倉橋寛「元・南海」投手、1965年入団
・南海時代の3年間は一軍登板がないまま自由契約になりその後、平凡なサラリーマン生活を送る。しかし、プロへの未練が断ち切れず1970年秋、大洋の入団テストを受け合格。再びプロのユニフォームを着る。
佐藤文男「元・近鉄」投手、1972年入団
・高校3年時「戸手商業」、道端に落ちていたスポーツ紙を拾い上げ、偶然に近鉄のテスト生募集の広告を見つける。試しに受験してみたところ見事合格。一時は近鉄のリリーフエースにのし上がる。
藤瀬史郎「元・近鉄」外野手、1976年入団
・大阪体育大学4年生だった藤瀬は公立、中高の教員採用試験を受けるが不合格。秋になっても就職口が決まらなかった。そんな時、スポーツ紙で近鉄テスト生募集の記事を見て「これでも受けてやれ」と冷やかし半分で受験した。当日、60人の応募者の中で藤瀬一人だけが合格となった。
柴田民男「元・大洋」投手、1977年入団
・ノンプロ時代「富士重工」5年連続して都市対抗の出場経験がある柴田だが、1976年の大会終了後、退社し家業の寿司屋板前修業に本格的に取り組んでいた。そんな矢先に大洋球団からプロ入りの話が持ちかけられ、27歳でのプロへの挑戦を決意した。
夏目隆司「元・阪急」投手、1977年入団
・高校卒業後「静岡・三ヶ日高」、家業の果物栽培を継ぐために地元の農業短大で勉学するかたわら、機械部品メーカーの草野球程度のチームに籍を置き、密かにプロ入りのチャンスを狙っていた。1976年秋の巨人入団テストに落ちるが、その後
に受けた阪急のテストに合格。夢を叶えた。
河村秀則「元・大洋」外野手、1978年入団
・桜宮高校時代、プロからの誘いを断り社会人「デュプロ」に進む。しかし間もなく退社し、ダンプの運転手に従事する。その合間に自力で野球修行に励み、1977年秋の大洋入団テストに合格する。
花増幸二「元・日本ハム」投手、1978年入団
・当時、史上3人目の国立大学からプロ入りを果たした選手。在籍していた鹿児島大学はカーブさえ投げておけば打たれないという、低レベルな南九州4県リーグに属していた。プロ生活を2年で終え、1980年からはファームのトレーニング・コーチに就任する。
松永浩美「元・阪急」内野手、1979年入団
・高校「小倉工」を私的な事情により2年で中退。数々のプロ球団の誘いの中から阪急を選択するが、高校中退の場合、翌シーズンは選手登録できないという規定に引っかかり、1978年は球団職員という名の練習生として過ごす。翌79年、晴れて正式入団となる。
上川誠二「元・中日」内野手、1982年入団
・箕島高校時代は輝かしい活躍を見せるが、卒業後に在籍したノンプロ、三協精機、大昭和製紙富士の野球部がたて続けに休部になるという不運に見舞われる。背水の陣でのプロ入りだった。
稲垣秀次「元・巨人」投手、1983年入団
・リトルリーグ時代は荒木大輔「元・ヤクルト」と並称される活躍を見せる。中学卒業後は野球とは無縁と思われる田中土質基礎研究所という会社に就職し、軟式野球を楽しんでいた。1982年、一念発起し巨人の入団テストを受け合格。荒木と同じ土台に立つ。
森田実「元・巨人」捕手、1984年入団
・高校卒業後、ノンプロ・三井造船に就職するが1982年に退社し、同年秋に巨人の入団テストを受ける。結果は合格だったが、高卒者で就職した者は3年間プロ入りできないという規定に引っかかり断念。83年は土木関係の仕事に従事するかたわら野球の練習にも励んだ。同年秋、巨人のテストを受けるが再び合格。プロ入りを果たす。
矢野和哉「元・ヤクルト」投手、1986年入団
・ノンプロ時代「神戸製鋼」、利き腕にメスを入れた経験がある。当時、球界でタブー視されていた、利き腕を手術した投手がプロ入りしたのは初のケースだった。
森山良二「元・西武」投手、1987年入団
・高校時代から注目された投手だった。卒業後は2浪し北九州大学で野球を続けたが家庭の事情で退学。1986年は小倉の食品会社「ONOフーズ」に勤めるかたわら少年野球の指導をしていた。西武球団は森山の素質に目をつけ、同年8月に投球テストを行い、早々と秋のドラフト指名を決定していたという。
