プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

木原義隆

2017-03-20 17:09:31 | 日記
1974年

広島投手陣のなかでは最年長、三十二歳の木原が、ことしは巨人のように燃えている。四月二十四日の大洋戦で、チーム初のセーブポイントを獲得した。二十七日の阪神戦ではテーラー、中村の一発を貰って失敗したが、救援の切り札として貴重な存在である。制定されたばかりのカムバック賞にも希望のふくらむ木原だが、再起の原因はいったいどこにあるのだろうか。二十四日の大洋戦は、ことしの木原を象徴していた。1点差に追いつめられた大洋の一死二塁。ここで木原が出た。相手はリーグでも最強のクリーンアップ。が、木原はシピンに四球を与えただけで楽に逃げた。以後は6安打だけ。先発金城に今季初の勝ち星をプレゼントした。昨年は肩を痛めたこともあって、連日バッティング投手をやらされた。そのなかで球威の衰えを知った木原は、力から技への転換を図った。ことしのオープン戦8イニングで防御率1・13も大きな自信となった。しかし現在の木原が形づくっているのは精神面だ。昨年、広島の監督に迎えられた別当薫氏(現評論家)と木原はどうも合わなかった。皮肉なことに近鉄、大洋、広島と木原がチームを代わるごとに別当さんが後からやってきた。同時に木原の出番は失われていった。昨年は大洋3回戦で2イニング投げただけ、最後まで別当さんの口から「木原」の名前は出なかった。別当さんの好みは力で押す本格派である。木原は対照的なタイプ。しかも肩を痛めていた。木原は人一倍意気に感じる男だ。少々方が痛くとも信頼されているとなれば望んで連投もやる。それだけに戦力外に置かれたときの苦しみは並みでなかった。「てっきりクビだと思っていた。そうなったらテストを受けてもセ・リーグのチームに入り、意地でも広島に恩返ししてやろうと思っていた」そうである。もとより、ことしも広島の監督さんを別当さんと見てのうえだった。クビがつながったばかりか、キャンプのさなか森永監督から「きみのようなベテランがうちには必要だ」と聞かされていた。木原の血が燃えた。「ことしはランニング一つにしても、力の入れ方が違うんですよ。ぼくっていうのはそういう男です」と木原は言った。対大洋戦でセーブを得たときの木原は素直に喜んだ。そこに一年間の苦悩が感じられた。「最も大事な場面で起用してもらった。その喜びは口で言い表せない。だって投手にとって一番やりがいのある仕事だもの」救援は地味でしかも責任は重い。木原はその仕事をあえて望んでいる。首脳陣が「貴重」という意味はここにあるのだ。「肉体的にはまだ二十四、五歳。脂肪のない体で、どちらかといえば衣笠の体質ですね」とは福永トレーナー。「試合に出してもらえるだけでうれしいんだ。それなのに救援の切り札として扱ってくれるんだから・・・」と木原の言葉には辛酸をなめ尽くし、損得を超越した男の味が感じられる。勝ち星への執念はすでにない。「ただ自分の持ち味を出すピッチング。チームへの貢献を心掛けているだけ」目下5試合、11イニング1/2で自責点は2・08の好成績。体調に狂いさえなければカムバック賞も望める。
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阿部良男

