プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

佐藤博正

2017-03-19 22:03:13 | 日記
1974年

ジンクスはこの世界につきもの。左打者が多いというわけでなk、阪急は下手投げを苦手にしている。昨年夏の甲子園大会に駒を進めた札幌商のエース佐藤をみてロッテ・スカウト陣の気持ちははずんだ。巨人も食指と聞き込んだので同球団はドラフト一位指名、すんなり入団させることができたのである。舞台はかわる。一月三十一日ロッテの宿舎鹿児島・サンロイヤル・ホテルで歓迎レセプションがひらかれていた。いの一番北国民謡のノドを聞かせたのがルーキーの佐藤だ。「ええツラがまえしとるのう」相好をくずしたのは金田監督だった。昨年のキャンプでがむしゃらにスキヤキをばくつく弘田をみて「ええ食欲しとる」とカネやんは感心した。その弘田は押しも押されもせぬスター。佐藤が成功すれば、金田監督を感心させた選手はロッテのスターになれる新ジンクスが誕生するかもしれない。三日は暖かい日だったので佐藤がはじめてブルペンに立った。大投手カネやんが横にいるので心臓男もさすがに緊張した。「ええリストしとるやないか」といわれてペコリと頭を下げた。「自主トレには両親が東京までついてきてくれたんですが、、神宮外苑を走らされてアゴを出した。プロはきついなあと思いましたよ。でもいまは平気です。なにしろ南国は暖かい」白い歯をみせた佐藤は178㌢、80㌔、上背はたいしたことはないが、北国で鍛えた体ががっちりしている。高木ピッチングコーチは「プロ四、五年生のものおじしない態度、重いタマでコントロールがいい。うちはよそと違って新人だからといって一年間は調整なんてことはしない。よかったら本番にどしどし投げさせる」という。下手投げのルーキーが売り出すかどうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山下浩二

2017-03-19 21:52:49 | 日記
1974年

遠投108㍍、例えばホームベース上から投げた球が軽く外野のフェンスを越してしまう距離である。強肩がプロの第一条件とはいえ、これほど鉄砲肩を持った新人はそうザラにいるものではない。熊本二高から阪急入りした山下浩二投手(18)、甲子園の経験がなく、その点では無名だが、このところ不作といわれてきた九州にスイ星のごとく現れた本格派の大器である。181㌢、72㌔と均整のとれた体は全身バネといった感じ。とくに手首の強さは抜群で、スナップを利かした快速球に上田監督は「純金」と一目ぼれ、「新人王をとらしてみせる」とまでいい切った。怪物江川の慶大進学で、ライバル早大が江川に対等に投げ合える投手として選んだのが山下。「四年間も苦杯をなめさせられてはたまらん」と、山下を必死に説得したが、ドラフト指名一位の江川にソデにされた阪急がプロのメンツをかけてやっと獲得したいわくつきの投手だ。「江川は完成品だが山下はまだまだ伸びる。そんな未知の魅力を持ちながらフォームもまとまっているし、手を加えるところがない。課題といえば実戦でプロの野球を身につけることだけ」というのは梶本コーチ。「江川君はテレビで見ましたがそんなにスピードがあるとは思いませんでした。あの程度なら僕だって投げられる」試験勉強で昨年八月から球を握ってなかった山下、キャンプも六日から参加したが、ナインに追いつき追い越せとばかり張り切る山下に「張り切り過ぎて故障でもされたら・・・」と首脳陣は手綱を締めるのに手を焼くほど。二外人の入団でレギュラー争いがさらに激しくなった阪急の投手陣だが、そんな中でいち早くオープン戦登板の切符を手にした山下、それだけでも素質のよさが知れる。「米田さんを目標にがんばりたい」怪物江川を上回るスーパー怪物はプロ一年生とは思えぬ度胸のよさでエースへの道へスタートを切った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サディナ