・南海時代の3年間は一軍登板がないまま自由契約になりその後、平凡なサラリーマン生活を送る。しかし、プロへの未練が断ち切れず1970年秋、大洋の入団テストを受け合格。再びプロのユニフォームを着る。
佐藤文男「元・近鉄」投手、1972年入団
・高校3年時「戸手商業」、道端に落ちていたスポーツ紙を拾い上げ、偶然に近鉄のテスト生募集の広告を見つける。試しに受験してみたところ見事合格。一時は近鉄のリリーフエースにのし上がる。
藤瀬史郎「元・近鉄」外野手、1976年入団
・大阪体育大学4年生だった藤瀬は公立、中高の教員採用試験を受けるが不合格。秋になっても就職口が決まらなかった。そんな時、スポーツ紙で近鉄テスト生募集の記事を見て「これでも受けてやれ」と冷やかし半分で受験した。当日、60人の応募者の中で藤瀬一人だけが合格となった。
柴田民男「元・大洋」投手、1977年入団
・ノンプロ時代「富士重工」5年連続して都市対抗の出場経験がある柴田だが、1976年の大会終了後、退社し家業の寿司屋板前修業に本格的に取り組んでいた。そんな矢先に大洋球団からプロ入りの話が持ちかけられ、27歳でのプロへの挑戦を決意した。
夏目隆司「元・阪急」投手、1977年入団
・高校卒業後「静岡・三ヶ日高」、家業の果物栽培を継ぐために地元の農業短大で勉学するかたわら、機械部品メーカーの草野球程度のチームに籍を置き、密かにプロ入りのチャンスを狙っていた。1976年秋の巨人入団テストに落ちるが、その後
に受けた阪急のテストに合格。夢を叶えた。
河村秀則「元・大洋」外野手、1978年入団
・桜宮高校時代、プロからの誘いを断り社会人「デュプロ」に進む。しかし間もなく退社し、ダンプの運転手に従事する。その合間に自力で野球修行に励み、1977年秋の大洋入団テストに合格する。
花増幸二「元・日本ハム」投手、1978年入団
・当時、史上3人目の国立大学からプロ入りを果たした選手。在籍していた鹿児島大学はカーブさえ投げておけば打たれないという、低レベルな南九州4県リーグに属していた。プロ生活を2年で終え、1980年からはファームのトレーニング・コーチに就任する。
松永浩美「元・阪急」内野手、1979年入団
・高校「小倉工」を私的な事情により2年で中退。数々のプロ球団の誘いの中から阪急を選択するが、高校中退の場合、翌シーズンは選手登録できないという規定に引っかかり、1978年は球団職員という名の練習生として過ごす。翌79年、晴れて正式入団となる。
上川誠二「元・中日」内野手、1982年入団
・箕島高校時代は輝かしい活躍を見せるが、卒業後に在籍したノンプロ、三協精機、大昭和製紙富士の野球部がたて続けに休部になるという不運に見舞われる。背水の陣でのプロ入りだった。
稲垣秀次「元・巨人」投手、1983年入団
・リトルリーグ時代は荒木大輔「元・ヤクルト」と並称される活躍を見せる。中学卒業後は野球とは無縁と思われる田中土質基礎研究所という会社に就職し、軟式野球を楽しんでいた。1982年、一念発起し巨人の入団テストを受け合格。荒木と同じ土台に立つ。
森田実「元・巨人」捕手、1984年入団
・高校卒業後、ノンプロ・三井造船に就職するが1982年に退社し、同年秋に巨人の入団テストを受ける。結果は合格だったが、高卒者で就職した者は3年間プロ入りできないという規定に引っかかり断念。83年は土木関係の仕事に従事するかたわら野球の練習にも励んだ。同年秋、巨人のテストを受けるが再び合格。プロ入りを果たす。
矢野和哉「元・ヤクルト」投手、1986年入団
・ノンプロ時代「神戸製鋼」、利き腕にメスを入れた経験がある。当時、球界でタブー視されていた、利き腕を手術した投手がプロ入りしたのは初のケースだった。
森山良二「元・西武」投手、1987年入団
・高校時代から注目された投手だった。卒業後は2浪し北九州大学で野球を続けたが家庭の事情で退学。1986年は小倉の食品会社「ONOフーズ」に勤めるかたわら少年野球の指導をしていた。西武球団は森山の素質に目をつけ、同年8月に投球テストを行い、早々と秋のドラフト指名を決定していたという。