プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中村邦弘・杉本喜久雄

2017-03-13 22:27:59 | 日記
1960年

昨年の高校野球全日本軍に選抜された倉敷工中村邦弘投手(18)はこのほど大毎入りが決定した。まだ同校のエース杉本喜久雄投手(18)は広島入りする。中村、杉本両選手は昨年選抜、選手権大会に出場、当時からプロ野球のスカウトにねらわれていた逸材。中村は東映、西鉄、阪神、大毎が動きかけていたが、大毎は三宅スコアラーがプロ入りする二十五年春まで、同校の監督をしていたことで、終始他球団をリード、阪神は、昨年のキャプテン三宅内野手をとったOB会関係のルートで最後まで食い下がったが、およばなかった。杉本は東映、阪神、広島、国鉄、西鉄、阪急がねらっていた。中でも東映、阪神、広島が熱心だったが、左投手がほしい広島は藤村コーチがほれこんで、岡山出身の木庭スカウトと一緒に熱心に説得したものがものをいったようだ。

大毎・三宅スコアラーの話「中村君は入団の確答はまだもらっていないが、八分どおりはきてくれると思っている。スケールの大きい長打力のあるバッターなのでウチのチームにはうってつけの選手だ」

広島・岩本球場部長の話「大体ウチにきてくれることになるだろうと思っている。具体的な話はまだこれから行うところだが・・・・」

中村邦弘外野手 昨年の選抜、選手権両大会に出場。夏の大会では太田高中島投手(阪神)から本塁打し、二試合で打率四割二分九厘、打点5を記録、アメリカ遠征の全日本に選ばれた。ことしの県予選では19打数で三塁打1、二塁打2を含む七安打、三割六分七厘の高率を打ち、高校球界でも指折りのスラッガー。1㍍70、70㌔、左投左打。

杉本喜久雄投手 昨年選抜、選手権に出場、選手権では一回戦で太田高を4安打におさえている。緩急二つのカーブと打者のひざもとをつく速球に威力があり、岡山県の№1投手。ことしは選抜、選手権大会ともに米子東高に出場をはばまれたが、夏の予選では38回投げて24安打、29三振、6四球、5失点の好成績をマークした。1㍍72、68㌔、左投左打。
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村上俊義

2017-03-13 17:12:52 | 日記
1964年

村上が「トレードか、自由契約にする」を命じられた理由は一軍では使えないというだけではなかった。ほかにもあった。藤本監督は「ファームのコーチから村上はいらないといってきた。なにか理由があったのではないか」白坂ファーム責任者は「その点については監督に聞いてくれ」とそれぞれことばをにごしているが・・・。村上は徹底的な個人主義者だったといわれる。そのため、チームワークという点で問題を起こすことが多かった。ファームコーチの命令にそむくこともたびたびだったといわれる。ファームで12勝、前途ある投手をクビにした一番の理由は村上の性格にあったといえる。この点、自業自得といってよいが、ファームで12勝した投手がクビになったという点に問題が残るのではないか。「とにかく一軍に入れてもらえるのを楽しみにやってきた。コーチもウエスタンの成績がそのまま一軍への道になる。しっかりやらねばとぼくらにハッパをかけた。そしてウエスタンで優勝したんだ。それが、こんごの仕打ち。ファームにいるものはどこに目標を置いたらいいんですか」と村上はうっぷんをぶちまける。もっともな話だ。「ファームで一生懸命やり、いい成績をあげても、なんにもならない」-という気持ちをファームの選手はいだくのではないか。これが心配だ。
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村上俊義

