プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大石清

2017-04-01 22:27:49 | 日記
1961年

大石が一番最後にロッカーへ帰ったとき河村が声をかけた。「あぶない、あぶない、とられるかと思ったよ」なんのことかと思ったら九回の右中間二塁打がホームランになりそうだったからだ。広島の投手は投手がホームランを打ったら全員が五百円ずつ出し合ってお祝いを贈ることにしている。七、八千円になるそうだ。河村はこれをいったわけだ。「はいると思ったのにな。ヘイの一番上に当ったらしい。ホームランならゼニははいるし、あすの新聞に巨人の11連勝をはばむサヨナラ・ホーマーなどとデカデカ出るのに、惜しいことをした。あのバッティング・フォームをみてくれましたか」とバットを振るマネをみせた。「あありっぱなフォームだったよ。打者に転向したらどうかね」と河村がひやかすと「ぼくも本気でそれを考えているんですよ。はじめの三振以外はみなバットの真シンだったですからね」バッターかピッチャーかわからないような大石の快気炎に河村もへきえきし逃げてしまった。大石は集まった記者団に「だれかタバコをくれませんか」といってハイライトをもらい一服吸ってやっとピッチングのことを話しだした。その腕は汗でドロドロ。顔にまで砂がついている。「スロースライダーがよくきまった。風がライトへ吹いていたでしょう。ギッチョの打者がこわくて。広岡さんのホームランもふつうならはいっていなかったでしょう。王、坂崎は外角ばかりねらい、長島にはむかっていった。ちょっとムキになりすぎるくらいね」六回には2球つづけて長島のアゴのあたりへ投げている。ビーンボールがときかれて「いや、気の弱いぼくになんか投げられませんよ」と一応否定したあと「といっておかないとたいへんだから・・・」と本音を吐いた。昨年はジャイアンツ・キラーといわれた大石もことしはこれが初勝利。「これからどんどん巨人さんに負けてもらいますよ」大石は不敵なことをいった。
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桑田武

2017-04-01 19:41:09 | 日記
1963年

砂ぼこりがウズ巻く多摩川グラウンド、バッティング・ケージのうしろで三原監督と桑田がバットを持って向き合っていた。巨人三連戦に備えて一日午後の練習のときだ。「私のみたところでは、いまの君は前のめりの感じでなでるように振っているようだ。つまりバットが線の形を描いている。それをちょっとしゃくるようにしてみてはどうかな。そうすればバットが点の形でポイントをとらえると思うんだ」三原監督はみずからバットを振って中西(西鉄監督)長島(巨人)の打ち方をしてみせる。開き終わった桑田はそのしゃくる打法を黙々とためしていた。ふなれな遊撃の守りに気疲れしたのか、このところ桑田のバッティングはもうひとつ気迫に欠け、フォームもくずれていた。「一番いいと思って組んだスタート・メンバーで押し切れない」代打の活躍で切り開いてきた最近の勝ち星は「野球の本スジからはずれている」という三原監督は、打線の柱である四番桑田の調子がやはり気になっていたようだ。「バットの握りぐあいがどうもしっくりしない」という桑田は、二日から握りの太いバットにかえた。昨年の公式戦に使っていた舶来ものだ。「公式戦になってから使おうとしてしまっていたんだが、きょうからひとつ本番のつもりでやってやろうと持ってきたんだ」という。久しぶりの三安打の中で会心だったのは三回のホームランより五回の二塁打だったそうだ。「この前の川崎での南海戦(三月二十六日)でスタンカの内角シュートに連続三振したとき、ちょうど藤田、森ら巨人のバッターが見にきていた。だからきょうも必ず内角攻めでくると思っていた」藤田の内角シュートを見事に打ち返した五回の痛烈な三塁線二塁打で桑田はりゅう飲をさげたらしい。そうはいうものの三回久しぶりに打ったホームランのことになると顔はほころぶ。「やっとホームランの味を思い出した。ずいぶん出なかったものな。きょうで三本目だが確か三本ともセンターばかりだった。それにこの握りの太いバットで打ったやつばかりなんだ」この二十日ぶりのホームランを一番喜んだのはネット裏でみていた母親のともさんだった。宇都宮から車で三十分、栃木県塩谷郡仁炉田町がともさんの故郷であり、桑田も小学校のころ疎開していたところだ。「ほんとうにいいおみやげができました」前夜からお里帰りをかねてむすこの声援にやってきたともさんは満足そうに球場を出た。
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ニーマン・マーシャル

