プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

川畑和人

2017-03-02 22:55:54 | 日記
1971年

あっという間の一撃だった。延長十回の大洋の攻撃。トップ重松に回って川畑の投げた初球はど真ん中の速球。重松がこれをのがすはずはなかった。快音を響かせた打球は飛び上がって差し出した谷沢のグラブの数㍍上を越え総立ちの観衆の中へ飛び込んだ。今季初先発、大健投川畑の四球目、失投ともいえる悔しい一球だった。「重松さんのすきなコースへいっちゃった。今度は自分でもタマが生きていると思ったけど、あの一球だけは死んじゃった」余程くやしかったのだろう。川畑はゲームセットと同時に脱トのごとく球場を抜け出し合宿(名古屋市中村区向島)へ帰ってしまった。これは約十分後やっと電話でつかまえた川畑の声。文字にすればなんでもないが、受話器に響く声はふるえていた。「六回、自分で二つへまをやったから仕方なかったんです。よくやれたほうですよ」六回、無死からの重松、近藤昭の打球はいずれも川畑のグラブをはじいて内野へころがった。この回取られた1点で、川畑は勝負をあきらめたのかもしれない。姿をくらませた悲劇のヒーローがいないため、ベンチで大島コーチが報道陣に応対していた。「本当によくやってくれた。ただ惜しひらくのはあの一投。全く惜しいなあ」とうめくような様子。「川畑はチームのなかでは七回と並んで最もタマが速い。ただ問題は速球のコントロールだけ。速球はコースを誤ると痛い目に会うと口をすっぱくしているのだが・・・」しかし、大島コーチのことばは敗北を悔やむより、川畑がそこまでやった健投をほめていた。川畑は今季、キャンプのときから成長株の最右翼と期待されていたのに、チームの22試合目にして初めて先発はむしろ意外だ。これまで5試合に登板しているが、1-2回の短いリリーフばかり。それも大島コーチによると「ショート・リリーフでも一発を打たれるなど、コントロールが甘くて先発要員に入れたくても入れられなかった」やっとさる七日、中日球場でウエスタン・リーグの阪神戦にリリーフで4回投げ6三振を奪う好投をみせ、大島コーチも先発起用に踏み切ったのだった。目下、水谷寿、渋谷、川内にたよっている先発要員に川畑が参加できるメドが立ったことは中日にとって何より明るい材料といわねばなるまい。
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斎藤芳明

2017-03-02 22:16:43 | 日記
1966年

ことしの第一回ドラフト会議の選択選手のうち、正式入団契約第一号が誕生した。阪急・丸尾千年次スカウトは、十七日午前、栃木県鹿沼市上材木町「藤田酒屋」で同球団が交渉権を獲得した斎藤芳明投手(鹿沼農商)と両親、藤田武同校野球部後援会副会長、山中野球部長、阿久津正明監督と三度目の交渉を行った。その後、斎藤側の関係者が話し合った結果、本人及び家族、学校側その他も斎藤のプロ入りに反対はなく、このほど正式契約を結んだ。今年度第一回新人選手選択会議は九月五日行われ、両リーグ合わせて百人の選択選手が決定したが、各球団とも現在交渉を重ねている段階。斎藤が正式契約の一番手になった。なお、斎藤の父親正雄さんは山林の伐採業、斎藤は三人兄弟の長男。

斎藤芳明投手の話 「プロ野球界に認めてもらえたことがとてもうれしい。阪急に入団したら、思いきって自分の力を試してみたい」
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菊村徳用