2017-03-13 16:59:59 | 日記
1964年

阪神はさる一日から、来シーズンの契約更改をはじめた。問題の人、村上は、初日に球団から呼ばれた。午前十一時から大阪・梅田の阪神電鉄本社三階会議室で岩間常務と話し合った。会議室にはいるまえ、村上はことし12勝、最多勝利投手になった実績があるだけにかなりの昇給を予期していた。だが、岩間常務の口からでたことばは全く意外なものだった。「来シーズンのメンバーにキミははいっていない。トレードの申し入れがあれば出してやるが、ないときは自由契約選手にする」村上はびっくりした。そして返事もそこそこに会議室を出た。どうだったの?いあわせた二、三人の記者が聞いた。ブ然とした表情で村上はこたえた。「ことし12勝もしたのに・・・。ファームではいくらがんばってもいかんのだろうか」そのあと記者は戸沢社長に、村上をトレードか、さもなくば自由契約選手にした理由を聞いた。「ファームでは働けるが、一軍では使いものにならないからだ」村上は、東筑高を出て三十五年の暮れ、ブリジストン・タイヤから阪神入りした。ブリジストン・タイヤでは中日の権藤と同期。入団発表の席でも胸をはっていったものだ。「ぼくはブリジストンでは権藤よりタマがはやかった。速球には自信がある」前半、中日入りした権藤は30勝を記録していた。報道陣は村上の自信の強さに目を丸くした。村上はことばどおりタマはめっぽうはやかった。だが、コントロールがなかった。このため三年間鳴かずとばずに終わった。ことし、藤本監督はこんな村上に目をかけた。タマがはやいところから、巨人戦用のピッチャーにと考えたのだ。キャンプでは杉下コーチがつきっきりで教えた。監督自身が手をとって教えた場面もたびたびみられた。その結果、コントロールもかなりよくなり、一軍では働けなかったが、ファームでは最多勝投手になるまで成長した。「ことし一軍にあげてもらえなかったが、来年はがんばる」と公式戦終了後話していた。十一月十三日の長崎を皮切りに行われた九州の四強オープン戦のメンバーにも村上ははいっていた。村上にとってはオープン戦は一軍にあがる登竜門といってもよかったのだが、結果はかんばしくなかった。十四日の佐世保のゲームで救援に出たが、1回1/3投げて被安打3、自責1。リリーフの役目をはたせなかった。そしてこの日のピッチングが「あいつは一軍では使えない」と球団が考える決定的な動機となった。
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村上俊義

2017-03-13 16:38:26 | 日記
1964年

自由契約の宣告を受けた村上俊義投手を西宮市宮西町、夙川(しゅくがわ)苑アパート16号室にたずねて現在の心境をきいてみるとー。阪神香櫨園近く、夙川の堤防下にある文化住宅ふうのアパート、その二階いちばん奥が村上投手の住まいだ。「村上俊義、和美」の表札もまだ新しい。ガウン姿であらわれた村上は、さる十一月三日に生まれた長男、貴(たかし)ちゃんの寝顔をみながら「本当に考えてもいなかったことです」と、さびしそうな顔つきでこんごのことについての話をはじめた。「トレード要員、もしトレードの申し込みがなければ自由契約にするー一応トレード要員ということですが、もうお前はいらんということでしょう。ボクも、こんな商売ですから、ある程度の覚悟はいつもしています。女房にもいって結婚しました。しかし、今シーズンはこれまでの欠点だったコントロールもよくなって12勝した。自分でもピッチングというものがある程度わかったし、これをきっかけに・・・と思っていた矢先でした。こどもも生まれたことだし、はやく契約をすませて故郷の福岡県の両親に孫をみせようと考え張り切って出かけました。ところが自由契約でしょう。ショックでしたネ」村上は一気にしゃべった。「やる気がない、二軍ではよくとも一軍では通用しない。といったことがいわれているようだし、藤本監督はウチは投手陣が豊富だから、村上自身のためを思ってトレード要員にしたといっているともきいた。でも、やる気がなくて12勝もできるでしょうか。一軍で通用するかどうかということも、実際にやってみなくてはわからんでしょう。昨年までは腕、腰と故障がちだったので、こんどこそ機会を与えてもらっていいと思っていた。しかし、九州地区のオープン戦も、ちょっと投げただけで、すぐ帰される始末。力を発揮する間もないですヨ。いろいろいいたいことはありますが、球団がいらないというならどうしようもありませんがネ」いまさら文句をいっても仕方ないというのが村上の心境である。自由契約までの条件であるトレードについては「申し込みがあれば球団から連絡するということになっていますが、ボク自身はまだまだ野球をつづけたいから、トレード話さえあれば喜んで応じますヨ。でも相手がなければ仕方がないし、自分で話を進めるといってもルートがありません。当分はこどもの相手をして申し込みを待つつもりですが、ダメだったら故郷に帰って商売でもしなくてはいかんでしょう。残念ですが仕方がありませんヨ」トレード申し込みにすべてを託している村上だが、この希望はかなえられるだろうか。
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種部儀康

2017-03-13 13:39:38 | 日記
1972年

南海の種部儀康二軍投手コーチ(34)は二十六日退団を申し入れ、新山社長もこれを了承した。この日、来季のコーチ編成のため、新山社長が各コーチに「来季も南海でやる気持ちがあるかどうか」と確認をとったさい、種部コーチが退団を申し出たもの。退団後は家業(鉄工業)に専念するという。
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中西勝己