2017-04-01 19:06:51 | 日記
1963年

国鉄の打撃練習をいかめしい顔つきでベンチ前に突っ立ったまま観察したニーマン。「気楽にやるさ」と江藤の隣に腰をかけてニコニコするマーシャル。試合前の態度は同じ大リーガーでもまったく対照的だった。「あれが先発の金田かね」ニーマンは金田のピッチングもみのがさない用意周到さ。「試合は見たくない」はずのパトリシア夫人も貴賓席で観戦だ。いいところを見せたいニーマン。だがスターいじめで定評のある金田にかかってノーヒット。二人合わせて3三振という成績だった。杉浦監督は「はじめてだし、金田の調子もよすぎた。しかたがないよ」とかばっていたが、ニーマンもマーシャルも口をそろえて「金田のスネークボールにやられた」といっていた。スネークボールとは落差の大きいスピードを殺したカーブのことで、ヘビのようにグニャグニャ曲るという意味らしい。当の金田は「二人ともいいスイングをしているで。ボールをよく見て食いついてきよる。まだ調子を出していないようだが、ワシはきっと彼らは働くとみている。ニーマンにはすごみを感じるし、マーシャルもスキのないバッティングをしよる」と杉浦監督と同じようなことをいっていた。昨年渡米したときワールド・シリーズで代打に出たニーマンを見ている金田は、マーシャルとも日米野球で対戦ずみだ。「金田はいい投手だ。まったく打ちにくい球を投げる」という二人。あれでは打てないといわんだかりだ。カーブをスネークボールといったニーマンが四回の二度目の打席で大きな声をだして文句をいったのもこの球をつづけられて2ストライクをとられたときだ。スピードには自信があって大きなカーブは目を狂わせたようだ。それでもマーシャルが八回、三塁側に絶妙の送りバントをみせたのが両外人の唯一のいいプレーだった。吉田正男氏は「逆逆をついた金田のピッチングが二人の打力を完全に上まわっていた。スピードにはビクともしない外人でも、カーブでカウントをとられては手の出しようもなかった。マーシャルは初打席で2-2から一球胸もとをつかれたあと、外角速球をから振り。第二打席では内角球につまって内野フライ。ニーマンは第一、第三打席とも2-0、2-2から、第一打席はカーブ、第三打席は速球をみのがしているように、球についていけないのはコンディションが未調整のためだ。キャンプ、オープン戦とかなりの時間をかけている現在、彼らが調子を出していないのは理解できない」といっている。
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大橋勲

2017-04-01 15:59:05 | 日記
1963年

試合が終わった。ダッグアウトの一番奥でうつ向いていた大橋はノロノロと立ち上がった。片手にマスクとミットを持ち、プロテクター、レガースをつけたまま。多摩川の昼間の練習でもやけなかった色白の顔が目の回りだけがポッといやに赤かった。「どうだった?」ロッカー・ルームへ向かう途中の質問にも、うつ向いたまま。涙がポロポロこぼれていた。重い足どりー。「ぼくがまずかったんです」とボツリといった。いつもは陽気で、いいたいことをいう大橋が、初出場の結果を自分で落第と採点したのだ。ロッカーの中へ乱暴にレガースとプロテクターを投げ込んだあと、しばらくイスにすわったきり。フロへ行く藤田がそっと近づいて肩をたたいた。「気にすんなよ。オレが悪かったんだから・・・」それでもちょっとうなずいただけ。その間約十分。やっとプロへ行くため県下へ出た。「一生懸命やったつもりなんですが・・・」声がとぎれる。話しだすとまた新しい涙がホオをつたわった。「もうそろそろ出してもらえるとは思っていましたけど・・・。出るときはうれしかったんですが・・・。ボロボロするし、別にあがったとは思わなかったんですが・・・。三原さんに笑われてからなにかおかしくなって・・・・」六回島田(幸)の一ゴロで重松をホームでもつれながら刺したとき、三塁側コーチス・ボックスから三原監督が近よってきたときのことだ。「どうして三原さんが走ってきたのかわからないんです。でもあれからおかしくなりました」三原監督はこの点についてはなにもいわなかったが、得意の心理的な動揺を大橋に与えたようだった。「九回の藤田さんの暴投も、ぼくも押えなくちゃならないんです」もっともこの言葉はスムーズに口をついて出たのではない。とぎれとぎれに話す。その間によごれたタオルで何度も何度も目のふちをふいた。天知俊一氏は「六回重松に三盗されたときあせってポロリとやった。これがショックになったと思う。それにあまり動きすぎる。気をつかっているんだろうが、これがかえって十分プレーができなかった原因だろう。しかしこうせりあっているゲームにはやはり若い大橋は気の毒だ。長島の一打で大きくリードしておればもっといいプレーで初出場をかざれたかもしれない」と好意的。「思いきり泣けよ。ニヤニヤするよりいいぜ」と藤田は妙ななぐさめ方をする。船田、柴田の合宿組は「泣くところが大橋さんのいいところさ。でもキャッチャーってところはむずかしいポジションだからね」と大橋の気を引きたてるように陽気にさわいだ。ひとフロあびたあと「つまった当たりでもいい。こんどは一本ヒットを打つ。そしてもっといいプレーをします。これからですよ」また泣いた。だが試合直後の涙とはまた違ったカラッとしたものだった。
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大橋勲

