プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

渡辺政好

2017-04-26 22:01:56 | 日記
1967年

大洋の練習がはじまってから三十分間、渡辺君はマウンドで投げ続けた。「カーブをくれ」といわれればカーブを、「ストレートだ」といわれればストレートを投げる。桑田、松原、スチュアートー。つぎつぎにバッティング・ゲージにはいる打者の注文通りの投球をする。背番号は23-。松岡のユニホームを借りている。昨年までかれがつけていた58は、新入団の高垣(鳥取西高)に譲っている。渡辺政好君が福島工高から大洋に入団したのは三十七年。松原や佐々木らと同期だ。1㍍74、67㌔。線は細かったが、本格的なピッチャーだった。だが、一軍へのカベは厚い。三十九年ごろからは、ほとんどバッティング投手。昨年暮れ、ついに自由契約をいい渡された。家庭には慶子夫人がいる。桑田の紹介で、大洋ファンの久住晴雄社長の会社「クスミ電機」に入社した。社員三百人ほどの中企業。電気毛布や温蔵庫などをつくっている。プロ野球選手からサラリーマンへ。覚悟はしていたものの、すべてがとまどいの連続だった。一番気を使うのが礼儀作法。頭一つ下げるのにも、渡辺君には勉強だった。三月二十八日、はじめての日割り計算サラリーが一万四千円。四月が二万七千円。ともかせぎではあるが、生活は苦しい。選手時代の半分にも及ばない収入。六畳四畳半で月一万五千円のアパートも、近く安いところにかわろうかと考えている。スパッと忘れたプロ野球だったが、四月中旬、宮崎二軍監督に会ったのがカムバックのきっかけとなった。「東京での試合だけ、バッティング投手をやってくれ」といわれたのだ。久住社長も「やれ」といってくれた。四月二十五日の中日戦(川崎)から、渡辺君は投げはじめた。「桑田さんは、インコース低めが好き。松原はどこ、近藤和さんはどこ・・・」投げるコツは忘れるはずがない。この二枚看板は、あと二年くらいは続けるという。かれは五年間のプロ生活に悔いを残していない。やるだけの努力はしたという満足感すらある。入団二年目の三十八年六月、巨人戦(後楽園)で公式戦に初登板した。救援し、長島を四球で歩かしただけで、降板させられたが、このときの感激は忘れられない。「過去何千人の選手がいたか知れないけど、公式戦のマウンドを一度も踏めなかった人も多いでしょう。ぼくなんか、幸せもんです」ルーキーが脚光を浴びれば、その裏には球界を去る選手もいる。きびしい勝負の社会だ。「ぼくは東北出身で口べただけど、いっしょうけんめいサラリーマンになり切ります」渡辺君はこう約束してくれた。
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泉嘉郎

2017-04-26 21:34:57 | 日記
1969年

四回、スタンドがわいた。南海の先発、泉は二死二塁から江藤兄を迎え、2-0からどまん中へ直球をきめた。ぼう然と見送る江藤兄。三回まで完全に押え、この回、二死から木俣に三塁線二塁打されたのが初の走者。そこで文句なく、江藤兄を料理したのだがファンが喜んだのもムリはない。この1球、実は外角へはずすつもりが、すっぽ抜けてまん中へはいったそうだ。三振にしとめた瞬間、泉は思わず頭をかいてテレた。だが、ファンにはこれが大胆不敵なピッチングとみえたほど、この日の泉はすばらしかった。「落ちるタマ(シンカー)がよかったですね。勝負どころでは、ほとんどの打者に投げました」泉は予定通り六回を投げてベンチ裏のロッカールームへ出てきた。四回から、毎回ヒットの走者は出したが、いずれも二死から。あぶなげないピッチングで三塁を踏ませなかった。昨秋の日南キャンプで、投げ方の違う二種類のシンカーを完全にマスター。ことしの大方キャンプで、これまで一種類だけだったカーブの投げ方を二種類にふやした。この研究熱心な態度が、この日の好投につながっている。三重・菰野(こもの)高からプロ入りして二年目の四十年、二軍のコーチから「上手投げではプロで通用しない」といわれて、下手投げに転向した。それが、やっと実ってきた。「先発といわれたのは中村のキャンプから大阪へ帰ってくる前日の二十七日、はじめは、それほど意識しなかったけど、グラウンドにはいると、オープン戦の第一戦だと急に緊張しました。でも、よかったです。チャンスをもらって、自分のピッチングができたのですから・・・」泉は、うれしそうに笑った。「スピードもタマのきれも申し分ないです。これから、コーナーいっぱいのコントロールを磨きたい」という反省にも、明るさがあふれている。六年目に訪れたチャンス。「期待されているな」と、痛いほど感じるという。昨年はじめて、中継ぎながら公式戦に顔を出して(5試合)藤江コーチの期待をになった。牧とともに、ベテラン依存の投手陣をテコ入れするヤング・パワーの一番手だ。昨年一月、弘子夫人と結婚、当然その右腕には生活がかかっている。久しぶりにファームから南海魂を身につけた選手が出てきそうである。
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