2017-03-19 21:07:19 | 日記
1959年

南海ホークスから招かれてさる二日半田選手とともに来阪したハワイ朝日軍のジョン・サディナ投手は五日から本格的なピッチング練習をはじめた。今シーズン投手力強化に重点をおきながら国内では目ぼしい補強ができなかっただけに、橘球団社長はじめ鶴岡監督は大きな期待をかけている。五日は正午から半田といっしょにグラウンドに飛び出し軽いトレーニングのあと真剣にピッチング練習を行った。すでにハワイで半田選手とトレーニング、ピッチング練習をしていたと言うだけあって、この日は前日とうってかわった全力投球をみせたが、なかなか好調。蓜島が捕手をつとめたが「きのう、松本コーチさんも、ボールが重くて手がしびれると言っていたが、本当だ。球が速いしすばらしい」とほめちぎった。サディナは、はじめのうちオーバーハンド、あるいは時おりサイドから速球を投げたが、直球が大半のようだった。それにしてもシュートの切れが鋭く、外角のシュートはみな低目に沈んでくる。サイドからのシュートも威力があり打者に威圧感を与えそうだ。

鶴岡監督の話 まだ見たばかりだから詳しいことはわからないが、予想以上だ。できたら巨人とのオープン三連戦にも使うつもりだ。早く慣れさせて調子しだいでは西鉄、大毎の上位球団にぶっつける考えだ。

柚木コーチの話 きょう初めて見たが、非常にいいピッチングをしている。球速も申し分ない。とくに横手からのアウト・シュートは威力があり、スピードの点では杉浦以上だ。ウイニングショットにはもってこいだ。おもに直球を投げているようだが、全部シュートがかかっている。いまのところコントロールも心配ない。ちょっと腰が高いために下半身が気にはなるが、これからジックリ見てみる。とにかく一線級として十分期待できることは間違いない。

サディナ投手の話 半田が日本は寒いと言ったが、とても暖かいので調子がいい。二、三日したらバッティング投手もできる。ハワイではずっと練習していたから心配いらない。コントロールは、あまり力を入れたり、無理をすると、自分でもどこに球が行くかわからないときがあるが自信はある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳田利夫

2017-03-19 20:29:47 | 日記
1970年

南海ホークスは二十四日午後一時、大阪球場内の球団事務所に、柳田利夫外野手(34)合田栄蔵投手(28)中村之保内野手(26)中条博投手(22)の四選手をよび、近藤球団重役から自由契約をいいわたした。これは、野村監督の若返り第一弾である。二十五日にも、唐崎信男外野手(28)ら五選手に自由契約を通知することになっている。

この日、よび出しを受けた柳田、中村、合田の三人はいずれも元主力選手。柳田は大毎(現ロッテ)から巨人、さらに四十二年に南海に移籍された。一昨年は左翼で五番を打ち131試合に出場し・275、68打点、15ホーマーを記録、阪急と公式戦の最後の一試合まで優勝を争う一翼をになった。ことしは門田の加入、島野の成長で出場の機会が少なく、わずか56試合に出ただけだった。合田はことし十年目、三十九年から第一線に登場した。近鉄キラー。西鉄のボレス(当時近鉄)はいまでも「ゴーダの顔を見るだけでもイヤだ」と顔をしかめるほど。ところが、一昨年のシーズン終わりごろ右ヒジを痛め、球威がガタ落ちとなり、昨年は勝ち星なし、ことしは一度も登板のチャンスがなかった。中村は四十二年のドラフト第一位選手。法大から即戦力として入団したが、一年目は62試合に出場しただけ(打率・167)ことしはファームぐらしをつづけた。南海でドラフト第一位選手が自由契約になったのは、昨年の牧投手についで二人目である。就任一年目の野村監督が若返りを打ち出したのは、すでにシーズンなかばだった。「ファームの平均年齢があがりすぎている。少なくとも入団四年目ぐらいまでの選手だけにしたい。ファームにながくなると、どうしても気力がなくなるし、そのままズルズル置いておくのは本人のためにもよくない。思いきって整理し量より質のあるものにしたい」と語っていた。この考えは岡本二軍監督にも知らされ、シーズン終了後の染色検討会議でも話し合いが行われ、新山球団社長も了承していた。すでに小泉外野手が選抜会議で中日にトレードされ、さらに真部投手(本人の意思による)唐崎外野手・山本多外野手・山田外野手・坂外野手がリストにあがっているもようで、二十五日にはいずれも本人に通知される。