2017-04-01 15:58:47 | 日記
1963年

試合が終わった。ダッグアウトの一番奥でうつ向いていた大橋はノロノロと立ち上がった。片手にマスクとミットを持ち、プロテクター、レガースをつけたまま。多摩川の昼間の練習でもやけなかった色白の顔が目の回りだけがポッといやに赤かった。「どうだった?」ロッカー・ルームへ向かう途中の質問にも、うつ向いたまま。涙がポロポロこぼれていた。重い足どりー。「ぼくがまずかったんです」とボツリといった。いつもは陽気で、いいたいことをいう大橋が、初出場の結果を自分で落第と採点したのだ。ロッカーの中へ乱暴にレガースとプロテクターを投げ込んだあと、しばらくイスにすわったきり。フロへ行く藤田がそっと近づいて肩をたたいた。「気にすんなよ。オレが悪かったんだから・・・」それでもちょっとうなずいただけ。その間約十分。やっとプロへ行くため県下へ出た。「一生懸命やったつもりなんですが・・・」声がとぎれる。話しだすとまた新しい涙がホオをつたわった。「もうそろそろ出してもらえるとは思っていましたけど・・・。出るときはうれしかったんですが・・・。ボロボロするし、別にあがったとは思わなかったんですが・・・。三原さんに笑われてからなにかおかしくなって・・・・」六回島田(幸)の一ゴロで重松をホームでもつれながら刺したとき、三塁側コーチス・ボックスから三原監督が近よってきたときのことだ。「どうして三原さんが走ってきたのかわからないんです。でもあれからおかしくなりました」三原監督はこの点についてはなにもいわなかったが、得意の心理的な動揺を大橋に与えたようだった。「九回の藤田さんの暴投も、ぼくも押えなくちゃならないんです」もっともこの言葉はスムーズに口をついて出たのではない。とぎれとぎれに話す。その間によごれたタオルで何度も何度も目のふちをふいた。天知俊一氏は「六回重松に三盗されたときあせってポロリとやった。これがショックになったと思う。それにあまり動きすぎる。気をつかっているんだろうが、これがかえって十分プレーができなかった原因だろう。しかしこうせりあっているゲームにはやはり若い大橋は気の毒だ。長島の一打で大きくリードしておればもっといいプレーで初出場をかざれたかもしれない」と好意的。「思いきり泣けよ。ニヤニヤするよりいいぜ」と藤田は妙ななぐさめ方をする。船田、柴田の合宿組は「泣くところが大橋さんのいいところさ。でもキャッチャーってところはむずかしいポジションだからね」と大橋の気を引きたてるように陽気にさわいだ。ひとフロあびたあと「つまった当たりでもいい。こんどは一本ヒットを打つ。そしてもっといいプレーをします。これからですよ」また泣いた。だが試合直後の涙とはまた違ったカラッとしたものだった。
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ラドラ