2017-03-13 12:51:10 | 日記
1960年

大毎の慎太郎こと中西はマウンドからおりた直後はちょっと興奮していた。特徴のある早口がよけい速くなって聞きとりにくい。「苦しかった回? そんなのないけど、いやな回は五回だった。やらんでもええ一点をやってしもうてハラがたってかなわんわ」一点をとられたことが興奮の原因とすれば調子はすこぶるよかったのだろう。「はじめはボールが多かった?違う違う、あれはね意識的にボールを散らしたんや。きわどいコースばかりついてみたんや。だからボールになってもちっとも困りゃせん」報道陣の質問は否定されつづけた。「カーブを投げなかったのはヒジが痛いから?違う違う。向こうはカーブ、スライダーをねらってくると思ったから直球とシュートばかりで勝負したんや。八回森下を三振にとったのが会心のスライダーよ。ちゃんと投げられる」しゃべっているうちに興奮がさめてきた。二回森中の4球目をボールにとられたとき、ホーム・ベースまで走って捕手のかっこうでストライクだと抗議したことを「オレのいたずらや。あとで沖さんにあやまるよ」と上きげん。先発をいわれたのは試合前だったが、西本監督以下徹底的にとぼけた。本人も医務室の舞台にねころんだりして中西先発を報道陣にかくした。十一日に右ヒジに打球を受けて以来、都内豊島区椎名町の吉田接骨医宅に通いながら傷の状態を聞かれても電話口に吉田医師を出して答えてもらうほどの慎重さ。傷の経緯は本人の口からなんともいわれないうちに突如おどり出して南海を血祭りにあげたわけだ。しかしそのあと「右手がしびれていうことがきかん」といい出し、ロッカーにもどると二回に死球を受けた山内といっしょにフロにはいらずにすぐ吉田接骨医宅へ向かった。その途中ロビーから外へ出るまで中西はつぎつぎに女性ファンの握手を受けなかなか前へ進めない。スカッとしたふんい気からいつとはなしに慎太郎というアダ名がついたほどもてる中西でもある。
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青木宥明

2017-03-13 12:32:40 | 日記
1960年

プロテクターをはずした島球審はいう。「球はビチビチ生きていた。私はストライク、ボールの判定をみるだけで球の種類はよくわからないが、いつになく球にのびがあったようだ。森捕手が外角に構えているとビューッと内角にきたりする。イン・シュート、アウト・カーブなど過度に荒れていたのが効果的だったようだ」島球審がそういっていたころ青木はロッカーで報道陣にペコペコ頭を下げていた。「ぼくにきょうのピッチングのことをしゃべらさないで下さい。しゃべるとまた調子が悪くなるから・・・・」それでもしぶりながら青木の語ったことは・・・。「太りすぎたので多摩川で毎日走った。一貫八百匁(7㌔)減った。いまちょうど二十貫(75㌔)あと一貫(3・75㌔)くらい減るとベスト・コンディションになる。井上さんに本塁打されたのは真ん中、シュートをかけたつもりだったが、浜崎さんにあんなものがシュートなものかとしかられた。まだまだシュートがきまらない。体の動きはぐっと楽になったけど相手は中日だし、きのう先発をいい渡されたときはビックリした。これからまだ投げられるか?そんなことわからない」森捕手の青木評は「低目によくきまった。青木の持ち味であるコースぎりぎりの球が生きてきたのがよくなった原因じゃないか。スピードがまだないから、コンビネーションには苦心しましたがね」ピシャリと根性論で青木の再起を断定するのは浜崎コーチだ。「多摩川で一生けんめい走ったからだ。やる気を起こして体をつくれば彼はまだまだ投げられる男だ。開幕当時と全然かわらぬ低目のコントロールが出てきたじゃないか」最後に佐々木信也氏の青木観は「低目に集まっていたことがきょうの青木のよかったところ。開幕当時にくらべればスピードは落ちているし前の方から大きく切れるカーブがなくなっていて、それほどいいとは思われない。中日の右打者はほとんど左へ、左打者はほとんど右へ打っていたこと、それが青木のスピードがなかったいい証拠だ。下手投げの石川(緑)を坂崎、与那嶺、王など巨人の左打者がよく打ったのに反し、サイドの青木を中、本多など中日の左打者が打てなかったのが青木を助けていた。青木はまだ完全なカムバックとはいえないのではないか」
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