柳田選手の話「夏ごろから覚悟はしていた。この二年間、思うように働けなかった。しかたのないことだろう。他球団からの話はない。自分ではまだやれると思うが・・・」

合田投手の話「ことしの中ごろには野球をやめたいと考えていたが、いまはまだ未練がでている。二年のブランクで自分の力がどうなのかわからないけど、右ヒジの故障はすっかりいい。これからいろいろな人と相談して身の振り方をきめたい」

近藤球団重役の話「四選手をよんで自由契約にすることを伝えました。自由契約選手は全部で九人。二十五日は五選手にいいわたす予定です」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木樽正明

2017-03-19 20:28:20 | 日記
1979年
・昭和51年12月14日。東京は木枯らしが吹きまくっていた。
1人の男がコートも着ずに、白いタートルと紺のブレーザーの軽装で、西大久保の
ロッテ球団事務所の扉を開けて、その中に姿を消した。
20分後、男は晴れ晴れとした表情で出てきたかと思うと、
「任意引退になりました。悔いはまったくありません」と笑った。
ギョロリとした目玉が一瞬細くなった。木樽正明だった。実質上のクビである自由契約より聞こえはいいが、任意引退もクビと大した変わらない。
「いろいろありました。でも僕はプロに入ってから、太く短くと考えていましたから、満足です」。日ごろのマスコミ嫌いを返上して、木樽は詰めかけた報道陣に精いっぱい明るく振るまうと、再び寒風吹きすさぶ師走の街に消えていった。そんな彼を玄関まで見送ったのは、球団関係者では西垣球団代表だけである。
プロ生活11年間で367試合に登板。112勝80敗、防御率3,05が木樽が残した記録である。「木樽は任意引退になった」社のデスクに電話で第一報を入れたⅩ記者は寒風の中で、「彼のいうとおり、本当にいろんなことがあったなあ。一匹オオカミだったからねぇ」とつぶやいていた。
一匹オオカミ木樽、波乱の野球人生を書くには高校時代「千葉・銚子商」にも触れなければならない。木樽は昭和40年の夏の甲子園大会で準優勝投手。秋の国体では優勝投手になり株をいっぺんに上げた。高校1年生時には右肩を骨折しながら誰にも知らせずに投げ抜いた。あとで知った監督が真っ青になったという根性の持ち主でもあった。木樽の実家は当時、従業員を40人も使う水産加工業者である。裕福な家庭の7人兄弟の末っ子。家族は全員、大学進学を強く勧めたが、それを振り切ってプロに飛び込んだのは木樽本人の意思だったという。「大学で4年間投げるより、高校からすぐプロに入った方がいい。巨人は好きだが、その巨人相手にシリーズで投げる方がもっと楽しい」とさっさとプロ入りを決めてしまったという。
「花の40年組」といわれたほど、この時の高校球界は人材が豊富で堀内「巨人」、森安「東映」、平松「大洋」、鈴木「近鉄」などがおり木樽の評価は彼らに比べると芳しくなく「スピードはあるが棒ダマ。カーブも曲がらない。むしろ打者としての素質の方が上」という声があったほど。事実、1年目の41年に甲府商から巨人入団の堀内が16勝2敗だったのに比べ、木樽は3勝8敗。ロッテの中心投手に成長していったのは4年目「44年」からである。その年、15勝9敗、防御率1,72「1位」、翌45年は21勝10敗でMVP。もちろん年俸はエースになってからうなぎ上り。連続20勝を果たした46年の更改では1800万円。投手陣では一番の高給取りにのし上がっていた。だが、この頃、知らず知らずのうちに「職業病」にむしばまれていた。右肩痛、腰痛とけんしょう炎。「外野を走っていた時なんだ。プツンと、まるでアキレス腱が切れるような音がしたので横を向いたら木樽が、うずくまっていたんですョ。その時は腰痛だったんだけど、あんな音がするもんですかね。僕は初めて聞きました」とは同僚の八木沢の証言である。こうして木樽は大阪の厚生年金病院をはじめ、和歌山・勝浦温泉病院、別府・帯刀電気治療所など、あらゆる治療所通いをシーズン中からやることになる。マッサージ、ハリ、きゅう、みつばち療法・・・。そして最後は金バリの打ち込み。やはり