2017-03-02 21:22:41 | 日記
1975年

悪さぼうずで通っている菊村だが、そこはなんといっても18歳。一週間も前に先発を言いつけられていたのに、試合前から顔がひきつっていた。「オープン戦など、いくら負けてもいい。わしは、キャンプの延長、実戦練習のつもりでいる」とカネやんは言うが、ネット裏千四百円。内野七百円の入場料は安くない。カネやんの唯一のサービスは、ドラフト一位、期待の左腕、菊村の先発にあったのだがー。捕手の村上が、ミットを地面すれすれに構えて「押えろ、押えろ」とアドバイスするが「何がなんだか、さっぱりわからない」という菊村には何の効用もない。トップ大下をストレートで歩かせ、苑田には得意のカーブを左前へ、三村には直球を左越え。二死から三走・苑田におどかされてボーク、とさんざんな立ち上がり。二回になるとまるでストライクが入らなくなってしまった。「緊張したんですかね。夢中で、何もわからないうちに終わってしまって・・・」「カーブ投げればカン。ストレート投げればカン。セットポジションから三塁走者を見たら、苑田さん、いきなり走り出して、あっけにとられてしまって。あれ、ボークです」「広島をなめたのかなあ、いやそういうつもりはないんです・・・」だんだん、言うことまでおかしくなってー。菊村クン、試合からはなれても、また雲に乗っているように、からだがふわふわしているみたいだ。ロッテは、別に菊村の好投を期待したわけではない。「お客さんも見たいだろうし、菊村にはプロのきびしさを知ってもらいたかった。だから、きょうは大へんよい日でした」というカネやんである。「菊村は二年後にものになればいい。おそらく、もう登板はないでしょう。三井がそうだったように徹底的に鍛えます」くせのないフォーム、大きくなりそうなからだ、鋭いカーブ。菊村はやはり大器だ。投手王国ロッテは、じっくり菊村を育てるつもりだ。昨年の新人王・三井のように菊村が意外に早く出てくるとしても、後半だろう。ロッテの左腕はことしも水谷一人とふんでいい。
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バッキー

2017-03-02 20:16:43 | 日記
1967年

ネット裏、投手のタマがいちばんよくわかるところに巨人の高橋スコアラーがいた。バッキーの調整ぐあいを調べるために急ぎ、東京からやってきたという。コートのポケットから分厚いノートを取りだし、投球内容を分析する。「バッキーは昨年ウチに1勝6敗。もっか6連敗中だが、ことしはスリークォーターからオーバースローにフォームをかえたというので警戒している。やりそうだネ。スピードが違う」高橋スコアラーはバッキーの状態を国際電話でベロビーチにいる川上監督に報告するそうだ。「巨人がワタシのピッチングを調べにきているというニュースは知っていたが気にしない。ボクサーが公開練習をするようにワタシも公開ピッチングをしただけ。自分では順調に調整ができつつあるように思ったのだが、巨人のスパイはどうみただろうかな。ひとつ意見を聞こうか」バッキーは、巨人のスパイ網など問題にしていない。そんなことよりも、昨年、巨人にこっぴどく打ち込まれながらも、いまなおマークされていることをよろこんだ。「どうだ。まだ巨人がワタシをつけねらっている。きょうのピッチングがよかったので、ちょっとびっくりしたのと違うかな。だが、こんなものじゃあないよ。これから直球にスピードを増していく。まあ、オープン戦はじめてのテストピッチングとしたら合格だ」大きなゼスチャアをまじえて自分のピッチングをベタほめする。投球数は42球。スリークォーターから投げたのはスライダー4球だけだった。あとのフォームはすべてオーバースロー。左足を高くあげて投球態勢にはいる。昨年とはかなり違ったフォームだ。「左足を高くあげればステップは自然に大きくなり、ダイナミックなフォームになる。そうすればスピードはでてくる。また、左足を高くあげたとき、ヒップを打者に向けるぐらい腰をまわせば、さらにスピードを増すはずだ。米田のピッチングをみてそう思った」ベンチにいるとき、米田のピッチングをくいいるようにみつめたのも米田の長所をとりいれるためだった。「インサイド、アウトサイドにタマをきめるよう心がけた。だからコントロールはよかっただろう。とくにオーバースローのドロップはよかったはずだ。ニガ手の打者にはこのタマでストライクをとりにいく。ドロップのテストは上々だった」オープン戦初登板で阪急打線を実験台にしたバッキー。長池にホームランを打たれたが、それは実験台にした阪急打線へのサービスのつもりだったそうだ。
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三輪田勝利