2017-03-20 15:34:51 | 日記
1974年

太平洋ライオンズから阪神に移った阿部外野手が、二十九日、甲子園球場で練習しているナインに合流した。福岡市のトレーニングセンターで体を強化していたとはいえ、広々としたグラウンドでの始動は感じがまったく違う。ましてや新天地のライバルを目の前にすれば自然に気合もはいる。強化体操、ランニングと取り組む顔にそのファイトがにじみ出ていた。「福岡でかなり動いてきたつもりだが、みんなと一緒にやるとやはりきつい。それにライオンズ時代はランニングが主体の練習だったが、阪神は体操の時間が多い。しんどい体操だし苦しいですね」トレーニング方法の違いに戸惑ってはいたが、佳代夫人と今月の四日に誕生したばかりの幸恵ちゃんに飛躍を誓って、前日、大阪入りしたばかり。きびしい練習にも歯をくいしばってがんばっていた。その表情には今シーズンにかける意気込みもあらわれていた。「もうしばらく福岡へ帰ることはないでしょう。合宿に荷物が届くまでは姉のところから球場通いしますが、外野の一角を目標に勝負してみます」この日は、田淵、藤田平、上田らがゴルフで欠席したため、主力との顔合わせはなかったが「心機一転に」と買い込んだ赤い新しいグラブを手に「なにか目だつことをしないと忘れられるといけないからね」と冗談をいっていた。練習後の顔色はよく、体調は万全のようだ。こんな阿部の印象を梅本トレーニングコーチは「体はナマっていないし、動きはなかなかいい。まだ一日だけで評価は出来ないが、バネもあるし、かなりやりそうだ。期待してもいいんやないかな」といっていた。トレーニング初参加で阿部のシャープな動きは早くも目にとまった。だが、きびしい戦いはこれからである。彼の実力、立場からみても勝負はキャンプからオープン戦にかけての二ヶ月間だ。左腕攻略が優勝のカギを握っている阪神。左投手を得意とする阿部には明るい材料が待っている。
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阿部良男

2017-03-20 15:20:22 | 日記
1974年

野球から解放された時、いつも頭に浮かんでくるのは長女幸恵ちゃん(一か月半)の顔。「今ごろ何しとるやろ思い出しては一人ニヤ。もう一ケ月近くご対面していないのだから無理もないが、わけのわからない者から見れば「こいつ、アホかいな」と思うだろう。だが、ことしの一月四日に誕生したばかりの一粒種幸恵ちゃんの顔を思い出している時には、周りのことなど全く無関心。親バカという言葉があるが、阿部もその一人だ。「生まれてから一緒にいたのは一ケ月足らずだが、風呂へ入れたこともあります。でも、まだ目の見えない時だし、笑いもしなかった。いま三日に一度くらい女房に電話して状況を聞くんですが、最近、笑うようになったらしいです」練習後、それも特訓が終った直後にこの話に触れたのだが、疲れなど一気にすっ飛んだような顔。表情はゆるみぱなし。そして「外出して同じ年ぐらいの赤ちゃんを見ると無性に会いたくなる」つい相手になりたいような気持ちになるらしい。現在奥さんの実家、福岡市東区箱崎でスクスク育っている幸恵ちゃん。「一か月近くも会っていないから、もう大きくなっているだろうなあ、顔も変ったやろか」プロ生活の勝負をかけている厳しいキャンプだが、このひとときが阿部に安らぎを与え、英気を養ってくれる。「まだ目も見えない時別れてきているし、今度会ったら、どこのおっさんが来よったのかと思われるんじゃないかな」自信?は持っているらしいが、真っ黒に日焼けしたいかつい顔の阿部だ。こんなことを心配しながらも、大きくなった幸恵ちゃんとの再会を待ちわびている。
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井洋雄

2017-03-20 13:32:39 | 日記
1958年

日鉄二瀬のエース井洋雄投手(21)の入団は広島カープにとってことし最大の収穫だった。ノンプロで技巧派ナンバーワンの定評ある井は、夏の都市対抗では久慈賞に輝き、今秋の産業対抗大会で優勝投手となり有終の美を飾った。濟々黌から日鉄二瀬に入社、わずか二年半でノンプロ球界屈指の巧投手にのし上がった。頭脳的ピッチングとプレート度胸は見あげたもの。経験、技術ともに信頼できる。ピッチングはいわゆる頭脳投法だが、これは彼の体力からきたもので、1㍍75の身長に反し体重はわずか65・5㌔と軽量だ。体力の消耗が激しい投手としてはいささかものたりないウエイト。巨人の藤田投手に似かよったからだつき、やや球は軽いが、最大の武器は外角に決まるカーブと快速球だ。またその球のコントロールがよく威力を増している。いわゆるウイニング・ショットとなるわけで、配球の妙は抜群。しかし欠点はある。シュートに力がなく、またときたま大きくくずれることだ。スタミナ不足にも起因しているようだ。ノンプロの三井田川炭鉱の野口正明監督がいっているように「調子のいいときは手がつけられない。彼の長所は外角球のスピードとコントロール、シュートに研究の余地があるが、打者との駆け引きなど新鋭とは思えない。欲をいえばバネがほしい。十五、六勝はできる」しかし藤田同様球が軽い。これとスタミナが井投手の課題となろう。長身から外角低目いっぱいをつく速球はカミソリのような切れ味がある。オーバーハンドからスムーズなフォームだから角度もあるわけだ。ノンプロからプロ入りしたなかでは北川(日本ビールー国鉄)と肩を並べる存在だ。同僚の江藤捕手とともに今月で日鉄二瀬を退社するが「家庭の事情で大学志望をとりやめたが、いずれにしろプロ入りする決意には変わりなかった。幸い二瀬の濃人監督の暖かい指導で、一人前としてあつかってもらえるようになり、こんなうれしいことはない。この恩に報いるにはまず、プロ入り第一歩の新人王を獲得することだと思っている。希望はできるだけ大きく持ちたいですよ」と喜びを語った。
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小野泰敏