酷使からくる職業病が「太く短い野球人生」にしてしまったのだ。チームメイトの某投手などは「適当に、これからは投げた方が身のタメだぜ」と忠告したという。だが、木樽は敢然として無視した。「精いっぱいやって、選手寿命が尽きたら、それはそれで仕方ないじゃないか」という考え方である。
職業病の他に、木樽は顔面骨折のアクシデントも受けている。49年3月の巨人とのオープン戦「静岡」でのことだ。5回に巨人・上田の投手ライナーを右ホホに受け「右ホホ骨陥没骨折」。幸い開幕には間に合ったが、ともかくケガには滅法強かった。なにしろ銚子商1年の時の右肩骨折では甲子園から帰京後に治療したほど不死身の体力の持ち主である。だが長年の持病となった腰痛にはついに勝てなかった。そしてこれが48年からロッテ監督に就任した金田正一氏との不和にもつながっていくのだ。腰痛完治の見込みがないと判断した金田監督は密かに49年暮れトレードを画策した。これが木樽を激怒させた。50年になるとシーズン真っただ中の8月下旬「腰痛で自信がない」という木樽と金田監督が衝突。「闘志のない人間はいらん。任意引退にする」までに両者のケンカはエスカレートした。金田ロッテになって3年目、ファミリー結成を至上とする総指揮官と一匹オオカミを貫こうとする木樽は、確かに両極端だった。KОされた木樽に金田監督が「なんだ、そのザマは」と激怒すれば、無言で扉をスパイクで荒々しく蹴り上げ、ベンチを出ていった木樽。こんな光景を何度見たことだろう。金田監督は「バカだ」「チョンだ」と選手を悪しざまに避難するが、翌日になるとケロリと忘れてしまう。ナインはみな、そんな監督の性格を知って「それ、また血圧が上がってきたぞ、さわらぬ神にたたりなしだ」程度ぐらいに行動しても木樽だけは違っていた。異常なまでのプライドが許さなかったのであろう。調子が悪ければ変化球で逃げる。本職のピッチング同様、「チェンジ・オブベース」の切り替えの出来る人間なら理解していたろう。木樽の性格は直情径行型だ。お世辞もいわなければ、変化球も投げないタイプだ。プロの投手である以上、ピッチングの幅を広げるため変化球の球種は年々、増やしていくものだ。だが木樽ときたら終始、直球が決め球だった。「スライダーもフォークも投げたが「仕方なしに投げているのだ」ともいったことがある。
29歳の若さで、退団ー任意引退。野球選手にとって、あまりにも寂しく悲劇的な結末である。トレード要員の通告を受けた後、西垣代表、金田監督とも会った木樽。一時は「お願いします」と身柄まで預けた。だが長池「阪急」を筆頭とする各球団の主力級とのトレード話はご破算。対象は二軍選手に向けられ阿野「巨人」、
世良「ヤクルト」との交換話が出た時点で、木樽はユニフォームを脱ぐ決意を固めた。「江川問題」で球界が騒然としている今シーズン「昭和54年」。同期の鈴木「近鉄」、堀内「巨人」は華々しく活躍するだろう。自由契約になりながら西武に拾われ、泥まみれで体当たりするプロ26年目の野村捕手。木樽だって不死鳥のようにあるいは再起していたかもしれない。表面上は職業病があったにせよ「太く、短く」のモットーを貫き通した木樽にも、真の男の姿を見ることができるのだ。
木樽が引退してもう3年の歳月がすぎた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山村勝彦