2017-04-01 15:05:40 | 日記
1961年

「監督さんがね、いうてくれたのね。大きく振るな。シャープにいけいうたよ」むらがる報道陣とカメラマンの顔をひとつずつかぞえるように見渡してラドラはだいぶうまくなった日本語であいそがいい。「ぼくはずかしいよ。こんなみんなにきかれるの。すごくなかったよ」久しぶりという言葉をしばらくさがしているようだったが、忘れてしまいすごくなかったというおかしな言葉でおぎなって舌を出した。「打ったのはストレート。米田も満塁にしたから初めからどんどんくると思ったよ。バットをチョンと前に出すゼスチャアをして)だからこうバットを出しただけ。思ったより大きかったね。監督はね、米田を稲尾と思えいうたよ」ラドラは七回米田が無死で二塁打に出るとすぐ稲垣とかわった。いまや完全な守りを認める二塁手となった。水原監督はいう。「ラドラはモーションはまだ内野手ではないが、基本に忠実だ。きょうだって六回二死三塁で山下の当然二塁手が処理するゴロを稲垣がとらずに山本(義)がとっている。稲垣は出足がそれだけ遅くなっている。ラドラだったらそういうことはないからね」だがラドラはいま好調でない。胃腸を悪くしてこんどのオールスター戦の休みに投球病院で精密検査をしてもらうことになっている。それに頭が痛いのはハワイにいる奥さんのことだ。「なかなかビザがおりないのよ。ベビー?男よ。上の子は女でこんど男。それ、うれしいけど日本にこないのよくないね。からだよくないとき奥さんほしいよ」ベンチの上に鈴なりになったファンがジャック、ジャックとさけぶ。一人一人に長い手をさし出しながら奥さんほしいよといって報道陣にウインクしてみせた。
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ハドリ

2017-04-01 14:37:33 | 日記
1963年

森中がブツブツいいながら荷物を運んでいた。電気がま三つ、ウイスキー三箱、ワイシャツ三枚、ヘアトニック三箱、まだそのほかに三組いずつの品物がつづく。「たいへんな役目を引き受けさせられたもんや。ハドリの運搬人やから」帰りのバスに運び入れる森中はウンザリした声を出した。二試合で九打数七安打、うち本塁打三本、三組みの品物は本塁打賞でもらったもの。第一試合をきめた七回の3号2ランから第二試合の5号2ランまで六打席連続安打。十一歳のときから野球をやり出したが、こんな記録は初めてだそうだ。第一試合で、打たれた若生は「球がスーッとはいっていきよった」と妙な顔をした。第二試合の堀本は「最初のはシュート。次はシンカーや。なか二日の休養でリリーフして翌日の先発はワシにはやはりムリや。それにしても二本も打たれるなんて腹が立つ。こんどは顔にぶつけてくれるわ」と腹にすえかねた表情。ハドリは「ことしははじめてからキャンプに参加したのでベスト・コンディションだ」打ちまくった原因を藤江マネの通訳でこう話した。ところが尾張スコアラーにいわせると「キャンプのサーキット・トレーニングでアゴを出して呉のキャンプでは満足に練習もしていない。日本人のコンディションからみれば決してベスト・コンディションじゃないはずだ」という。してみればこれは逆立ちしてもどうにもならない体力の差か。「大毎投手陣をどう思ったか」と聞いてみたら「今夜は非常によく打てて有頂天なので、若生、堀本の調子はわからない」打たれた投手へのエチケットを心得て心憎い発言だった。来日して二年目になるが、日本語はまるでダメ。もうひとつダメなのは下手投げ投手に弱いことだそうだ。最後に藤江マネはこうハドリの言葉を伝えた。「ことしは打てそうな気がする。二割八分は打ちたいと思っています」昨年の成績は二割六分六厘。本塁打11本。
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谷本稔

