プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岡本凱孝

2017-03-26 13:58:24 | 日記
1966年

飯田監督が巨人戦を前にして考えたことは、ON分離のほかに柴田、土井の足封じだった。塁に出したら必ずかきまわされるうるさい足。これを阻止するにはー。ほぼ力のそろった岡本、根来、島野の三捕手のうち、モーションがすばやくて肩の強い島野が浮かびあがった。だが、この日飯田監督はあえて岡本を先発メンバーで出場させた。「負けがこんできたときこそ打力本位の打線を組まなくては、強いチームに反発できない」というわけ。七回、岡島が打席に立っているあいだ中、岡本はずっと「きっとヒットしてくれるように」と祈ったという。「もしあそこで岡島さんが打てなかったら、次の回にはぼくの打順は先頭でまわってくる。そうしたら、代打を出されたと思うんです」ホームランは内角低め。先発の城之内の球がめっぽう速かったため宮田の球は速くみえなかったという。「宮田は内角ばかり攻めていた。岡島さんに投げた六球のうち、四球までインサイドの球だった。だからきっと内角球を攻めてくると思った」念のために次打者にいた須崎に「森が内角へ構えたら教えてくれ」とたのんで打席に立った。一球目にその須崎からサインが出た。宮田の一球目はねらいどおり内角へ。試合後岡本は「長島さんが八回に三遊間安打した球と同じだったそうだ。内角低めのボールくさいコースだってね。ぼくはあそこだけしか打てないんですよ」と大喜びだったが、実は須崎は森のかまえをみて外角というサインを出していたのだ。岡本はこれをてっきり内角のサインと勘違いしたわけだが、宮田の球も森のかまえと逆に内角へ走った。岡本は勘違いに助けられたわけだ。「この前の後楽園(五月六日・三回戦)で宮田からだいぶファウルを打った。あのときいけると思っていた」という。「岡島さんが同点打したとき監督に自由に打てといわれた。それで自信をもった。オレがそんなに信用されたかと思うとうれしくてね」いつもはみのがす初球から打ち気に出たとき、すでに宮田に打ち勝っていたようだ。ちゃめっ気があり、向こうっ気が強い。投手リードも強引。この日、フリー・バッティングをみながらマークするのは長島ひとり、王はだいじょうぶだときめてかかっていたが、「長島さんにはウラのウラをかかれた。当ってますね」と頭をかいた。
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中田昌宏

2017-03-26 13:40:58 | 日記
1964年

走者を一、二塁において中田が十二回裏一死、打席にはいったとき、時間は連盟規約の廿一時三十分(をすぎたら新しいイニングにはならない)を三十秒オーバーしていた。山下球団営業部長に三十秒オーバーをきいた岡村が中田につめ寄ってなにか二言三言。うなずく中田を西本監督もよび寄せた。「落ちついていけ」それだけだったそうだが、中田のこのひとことでそれまで力のはいっていた肩が急に軽くなったそうだ。お祭りさわぎの阪急ベンチがしずまり、うす暗い裸電球の下で西本監督と中田が報道陣につかまった。「時間切れでしょう。楽に勝てている試合を引き分けてみろよ。ワシは最初から思いきりたたこうと思った。初球をひっぱたいたらファウルや。だがあのファウルでいけるぞという予感がしたな。打ったのは真ん中にはいってくる速球やったな」一足先にベンチを出る中田を西本監督は呼びよせて握手した。「近鉄には自信があったからな」思わず二人の口から出た言葉は同じだった。中田はことし近鉄戦には不思議によく打つ。これで近鉄からの打点は17。「別に近鉄だからという気持ちはないんだが・・・。だれだって好きなチームはあるもんだよ」ゲーム前「とにかく接戦になったら、スペンサー、石井晶の一発と、中田を警戒すればいいんだ。あいつらには痛い目に合わされているからな」といっていた近鉄・今久留主スコアラーの心配したとおりの結果になった。「とにかく、相手はどこでもいい。打てるときに一本でも打っておかなければ、それこそおまんまの食いあげだ。ウチの外野を見なさいよ。何人でポジションを争っていると思う。いくら調子がよくても、きっかけがつかめにゃ、出られないんだ」ことしは外人もはいった。それに早瀬、衆樹、梁川、石川、山本と息を抜くヒマもない。「ウチが今シーズン優勝を争えるようになったのも、内外野ともこれだけの競争相手ができたからやで」とプロ入り八年目で初めてハッスルしている。昨年の秋季練習からこれまでのゴルフ・スイングを水平打法にかえた。西本監督は「とにかくまじめだし努力家だ。もうチームでも古参組に数えられるが、自分でも納得のいくまでフォームの欠点を聞きにくる。若手に中田のツメのアカでもせんじてのませたいよ」と殊勲打を当然のようにいった。
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田辺修