2017-03-20 12:22:58 | 日記
1970年

ことしでプロ生活四年目。昨シーズンはウエスタン・リーグで・323の好打率(リーグ三位)を残し、左打者という利点もあって一軍入りにあとひと息のところまでこぎつけている。みにくいアヒルの子の一羽だった小野の胸のあたりには、だからひとむらの白にコケがはえ始めたというわけだ。いきなり「なんてったって四年目ですからねえ。自覚しますよォ」ときた。自覚の現れが自主トレだ。郷里の行橋で走り、百道寮に帰ってからも和田教室でがむしゃらにがんばった。その成果が「からだが軽いんですよ。馬力がつきました。フリーバッティングでも、からだ全体でバシッと打てますからね」というベストコンディションとなって現れた。だから小野クン、もっか大いに欲を出してきたところである。「去年までと違って、ことしは最初から上(一軍)で通用するバッティングをやっているんです。いまから固めて、代打で一番勝負をやるつもりなのです」代打には2打席目はない。当たり前の話だが、小野クンの発想はここからスタートする。「だからフリーバッティングでも気を抜かないで打ってます。たとえ練習でも打てないとむしょうにくやしい。恥ずかしいと思います。気持ちが充実してきたのでしょうね」自分を見つめる目もかなりたしかなようだ。登録は外野手だが、キャンプではブルペン捕手もつとめる。「捕手はやめたはずだったけど、ボールに目をならすのにはピッタリだと思ってやってます」というから、なかなか重宝な選手だ。入団二年目から公式戦には何度かベンチ入りしたが、そのたびに「上との力の差を痛感させられて」二軍に逆戻りしている。「自分に腹が立ちますね。あんなときは・・・。親兄弟にすまないと思いました」実感だろう。「相手チームからはきらわれ、チームの中では後輩にしたわれる選手になりたい」というのが願いだが、171㌢、72㌔という体力の限界はわきまえており「雑草のように生きたい。そしてたとえ小さくてもいいから、ぼくなりの花を咲かせたい。それもすぐには枯れないような花を・・・」とつけ加えた。二十一歳の小野クンは、なかなかの詩人でもあるようだ。
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上薄淳一

2017-03-20 12:08:12 | 日記
1970年

「ぼくより重い背番号はない。こいつを軽くすることです」上薄選手は選手で一番大きい76にいささか抵抗を感じているようだ。きっと、心の中ではいまにみておれ、このおれだってー歌の文句に似た強い決意を燃やしていることだろう。だが、背番号同様に体格も新入団選手の中では抜群のもの。「身長182㌢は荒武、広野、木下につぐ第四位で、新人選手からは早くもロングというニックネームがつけられた。体重は72㌔、長身がことさら目立つのは「ウエート不足」だからだろう。「目標、76㌔」と上薄選手はいう。背番号が目標体重というわけだ。「淳ちゃんは、ぼくと違ってしっかりしている」という花田投手とともに川内実からライオンズ入りした。「とにかくチャンスによく打ってくれるので助かった」そうだ。「肩には自信がある」上薄選手は胸を張り「きっと大型内野手になってみせます」とキッパリ。「どちらが先にレギュラーになるか」と励まし合っている。上薄選手の悩みはラーメンだ。「やっぱり、おやじのが一番うまい」というのは、食堂を経営する父親淳美さん手づくりのラーメンを食べられなくなったからだ。「こんど川内に帰ったときは思いきり食べてくる」と楽しみにしている。もう一つは上薄という名前。「うえうす、うえうすい、かみうすなどいろいろいわれる。ほんとうはかみすきです」-。趣味は「食べること」という。二十三日の福岡後援会の激励会に招かれたときは目を細めてばくついていた。「ことしの新人はたのもしいほどによく食う。私も大食漢だった」と稲尾監督。
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淡河弘

