊親一

2014-04-06 20:23:41 | 日記
1968年

新人選手の獲得制限ぎりぎりの十日、東京に大型捕手が入団した。日通浦和の榊親一捕手(二三)=大宮高がそれ。身長一メートル八一、七三キロはこれまた大型の醍醐を一センチほど上回る上背。大宮高時代の三十八年は夏の甲子園大会に中堅手として出場しており、三十九年、日通へ入社した年は都市対抗で優勝、外野手から捕手へコンバートされたあと都市対抗でも活躍し、四十二年の産業大会で準優勝した時は優秀選手に選ばれるというなかなかのキャリアの持ち主だ。永田オーナーは「体はあるし将来は必ずオリオンズの中心選手になってくれるだろう」と期待をかけているが、当の榊は、「まず監督に信頼されるキャッチャーになりたい。肩の強さなら誰にも負けない自信があります」と入団早々から大変な鼻息、この榊の加入でピリピリしているのが、二十日、川畑らと一緒にタイガースの教育リーグ参加のため、渡米した捕手の大塚。「せっかく掴んだ一軍戦出場のチャンスを渡せませんよ。教育リーグでいろいろな捕手術を勉強してきて、来シーズンは最初から飛び出します」と大物ライバルの出現に目の色を変えている。捕手払底のプロ野球界で榊がどこまで大型の本領を発揮できるか、今後の精進ぶりを注目したい。
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サントス

2014-04-06 20:12:14 | 日記
1970年

ドミニカの星サントスが来日し、本格的なピッチング練習を始めている。まだ十九歳になったばかりなので、粗けづりな感じは受けるが、結構スピードはあるようだ。この男、手と足がやたら大きいので、球団職員が球界ナンバーワンといわれる阪急・梶本のスパイクをはかせてみたが入らない。そこで「ジャイアント馬場の古いのがないか」といった冗談も出ている。須古球団部長は「特大の足はともかく、あの大きな手を生かして独特な球をマスターさせたい。テハダやこのサントスは、契約金も参稼報酬も安い。大金をかけた他球団の助っ人と比較されては困るが、二、三年先をみてもらいたい。これから伸びる選手だよ」といっている。さてこの大足君の成長がみものである。

来日二度目の登板で悪評ますます高まったのが近鉄のサントス投手。このドミニカ産の秘密兵器は、近鉄の助っ人になるどころか、まったく役に立たぬ厄介者であることがわかった。来日初登板は七月十四日の南海戦。このとき四回投げ、自責点六を記録して、首脳陣をがっかりさせた。それから二週間後の二十七日、こんどは阪神戦で先発した。その間、江田コーチがスペイン語しか通用しないサントス相手に、身ぶり手ぶりのゼスチャー・コーチ。なんとか低めに決まるようフォームの手直しをはかったが、その成果は遅々として上がってこない。この阪神戦でも四球や死球のあとにヒットが出たり、失策が出る最悪のピッチング。四回三分一を投げて失点五、自責点三、ストライクがロクにとれぬ荒れようで、相手の阪神ナインさえ「あれじゃねえ」とあきれ顔だった。二試合を通じて八回三分の一を投げ打者数四十六、安打十二、三振六、四死球十一、失点十三自責点六がサントスの投球内容で、言葉が通じない日本の生活に不慣れというハンデがあるにせよ、いささかお粗末すぎる成績に、はるばる南米まで行ってスカウトしてきた須古球団部長も頭をかかえている。
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二宮忠士