2017-04-01 12:33:38 | 日記
1961年

あっさりしていてユーモリストの谷本はチームの人気ものだ。このところスランプ気味だった谷本が、今シーズン大毎初のサヨナラ・ホーマーを打ってロッカーは大騒ぎだ。まず松浦代表が、この人には珍しい大きなゼスチャアでだきつく。ベンチで一度握手したディサがもう一度握手にくる。九回裏二死2-3。ベンチから別当コーチの声がとんだ。「タニ!ホームランやで」とたんに左翼席へ。谷本が一塁につかないうちからベンチは総出でグラウンドにとび出した。「なんにもわからん。とにかくボーッとしよって・・・」乱れとぶザブトンをかいぐるようにしてホームインすると、谷本はそんなことばかりくりかえした。乱れた息がなかなかおさまらない。「ねらっていたな」囲んだ報道陣はつぎつぎに同じ質問をくりかえしたが、しゃべろうとしてはハアハア肩で息をはく。やっと息をつくと「はじめは一発とは思ったけどね。2ストライクとられたらもうそんなこと頭になかった。内角高目の直球。高目にさえきてくれたらとは思ってたけど、きょうの土橋は低目のスライダーがすごくよかった」ホームランする2球前、そのすごくいい低目のスライダーがボールとなった。不満そうな東映のバッテリーだったが谷本は「あれストライクにとられてもしようがないよ」と東映に同情した。「でもあれがすっかりかたくなっていた気分がやわらかくなっちゃった」と舌を出す。谷本は五月二十八日の対南海ダブルヘッダー第一試合で、左足に死球を受けてから練習にも出なかった。「もう痛みはないけど、こういうこともあるもんだね。これですっかり気をよくしちゃったな」谷本はディサの日本語教師。二度も握手したディサは、もう一度ユニホームを着がえてから谷本にだきついていた。
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船田和英

2017-04-01 12:14:57 | 日記
1963年

浜松で生まれ浜松で育った。小さいころから海をみて遊んだので船乗りになることが夢だった。からだを鍛えるためスポーツは手当りしだいにやったが一番好きだったのはサッカー。足には自信があった。「中学まではほとんどサッカーで過ごしました。浜松商にはいったときも九分九厘サッカー部へはいるつもりだったんですけど・・・」野球部にかえた理由がまたふるっている。「ちょうどうちに新品にスパイクが一足があったんです。もらいものでずっとしまってあったのですが、使わないのももったいない気がして・・・」スパイクを使うために野球部にはいった。思いつめる方ではないらしい。「ええ、くよくよ考えたりは絶対にしません。でも逆に楽しくなると有頂天になっちゃうんで困りもんです。すぐ気がゆるんじゃってね」悪いクセだと自分から指摘した。ことしのオープン戦でもそうだった。スタートの西鉄三連戦ではホームランを打ってはりきったと思ったら、つづく南海戦ではサッパリだった。大洋戦で打ちまくれたのは、広島戦で当たり出したとき、気のゆるみをとくに警戒したからだといった。二十一日のダブルヘッダーでは五打席連続、八打数七安打とあきれるほどの当たりよう。打率一位、貢献率三位へ躍進した。「8-7なんてまぐれでもいいところ、打率一位も一週間もてばいいでしょう」とさかんにテレたが「調子はベスト」と胸をはった。「公式戦ではたいていの投手と初対面なんですけどいまは少しもこわくないんです。カーブだろうが、シュートだろうがなんでも打てそうな気がするんです。にが手のアウトコースを攻められても不思議にバットがよく出るし、打席にはいっても気持ちはフリー・バッティングのときより軽いもんです」明るく笑った。しかし先のこととなるとやはり慎重な口ぶりだ。「目標ですか?これからずっと出してもらうことですね。打率は二割五分が守れればいいと思ってます。ホームランも十本から十五本打てれば上でき」ことし日大に入学した弟の勝正君(18)=軟式庭球部=のことでいまおかあさんが上京中だが、船田はこんな約束をした。「ぼくの夢はね。リーディング・ヒッターをとって東京に自分の家を建てることなんだ。きっと実現してみせるから、そのときはおかあさんいっしょに暮らそうね」船田はいま給料の三分の二を送金して、その日のくるのを楽しみに待っている。
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村田元一