2017-03-19 14:20:02 | 日記
1977年

「兄貴には負けない」と童顔をほころばせるのは、クラウンライターがドラフト六位に指名した大鉄高の山村勝彦外野手(18)。まだ正式に入団決定していないが、浦田チーフスカウトが交渉に当っており、すでに時間の問題。同球団には兄の善則内野手がいるので、兄弟が同じチームで腕を競うことになる。球団が別なら定岡、河埜(ともに南海と巨人)というケースはあるが、同じカマのメシを食うというのは珍しいことだ。「見てくれましたか。ネエ、あの胸幅。がっちりとした足腰、大物の素質は十分なんですよ」と浦田チーフスカウト、指名こそ六位だが、ドラフト前から事前に話し合いがついていた。球団側の評価は二、三位クラスに相当する逸材。いまは他球団に指名されなかったことで同スカウトはほっと胸をなで下ろしている。第一回の交渉の一日は、あいさつだけにし事をあせらず慎重に進めている。勝彦君は兄の善則さんが、四十八年に太平洋(現クラウンライター)に一位指名されたときから「きっとオレもプロ野球の選手になるんだ」と心に決めていた。中学三年のときだった。そして兄と同じ大鉄高に進み、シーズンオフで善則さんが帰ってくると一緒にトレーニングをした。175㌢の身長は兄に3センチ劣るが、体重は78㌔で互角。父親の恒善さんが「パワーは兄より上じゃないかと思いますが・・・」というほどで、一年ごとの成長はめざましいものがある。大鉄高の三年間で本塁打二十本以上、通算打率も五割以上をマークしている。おまけに50メートルを6秒2で走る俊足は、兄よりも数段上ときているのだから、クラウンライターにとってはまさに掘り出し物というわけなのだ。シーズンオフになるといつも実家に帰って来ていた兄が、ことしは福岡に残り特訓を受けている。内野と外野でポジションは違うが入団すればライバル同士。勝彦君は「兄をしごいてやるつもりで楽しみにしていたのに残念。兄が特訓をしているなら、私も負けないように練習しなくては」と学校から帰宅する午後四時から、毎日約一時間半のランニングと補強運動をしている。自宅から約5㌔のところに黒鳥山公園がある。なだらかな丘、急な斜面、そして50メートルの階段もある。からだを痛めつけたあとは夜の日程が待っている。照明設備のある庭でティーバッティング、十一月の中旬からは父親の恒善さんと親子特訓を始めた。「いまから気持ちを引き締めています。兄は三年目で正ポジションを取ったが、私は二年ぐらいで一軍入りするつもり」と野球の師匠である兄をライバルに大きくはばたこうとしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木村広

2017-03-19 11:58:51 | 日記
1977年

「一体、いつになったら一軍入り出来るんだろう」と、このところ、いささかあせり気味なのが、二軍のエースこと木村広投手(22)だ。まだプロ入り二年目。何もあせることはなかろうと思うのは常識的に過ぎるらしい。「何としても一日も早く一軍に上がりたい」という木村のイライラの原因をさぐってみたら・・・・。

木村は昨年、日大からドラフト5位で入団した。軟式野球の出身で、長崎県口加高校時代にはエースとして全国大会の優勝経験を持っている。硬式に転向したのは日大三年の後半からで、そのため東都六大学野球でも無名に近かったが「球も速いし、鍛えればモノになる」(毒島スカウト)と見た球団は、入社が内定していたリッカー本社の吉田社長を中村オーナーが自らが口説き落として、入団にこぎつけた。いわば「掘り出し物中の掘り出し物」(中村オーナー)だったわけだが、本格的なトレーニングを知らず、ゼイ肉が目立っていたからだも一年間で見違えるように引き締まり、今シーズンはどうやらプロらしい体格になって来た。投手としての駆け引きも一応はマスターしたし、速球のほかにシュート、カーブ、スライダー、シンカー、フォークと五種類の変化球を持っている。つまり「ファームのピッチャーとしては文句なしに水準を抜いている」(三浦ピッチングコーチ)わけで、そうなれば本人が「一日も早く一軍入りへ」と力試しにやる気持ちもうなずけなくはない。が、もっと大きな理由が木村にはあった。「義則ですよ。あいつは大学の一年後輩。球威ならオレも負けなかった。あいつが一軍で勝星をあげているのに、なんでオレがファームのままでいなきゃならんのかと、ちょっとフに落ちんのです」と木村。義則というのは阪急のドラフト一位投手・佐藤義則投手(日大)のこと。つまり木村は、後輩の活躍に、いたく競争心をそそられたということである。ウエスタン・リーグでは14試合登板と全試合の半分以上に顔を見せ、成績こそ4勝3敗と一つしか勝ち越していないが、ジュニアオールスターの出場はほぼ確定的と見てよい実力派。強心臓ぶりにも定評があり、死球をぶつけた相手を逆ににらみつけ「当たる方が悪い」としかったこともあった。「ストレートの切れもよくなったし、からだもしまって来た。球威は一軍の二線級より上だし、一軍でも通用するだろう」と見た三浦コーチは、前期の後半に一軍昇格を推薦している。後期スタートにあたり、先輩の野崎が一軍入りしたため、一軍のワクがなくなり、木村の昇格はまたお預けとなったが、木村は「こんなに一軍入りが難しいものなら、一度上がったら二度と落とされないような実力をつけて上がらなきゃ損だ」と、いっそう熱っぽく練習と取り組み始めた。がんばれ、希望を捨てるな、二軍のエース!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋詰文男