2014-04-06 19:59:45 | 日記
1970年

ノンプロ出身の三年生、東映の二宮が、開幕から飛ばしている。大洋二回戦(二十五日・多摩川、大洋)で大洋のルーキー石幡から第一号ホーマーを打ちこんだあと翌三回戦には二号、三号を連発するというハッスルぶり。お陰で昨年、首位巨人に十・五ゲーム差の最下位だった東映は、大洋に三連勝の好スタートとなった。二宮は愛媛県八幡浜高からノンプロ東芝を経て、四十三年東映入りした無名の内野手。百㍍十一秒台、鉄砲肩、ノンプロ三年間の通算ホーマーが二十本という実績を認められて一軍入りを期待されたが、昨年は十六試合で二割二分二厘。しかし、イースタンでは四十四試合に出場、八ホーマー(イースタンは十本以上がキングの対象になる)でリーグ最多本塁打をマーク、「小柄な著距離打者」と各球団から一目置かれていた。「東映は昔から好きなチーム。大体、スマートな野球は大きらいなんだ。今年もファイトで勝負。豪快に行きますよ」と意欲満々だ。投打ともにようやく軌道に乗り、首位を争っている二軍だが、ファームもこの二宮を中心にしてなかなかの強力打線をしいている。ハイピッチで長打を見せている二宮のバッティングに注目したい。
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作道烝

2014-04-06 19:51:26 | 日記
1968年

後半戦に入って、順位も固まってくると選手起用のほうもかなり荒れてくるが、このところやたらとポジションを転々しているのが東映の五年生作道。元来は捕手だが、中堅をやったかと思うと、一塁に回ったり、捕手へもどったり・・。先日の南海十八回戦(大阪)では一軍昇格以来はじめてインスタント左翼手をやって、小池、ブレイザーのライナーを目測を誤り二塁打にしたという実績の持ち主。イースタンでは、こうしたやりくりはよくあるが、支配下選手が十二球団中、一番少ない東映(四十八)ならではの話。ところで、この作道、ポジションだけに止まらず、打順も一番を打ったり四番になったりの身の軽さ。昨年は二割九分で打撃九位に食い込んだが、ことしはまだ二割ちょっと。しかし作道は、ブルペン捕手ですわっているよりはどんなポジションでも打席に立つほうが面白いと、先発メンバーを歓迎している。器用貧乏に終わらなければいいが・・。
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荒川巌・扇原修

2014-04-06 19:45:01 | 日記
1967年

ファームの公式戦にも一度も顔を見せず、晴れて降っても黙々と投げ続けているのが荒川、扇原の二人。首位巨人には無くてはならないバッティング専門投手である。荒川は会津工からサンケイを経て今年六年目。一軍戦では三十八年に一勝三敗(当時サンケイ)をマークしているが、イースタンでは、一昨年の巨人十四回戦(巨人・多摩川球場)でノーヒット・ノーランに押えながら、味方打線が湿りぎみでとうとう得点できず、球界日没引き分けに終わって参考記録にとどまったという珍記録の持ち主。
扇原の方は氷見高から入団して三年目。イースタンでは昨年、一昨年、ともに一試合に登板しているが、勝敗に関係なく今年から荒川と一緒にバッティング投手で契約しているもの。試合にはもう縁の切れた両投手だが、黙々と縁の下の力持ちに徹している姿は貴重。
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長瀬正弘

2014-04-06 19:38:45 | 日記
1983年、年俸270万
ファーム成績11試合、1勝2敗、41イニング、防御率3,73

・1982年「イースタン」
11-2と大敗した5月18日の西武戦。6回から3番手としてマウンドに上がったのは3年目で公式戦初登板の長瀬である。記録には1980年3試合、81年3試合が記されているが、これはすべて偵察メンバー。この試合、エラーの走者を一人出したが、あとは無難に抑え、結局2回を無失点。ベンチに戻ってきた長瀬は外野方向の丸子橋を見つめ、心の中でつぶやいた。「長かったなあ」。この丸子橋付近の河川敷が長瀬の母校・日体荏原高の練習場で高校時代のランニングコースでもあった。ファームで登板するまでに2年半もかかった。だが、その間十分に基礎体力を養い追走のスタートを切ったといっていい。ゴールはもちろん後楽園のマウンドだ。
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