2017-03-26 10:55:02 | 日記
1970年

名古屋の三連戦に三試合とも1点差。それが東京にまでつづいて連夜の逆転劇。中日ナインはムシャクシャがいっぱいにつまっていたところ。試合前にベンチで一枝が「巨人を意識しすぎるんだ」とはがゆさをぶちまけていた。最近の巨人は順調に勝星を重ねているが、先発投手はこの夜の城之内を含めて九試合連続KOされている。打線も主に十一試合本塁打が出ないなど完調とはいえない。それなのに勝負強く勝っているところは一枝のいうように他球団が巨人は強いという虚像に幻惑されているようだ。その巨人のバケの皮を六試合ぶりにやっとはいで悪循環を断ち切った立役者は、ことし近鉄から移籍した田辺だった。田辺は三十八年近鉄に入団。最高の勝星は四十年5勝で、七年間にわずか10勝。昨年一昨年と0勝を続けていた。ところがことしは投手難の中日でたよりにされ、今夜の勝利で8勝目。星野仙についで二番目の働きぶり。玉のような汗をぬぐいながら田辺は「きょうはインコースがよくきまった。そんなことをいうと今度はインコースをねらわれるかな。ONどころかどのバッターもこわいですよ」と勝率までの不成績が頭に残っているのか、威勢のいい営業はきけなかった。しかし根は気の強い田辺のこと。口とはうらはらにどうしてどうしてONに真っ向から立向った堂々たる勝利。王には3回、左にうまく流されて二塁打。これがきっかけで1点をとられたが、長島には4打数無安打。「ランナーをためたらダメだと思ったので・・・」と無四球を説明していたが、王をこわがり、たいていの投手は四球を出すもの。その王のいる巨人相手の無四球試合は、田辺の言葉とはうらはらに「ONなんてこわくない」という強気のピッチングを物語っていた。
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野村克也

2017-03-26 10:38:09 | 日記
1966年

鶴岡監督が放心したような顔で引きあげてきた。野村が息を切らせながら話すのもめずらしい。興奮して、夢中で走った証拠だろう。バック・スクリーンに打ち込んだのに、スタンドの中段ぐらいだろう、と間違っていった。「満塁でサヨナラなんて、まさかね。ピッチャーでいえば完全試合みたいなもんや。もちろん今シーズン最高の当りや。まだドキドキしているわ」無理もない。この8号で通算三百二十四本、満塁ホームランは六本になるが、決勝満塁は初めてだ。ふつうの息づかいになるまでに二分ほどかかった。野村らしい細かい分析が出てきたのはそのあとだ。「1-3になったとき、ヒットは打てると思った。いつもならスナップをきかせて投げてくる石井茂の手がカチカチにこわばっている。絶対ストライクがくるという確信もあった。外角低めのスライダーだったが・・・」ヒットを打てば同点になる。歩くつもりはなかったそうだ。「きょうもフリー・バッティングでは悪かった。半田コーチからグリップがさがっている。胸のマークよりまだ下だといわれた。そういえば最近高めの球が打ちづらくなっている。グリップに気をつけて打ったのがよかったのかもしれん。打ったのは低めだが、高めが打てない、打てないと悩んでいるとほかの球にも手が出なくなるんだ。四、六回にヒットが出たし気分もよかったな」九回の攻撃が始まったときベンチで冗談をいった。「ワシまで回ったらサヨナラ・ホームランを打ったるで」その通りになった。期待もしていなかった勝ち投手になった村上がわざわざ握手を求めにきたとき「お前大もうけやな」と手を出した野村の顔は晴れやかなものだった。あすは日曜で幼稚園が休みの長男・陽一君(5つ)が久しぶりに正子夫人と観戦していた。この陽一君の手を引いて引きあげる野村に黒だかりになって待っていたファンが「バンザイ」を連呼していた。
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