2017-03-02 19:52:52 | 日記
1969年

「きょうは自分のすべてをだしきって投げました」-ベンチに帰った三輪田は、水をのむと、ホッとした表情でこういった。シャットアウト勝ちは、昨年秋の対慶大戦以来という三輪田。この日はスリークォーターから投げる勝負ダマのスライダーが、よくきまって、立大打線を6安打に押え、通算10勝目をあげた。「フォームにこだわらず、無我夢中で投げました。そしたら完封勝ちになっていました」タオルで顔をふきながら話す。先日(二十一日)東大戦で打たれたので、どうしてもーという気持ちだったようだ。その横で、石井監督が報道陣にとりかこまれていた。「あんなに好投するとは思わなかった。東大に打たれたので、慎重に投げたのだろう。タマがよく散っていた」と、うれしい誤算とでもいったくちぶり。それでも、三輪田はピンチがなかったわけではない。二回連続安打をあびた無死一、二塁と、八回、無死一塁で上位打線とたいしたときだ。「二回のときは、まだ回があさかったので、それほどでもなかったが、八回はヒヤヒヤだった。幸い相手が打ち上げてくれたので・・・」と、自分の好投よりも相手打線に救われたという顔つき。三日前からカゼをひいたことも四回一塁ベース上で左足をスパイクされたことも忘れてしまったように、軽い足どりでロッカールームへ・・・。文学部三年、中京商出身、二十一歳。
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李源国

2017-03-02 19:35:20 | 日記
1967年

ゲンちゃんー李のことをナインのだれもがこう呼ぶ。戸倉監督も濃人ヘッドコートもそうだ。昨年六月永田オーナーにスカウトされてオリオンズ入りしたとき、一番最初に覚えた日本語がゲンちゃんだった。まさか自分の名まえだとは知らず東京・高円寺の合宿で寮長をしている石谷に「ゲンちゃんてなんのこと?」と質問し、石谷をびっくりさせた。来日したばかりで、西も東もまったくわからない李だったが野球にかける情熱は日本の青年と少しも変わらなかった。だがピッチングは未熟だった。ストレートは猛烈に速いが、捕手の構えるミットから速く離れ行く先はタマに聞いてくれという手のつけられないものだった。当時の植村二軍ピッチングコーチもはじめはどこから手をつけようかと、迷ったそうだ。そのうえ片コトの日本語が話せても、細かい技術的なことになるとまったくちんぷんかんぷん。それでも李はひたむきにピッチングと取り組んだ。そんな李をみて植村コーチは「からだはやわらかいし、スピードも抜群、投手としての素質がある。基本から徹底的に鍛えればかならずいける」と確信をもちながらも、同コーチの頭の中は混乱つづきだった。とくに腕の振りと腰の回転がともなわなかった李を手とり足とりつきっきりの英才教育。あるていどフォームが整い、投手らしくなったところで、上からのカーブを徐々に教えた。このカーブ、コーナーにこそ決まらなかったが、スピードのあるストレートとミックスして大洋打線を悩ませた。「先発はきのういわれました。4点もとられたが勝ってうれしい」九回裏、大洋の重松が遊ゴロに倒れると大きな勝利投手の賞品とヘルメット、バッグをかかえてベンチに出てきた李は、童顔をくしゃくしゃにした。「この間、ホームラン打たれたでしょう。あんなこわい人が大洋にもたくさんいるといわれたので、低めにしか投げなかった」二十六日のサンケイ2回戦(横浜)で徳武に打たれた一発が教訓となり低めのピッチングになったという。「カーブもよかったでしょう」と笑う李だが、小山コーチは「まだ、まだ。70点というところだ。いま李に勝負ダマのコントロールをつけろというのはムリかも知れないが、公式戦で働くにはもっとコントロールをつけることだ」ときびしい採点をした。だが大洋の近藤昭は「いいストレートを投げていた。もう少し投げ込めば本物になるヨ」と打者の立場から李の将来性を買っていた。
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