2017-03-19 11:05:24 | 日記
1960年

先発は東映・金山、阪急・秋本。秋本は二十一回戦で二打席連続本塁打を打たれているトップ島田にしょっぱなヒットされて不安な立ち上がりだが、先取点は阪急があげた。二回増田が中前安打、岡本の二ゴロで二進し、中田の連続内野安打、一、三塁となったあと岡田の三ゴロで増田がかえった。しかしこれは三塁西園寺がホームに投げるのをためらうボーン・ヘッドでひろったようなもの。東映もその裏無死から吉田右中間二塁打、山本(八)四球で一、二塁の好機をつかんだがラドラがバント失敗で三振。保井監督代理もここで秋本をつぶそうと思ったか不調と思えない金山を引っ込めて代打策に出た。しかし岡島、高木ともに秋本のカーブとシュートにまどわされて凡打に終わり、この好機を生かせなかった。六回阪急は中越二塁打の田中(守)が衆樹の中前安打でホームをついたが、中堅ラドラの好返球で直前アウト。東映はその裏稲垣の遊撃右の安打、西園寺の左翼線二塁打で無死二、三塁のチャンスだが吉田三振。ここでリリーフした足立にも山本(八)が投ゴロと粗雑なバッティング。幸運にもラドラの連ゴロ失で同点とした。東映は八回三人目の米田から稲垣が右前安打、西園寺の三ゴロで稲垣は二封されたが西園寺二盗のあと、吉田が右前にたたいて逆転した。いままでチグハグな攻撃ぶりをみせていた東映がやっと有効打が出て得点に結びつけたわけだ。三回からリリーフしたプロ一年生の橋詰はシュートとカーブをうまくミックスして阪急をかわした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福永栄助

2017-03-19 10:28:37 | 日記
1972年

バッティング投手から社長見習いへと、みごとな変身をとげた人がいる。今季いっぱい、ヤクルトで打撃練習の投手をしていた福永栄助さん(24)だ。故郷の熊本に帰り、実家の商売である材木会社を継ぐことになったもの。新天地で力いっぱい仕事をしている福永さんは、野球への未練もさっぱり捨て去った。他人は、これを華麗な転身という。だが、こんな幸運にめぐまれた人はそうざらにはいない。「練習台だった四年間のムダを取り返したい」という福永さんは意欲的に毎日を送っている。ゴルフに明け暮れる華やかな陰にあるもうひとつのシーズンオフの姿がこれである。

熊本県の玉名郡長州町。東京都違って、排気ガスも騒々しい車のクラクションもない人口一万四千人の小さな町。そのほぼ中心にある「福永木材店」に元バッティング投手はいた。社長は父親、福永はそのあとつぎだ。「野球?ぼくがやっていたのは野球じゃないんですヨ。練習台というやつ。まあ、ぼくらみたいな男がなくちゃ成り立たないとは思うけど、いま考えると、ムダな四年間でしたねえ」四十四年、西鉄(現太平洋クラブ)に入団。中西監督(現ヤクルトヘッドコーチ)に「カーブの切れは抜群。将来はエースだ」とタイコ判を押された。が、福永のたどりついた先はバッティング投手。一昨年暮れにはヤクルトに移ったが、ここでもローテーションにははいれなかった。「野球の話はもうやめましょう。四年間の空白を一日も早くとりもどさなくてはいけないんですヨ。野地板(屋根の下張り板)、貫(柱と柱との間をつなげる小柱)など、材木の種類も覚えなきゃならないし、ソロバンもぼつぼつ練習しとかなきゃあ。いま必死ですヨ」球界で下積みを続けていたせいか、桧、杉など材木のスターよりも、野地板や貫ら、裏方さんの名前のほうに愛着がわくという。「貫にしても、大貫、中貫、小貫ってあるんですヨ。家が違ってしまえば、こうしたやつはかくれてみえないが、これがないと出来上がらない。どんな所にも、スターと裏方は同居しているんですねエ」きびしい生存競争に負けたとはいえ、こうしたところに気がつくあたり、社長見習いの第一歩はまず合格点。従業員の将来の社長評もすこぶるいい。「野球は四年前だったが、この商売は一生ですからね。オヤジに代わってもっともっと稼がなきゃあ」社長見習いは、トラックの助手に早替り。注文を受けた材木を満載して威勢よくとび出していった。ことし球界を追われた同期生は多勢いる。が、福永のように再出発に好スタートをきった男は何人いるだろうか・・・。「そうですよ。大量点を背負ってマウンドに上がるようなものですからね、時には苦しかったきょ年までを思い出して・・・」野球話はいやといいながら、社長見習いの抱負には、やはり元バッティング投手が生きていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前岡勤也