2017-03-20 11:54:54 | 日記
1967年

熱狂するネット裏のファン。その中に、ひとりとり残されたような淡河(おごう)=巨人捕手=がいた。味方のリードを喜ぶでもなく、ゲームの展開を見つめるでもない。沈みきった目は、グラウンドの一点を動かなかった。母の死ーそれは、あまりにも突然だった。七日あさ、福岡県久留米市の自宅付近を歩いていたヤスノさんは、走ってきた自転車と衝突、後頭部を強打して近くの病院に収容されたが、意識を回復しないまま、十日午前二時九分息をひきとった。知らせを聞いて淡河は七日よるとんで帰ったが、ひとこともことばをかわすことができなかった。葬儀いっさいをすませ、この日の試合前帰京したが、ナインのなぐさめのことばに、ただうなだれていた。「信じられないんですヨ。まだ・・・ほんとうにまいった」淡河には、大きな悔いがある。野球好きの母を東京に呼び、後楽園球場で自分のユニホーム姿を見せようという計画が、一度も実行できなかったことだ。「東京へさそうたびに、おふくろはありがとう、そのうちにネと答えたっけ、あのとき、なぜオレは強引に東京へ引っぱってこなかったのだろう」高校時代(久留米商)わけあって淡河はヤスノさんと別居していた。二年生のとき、ヤスノさんから一本のバットが送られてきた。このバットを使うと、不思議にヒットが出た。二年生の末に折れてしまったが、このバットで六割以上の打率をマークした。「いつまで悲しんでいてもしょうがないのはわかっているんですけど・・・。人生にこんなつらいことがあるとは知りませんでした」プロ入り六年目になるのに、公式戦に出場したのはたった十三試合。あとはもっぱらブルペン捕手。いま巨人のリードに声をあげて喜ぶネット裏で、かれが巨人の選手であることを知っているファンは何人いるだろうか。絶え間なく爆発する三万八千人のエネルギーあ、いまはなき母を思うひとりの青年を、より孤独にうつしていた。「でも・・・がんばらなくちゃあ・・。あすからまたユニホームを着ますヨ」巨大なエネルギーに反発するような、かれの最後のことばが印象的だった。
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奥柿幸雄

2017-03-20 11:41:00 | 日記
1966年

下宿さき(静岡市南町二の五の四、才茂方)の応接間で奥柿にバットスイングをしてもらった。じゅうたんの上に素足。力がこもらないはずなのに、振りは鋭かった。バットを高めにかまえるダウンスイング。腰がふらつかない。童顔の面影を残しているのに、目だけがキラリと光った。二度、三度・・・。スイングはさらに強くなったが、フォームはびくともしない。見守っていた静岡商野球部本間文雄部長は「手首のよさは抜群」とたのもしそうにいった。それでいながら奥柿は首をかしげて、こういう。「ボク、野球に自信ないんです。甲子園でホームランを打てたのも、まぐれみたいで・・・。ましてやプロ野球選手になるなんて、考えたこともありませんでした」アトムズが交渉権獲得というニュースに、奥柿は、むしろどうしたらいいか分からないという表情。甲子園でみせた豪快なホームランも、あの闘志も、どこにも見られなかった。「学校から帰って、はじめて知りました。プロ野球は遠い世界のことと思っていましたから、自分のこととは思えない。もう少し野球を身につけてみたい。それには大学へいくほうがいいと思います」これだけいうのに十分もかかった。テレ屋でくち数も少ない。本間野球部長は「性格はのんびりしている。自分の人生設計を考えるところまでいっていないから、大学を出るまでに、考えたほうがいいでしょう」と進学を主張している。奥柿は足がものすごく大きい。中学(静岡県・浜岡中)時代、一塁に力走する途中、スパイクシューズがぬけてしまったことがある。現在のクツの大きさは十一文半。中学時代はそんな大きなスパイクはなかった。かかとがはみ出しそうなのをはいて、この大失敗をやらかした。静岡商に入学してから奥柿の世話をしている才茂安吉さんは「特製のスパイクを作るのに、苦労しました」とニガ笑いしていた。そのくせ手は意外に小さく、神経質な面もある。一年生のとき、勉強に追われ、野球でしぼられ、とうとうすっかりまいってしまったことがある。「八人きょうだいの末っ子だから、甘えん坊なんだナ」と本間部長もお手あげのてい。プロ入りするか、大学進学かの判断も、学校や世話になった才茂氏など周囲の意見によってきまることになりそうだ。
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牧憲二郎

2017-03-20 11:24:27 | 日記
1976年

牧憲二郎投手(29)-熱心な野球ファンなら「高鍋高(宮崎)時代に甲子園で活躍、四十年にドラフト一位で南海に入団した、あの選手か」と、すぐにピーンとくる人もいるはずだ。この二シーズン、阪急のバッティング投手としてV2に貢献した。だが、シーズン終了後に牧を待っていたのは任意引退の通告だった。たとえバッティング投手でも「もう一度マウンドに」というひそかな夢を持ちつづけてきた牧にとって、それは大きなショックだた。普通ならスパッとプロ野球から足を洗うところだろうが、牧は阪急にとどまった。「野球に未練がある。選手でなくなったことは寂しいが、阪急の優勝のために役立ちたい」。球団側の希望もあって専門のバッティング投手として再契約。第二のプロ野球生活を歩き出した。

牧は南海に四年いて、四十五年に阪急に移籍した。南海時代は0勝2敗。阪急では四十七年に3勝3敗。それ以外は故障で泣かず飛ばずだった。入団して二年目に右ヒジを痛めたのが命取りとなって大器とさわがれながら大成しないまま十一年間の選手生活にピリオドを打った。「一線でバリバリ投げていたのなら十一年も短く感じたでしょうが、私の十一年はヒジとの戦いで長かった」阪急は四十九年から野呂瀬、渡辺守、そして牧の三人を選手登録のバッティング投手にしていた。この三人が「選手にカムバックする夢だけはいつも持っていた」といっている。オレはバッティング投手だからと決して投げやりな気持ちにはならなかった。そこには現役選手としての肩書があったからだった。牧は野呂瀬、渡辺守よりも入団のいきさつからして、夢が捨てきれなかった。四十七年には日本シリーズのマウンドに立っているとあればなおのことだった。「バッティング投手は全力投球するわけじゃないし、だからたなみ全力で投げてみると、自分でもびっくりするような球が行くんですね、そんな時はオレもまだやれると、そう考えるんです。いまの私には日本シリーズで投げたんだという誇りがある」バッティング投手を言い渡されたとき、牧は「二十七歳だったので別の就職口を探そうかと思った」球団にこのことを打ち明けたところ「重要な任務なのでそれなりの保証はする」ということだったので球界に踏みとどまった。投手出身ならだれでも出来るというものではない。バッティング投手としてのセンスが要求される。牧はコントロール、球種ともバッティング投手として一級品だったのだ。バッティング投手はただマシンのように投げまくるだけ。時には一時間以上も投げ続けることもあるが、試合前の練習では20分~30分というのが常識。一日に30分の仕事だと考えると楽なように感じられるが、バッターの調子をチェックしながらのピッチングはかなりの重労働だ。「自分が調子のいいときなら、自由自在にコースに投げ分けることも出来るが、バッターが不調で私もコントロールが悪いときなどは気疲れする。時間給なら高給取りですがね」と苦笑する。Bクラスの待遇をしている。巨人を破ってV2を達成したときの功労金はAクラス並みの分配だ。牧がいまやりがいを求めているのは、阪急の縁の下の力持ちとして優勝に貢献することだ。「渓間社長も理解があるし、上田監督も気を使ってくれる。監督からご苦労さんと声をかけられると、その日の疲れも吹き飛んでしまいますね」-俊子夫人と結婚して七年になるが子供はまだいない。八年ぶりに正月を故郷の延岡で迎える。心の片すみにある選手への未練を断ち切るためかもしれない。
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井上守・岩本勝・松崎勝志

2017-03-20 09:21:02 | 日記
1964年

ベテラン松並、中京商で林(南海)とバッテリーを組んでいた大森両捕手が整理された。松並は第二捕手として活躍していたが、さいきんは岡村、住吉の若手におされてしまった。八年間在籍した人見も去る。ここ二年間、胸部疾患で療養していたが、ついに野球生活を断念する。通算打率・243、本塁打22本、打点153。若手のうち井上、岩本は新阪急ビル。松崎は東京の阪急交通支社に勤務がきまって、新しいスタートを切った。
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上条高敬・押田令三・新井彰・小林英幸

2017-03-20 09:15:06 | 日記
1964年

国鉄から移った小西が、一年だけで姿を消した。守備要員だった高井良、東京の高校球界では、珍しく大型投手とうたわた上条、代打要員として貴重な存在だった小林ら新旧交代の犠牲になった。このうち上条、押田、新井、小林の四選手は、すでに東京・三晃印刷株式会社に就職。模範的社員として、新しい職業にとり組んでいる。
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外国人 引退後

2017-03-20 08:53:08 | 日記
1975年

東映にいたあのけんかラーカーはいまどうしてる?中日にいたマーシャルは? 日本のプロ野球がスタートして間もなく四十年、この間、約二百五十人の助っ人がアメリカからやってきているが、意外に知られていないのが、その後の消息。成功者あり、さびしく死んで行ったものあり、帰国後はまちまちだが、日本を去ったあとを追ってみると・・・。

「もう日本では二度とプレーしたくない」と、ことし近鉄をクビになったアンドリウスが帰国後あちこちでグチをもらしている。しかし、こんな例はごくまれ、ほとんどの選手が、帰国後も日本での生活をなつかしがり、チャンスがあればまた再来日したいという希望を持っている。昨年太平洋に入り、わずか1試合で故障した巨漢ハワード。帰国したあとも「日本でプレーしたい」とあちこちのコネを願ったが引き受けてなし。このほど3Aスポーケンの監督に就任した。帰国後の出世ナンバーワンは、ブリュワーズの副会長になったジム・バーマ(元西鉄内野手)。ブ軍にはゼネラル・マネジャーのポストがないため、事実上のゼネラル・マネということになる。友というのはありがたいもの。西鉄時代の同僚ロイは、バーマの推せんでブ軍のマイナー、A級の監督をやっている。大リーグの監督になたのは元中日のジム・マーシャル。現在カブスで指揮をまかされ、二度もパ・リーグの首位打者になった元西鉄のブルームをコーチに迎えている。ブルームは日本にいたころオツムが寂しかったのに今は黒々、フサフサ。どうやらカツラのお世話になっているらしい。今季ワールド・シリーズでレッズに惜敗したレッドソックスの三塁コーチが東映にいたドン・ジマー。一昨年までパドレスの監督だったが、日本式。トックンを採用したのが裏目に出てクビがとび、いまはコーチに甘んじている。中日にいたドン・ニューカムは同じ球界復帰でも背広のフロント組。古巣ドジャースに戻り、広報、プレス関係をあつかう職についている。変わりダネは名遊撃手として南海入りして期待を裏切ったジョニー・ローガン。ミルウォーキーに帰り、ウデがなくノドを生かしてブリュワーズ担当のアナウンサーだ。野球界とすっかり手を切った選手も多い。こちらの方の変わりダネは元阪急の投手だったフレッド・リック。日本で覚えた味覚を生かし、故郷ワシントンで開いた天ぷら屋が大受け。りっぱな経営者におさまっている。東映で人気があったラーカーは、かの有名なルート66を昼夜の別なく吹っ飛ばす長距離トラックの運転手。ハンサムで人気のあった同じ東映のボブ・クリスチャンは、二年前、二十九歳の若さで死んでいる。さて、いまいる助っ人来年やってくる新顔たちは・・・。
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