2017-04-01 11:46:44 | 日記
1961年

「きっと調子がよかったんでしょう。勝てたんですからね」村田はひとりごとのようにいった。勝っても負けてもかわらない村田だ。「長島キラー? とんでもない。むこうが向かってきたからぼくも向かっていっただけです。凡打にとったのは二度ともスピードです。スピードだけです」直球のことをスピードというクセがある。もっそりと帽子をぬぎ、ドロまみれの手でアセだらけの顔をツルンとなでた。うれしいのかうれしくないのか表情はまったくかわらない。そんな村田に金田が声をかけた。「きょうはよかったぞ。おそれいったよ。ほんまにええところみせてもらった」水をかぶったような村田の顔を金田は大きな両手ではさんだ。村田ははじめて笑った。しかししゃべり方は相かわらずスロー・ペース。「ただカンで投げただけなんです。ぼくは頭が悪いから考えるピッチングなんかできないですよ。巨人の打者はみんな強気だった。振りまわしてました。しかしタイミングが合わなかったんですね。ぼくのスピードはあったといえます」最近の村田は力投しながらバックがふしぎに打ちかえせず勝ち星がふえなかった。村田といえばツイてない男の大名詞のようなものだった。そこがこの夜は六回に5長短打を集中して6点。「ここんところツイてないのにはすっかりなれてました。それがきょうはバカツキ。これからよくなりそうですね」報道陣の輪がとけるとロッカーの水道のところで村田は足を洗った。それからフロ場へ。「フロ場で洗うのめんどうでしょう。ここで足を洗ってザブンととび込んじゃうんです。おかしいですかね」江戸っ子らしくフロはカラスの行水。国鉄きってのモダン・ボーイらしく、すっきりした背広をこれまたスピーディーに着がえた。「ああ眠くなっちゃった」ほんとうに大きなアクビをしてみせると、かけ足で球場を出た。話しているとき以外はすべてのスピードのある村田だった。
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河合保彦

2017-04-01 10:50:46 | 日記
1961年

川崎監督が西鉄の打線を据るとき、必ずといっていいほどほめるところが一か所ある。それは河合、和田の打てる捕手を八番にすえていることだ。「ぜいたくなんだよ、彼らを八番におくのは・・・。西鉄以外なら五、六番は打っていいバッターだ」この日は河合がエラーでひろった得点以外は全部たたき出した。昨シーズンはプロ入り最高の7ホーマーを記録したが、今シーズンは今夜の3ランですでにそのタイ記録。自分の本塁打記録は野球生活十年目で完全にぬりかえられる。「ホームラン?シンカーじゃなったかな。ランナーがいたし、梶本は内角へシンカーを投げて併殺をねらうつもりだったのだろう。それが高かったので沈まなかったようだ。ボールの回転はたしかにシンカーと思ったが・・・」さすが捕手だけに投手の心理を読むのはお手のもの。ヤマを張っていたようだ。「今シーズン好調の原因は」「走者のいるときが多く、どうしてもという気持ちからボールにくいついていける。それ以外になにもないだろう。腰の痛みは守備についているときだけこたえるね。打つ方は別に関係はない」今夜の4打点で今シーズン22打点。これは西鉄では豊田(32)田中久(29)についで三番目。スラッガー?河合は思わぬところですごみを発揮している。
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堀内庄

2017-04-01 10:03:41 | 日記
1962年

九回の別所コーチのかっこうといったらなかった。立ったりすわったり堀内の一球一球にモジモジ。ゲームが終わるか終らないうちにイスをけとばすようにマウンド目がけて走り出した。「やった、やった」そのスピードは、遊ゴロで一塁へ走る最後の打者長田より速いくらいだった。別所コーチが気遣いのようになったのはワケがある。堀内にここ三年間、完投勝利の記録がなかったからだ。「なんとか堀内に完投の味を思い出させてやりたい」といっていたものだ。堀内の方はやたらにテレくさそう。「久しぶりで恥ずかしいや。笑ってくれといったって笑えないよ」ロッカーへ帰ると床へベタリとすわり込む。「うれしくないといえばウソになるね。なにしろ三年間、北海道で広島とやったとき以来だもの。やはり投手は完投しなくっちゃね。それでもことしはやはり大洋戦で九回と三分の一まで投げたことがある。だから必ず近いうちに完投してやろうと思っていた。しかし正直いったら完投したより、うちの4連敗を救ったことの方がうれしい」フロから出ると堀内は堀本に頭を下げた。これも理由がある。堀本はこの夜の堀内にとってピッチング・コーチのようなかっこうだった。堀内のピッチングに腰がはいらないので、それを一回ごとに注意したのがきいたらしい。この堀本の陰の力になったのは藤田。四回まで堀内がパーフェクトにおさえていたので、ベンチやブルペンで早くも「完全試合だ」といい出すものがいた。それを藤田は「そんなことをいうとダメになるから」とナインにかん口令をしいて気を使ったそうだ。フロからあがって着がえを終わった堀内は、勝利投手賞の金千円なりを大事そうにそっともちあげた。「ありがたいことです。さあこのお金は女房にやろう。いつもお世話になっているからね」最後は愛妻物語りになった。
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横山光次

2017-04-01 09:51:28 | 日記
1961年

伊藤がビックリしたような顔で「打ちよった。いっていたとおりや」とすっとん狂な声をあげた。横山が一回2ランを左中間に打ちこんだときだ。横山は「絶対に本塁打を打つ」と宣言した。というのは広島球場で本塁打を打つと賞品に魔法ビンがもらえる。横山のねらったのはこの魔法ビンだ。「家にないのは魔法ビンだけや。それでぜひともせしめて大阪へのおみやげにしたかったんや」魔法ビンに奮起した横山は第一試合が終わると控え室で食事。三宅(秀)や吉田がにぎり飯をばくついていたが、横山はパンとミルク。「打ったの?エンド・ランがかかっていたんだ。まん中からちょっとインコース寄りのストレートや。弘瀬はもともとスピードがない。コーナーをチョロチョロとついてくるだけ、あんなところに投げてはあかん」となかなか強気だ。ことにこの間までは「全然調子がおかしい。悪いところがあったら教えてほしい」といっていたころとはずいぶんちがう。今シーズンは二番に定着しそうだったが、途中ガタがきてしまった。ベンチでくさる日がつづいていたが、やっと日の目をみるようになったばかり。「本塁打したからって調子はよくない。最低や。どうせ当らなんでももともと思い、最近バットを振りすぎるくらいめちゃくちゃに振っているんや。コーチが心配するくらい。それでちょっとはましになったんかな」調子のことになるとあまり話したがらない。ここでウフフとへんな笑い方をした。「いや、ぼくは縁起をかつぐんでね。知人や女性のファンが宿舎に電話をかけてきたりするとその日はいつもあかん。きょうはだれもこなかったので打てると思っていたんや。こんなことをやったら、伊藤とカケでもしておいたらよかった」子供のようにペロリとシタを出した。
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小池兼司

2017-04-01 09:35:23 | 日記
1961年

「ケン!トマト・ジュースでいこうぜ」「ケン!もう一度おありがとうござい」九回裏豊田が中前安打に出ると、ベンチから小池に声援がとんだ。トマト・ジュースは併殺に贈られる賞品だ。「最近は小池が遊撃にほぼ定着してめっきりトマト・ジュースが多くなったから、みんなただでもらおうとするんです」と藤江マネは笑う。「ええ、守備はおもしろくてしようがない」小池も自分で守備力を認めているのだから相当の心臓だ。「でも問題は打撃ですよ。きょうのは2本ともストレートです。まだ球を見きわめて打つなんて芸当はできんです。いつも親分に同じことをいわれている。あいつは外角が弱いとか内角がダメなんていわれるようになったらおしまいだって・・・。きょうはどっちも内角。これで外角を流したのがもう一本あるともっといばれるんだけど・・・」いうことははっきりしているが、声が小さい。ロッカーのすみへ自分でいって話した。小池一人で2度ホームベースを踏んで南海が勝った。「小さいときから走ることだけはいつも一番で、自信があったが、足の小池なんてプロへきたらはずかしい。いわんといて下さい。大先輩がいますからね」大先輩とは広瀬のことだ。しかしこういう大試合になるといちばんたよりになるのは森下だそうだ。「大学時代はナマイキにはでなプレーをしつづけた。ついそのクセが出る。すると森下さん、おこるんです。あの人にかくがっちり型。ぼく、いつもしめられている。それにあのひと、かけひきがうまい。きのう(十五日)次々に投手がかわるたびにタイムをかけてはベンチへスパイクをなおしにいったりして投手に肩ならしする時間を与えていたでしょう。あれぼくも早く見習いたいです」殊勲の話はいつの間にか先輩礼儀の話になった。
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