2017-03-19 10:03:11 | 日記
1964年

新宮高時代、金田二世とうたわれた前岡が自由契約になった。投手を廃業して、外野手に転向したが、俊速だけではどうしようもなかった。名古屋のボーリングセンターに就職して第二の人生のスタートをきったのは喜ばしい。スコアラーから現役に転向した佐々木、法政二高時代は柴田(巨)是久(映)と三羽ガラスといわれた的場・日大の強打者だった会田、小粒だがピリリとしていた今津といった連中が、ユニホームをぬいだ。今津あたり、まだ働けるのに、高給のため「経営合理化」の犠牲になったのはさびしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スミス

2017-03-19 09:53:09 | 日記
1972年

南海ホークスの新山球団社長は、二十五日午後四時から大阪球場内の球団事務所で、ジョーンズにつづく強打の黒人、元大リーガーのウイリー・スミス外野手(32)=1㍍83、81㌔、左投げ左打ち=の獲得を発表した。

この日早朝、帰米中のブレイザー・ヘッドコーチから野村監督に「球団および本人に内諾を得た」と国際電話がはいり、球団ではただちにコミッショナーに対して調査を依頼した。米コミッショナーを介しての調査で支障がなければ、ブレイザーが正式契約を結ぶ。同選手は一月末に来日してキャンプから参加する予定。野村監督は「左翼で三番か五番を打たせたいが、投手出身でショート・リリーフもできるということなので場合によってはワンポイント・リリーフにでも使いたい」と話しており、もし実現すれば来日外人初の投打二刀流となる。ブレイザーが現地のスカウトに聞いたところによると、スミス選手への評判はかなり高いものだったという。「バッティングは大へんなものらしい。大リーグの経験も長いし、ことしは3Aで3割5分も打っている。クリーンアップを打てると思う。それにことしも短いリリーフなら投げていたというし、ウチが左が村上と上田の二人だけだから、おもしろいぜ」発表に同席した野村監督も、懸案の外人が決まってホッとした表情だ。現実には野手として獲得したわけで、投手としては評価をしていない。それなのに、自分からワンポイントの話を持ち出すところなど、まさにごきげんという形容がピッタリ。来季の南海、Aクラス復帰の足がかりは、やはり打倒阪急ーとくに下手投げの足立、山田の攻略である。その意味で、強力な左打者が一枚加われば攻略の可能性が大きくなる。「富田をサードにまわし、門田を四番にすえて・・・」と、来季の青写真がつぎつぎに野村監督の顔に描かれていくようだ。「スミスに関する心配は守備。肩は心配ないと思うが、守備範囲、足が心配や。けど、広瀬がいるから助けてくれるやろ」そのスミス、米大リーグ通の藤江清志氏(元南海渉外課長)は「戦力としてもプラスだが、それ以上にまじめな選手だから、南海にとって大きなプラスでしょう」という。1960年にプロ入り、十二年のキャリアを持つスミス。妻のクレオサス夫人(27)と長男スター君(9つ)次男ウイリー・ジュニア君(8つ)の家族とともに来日する。巻き返しをめざす南海で、どんな助っ人ぶりをみせるだろうか、注目される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする