プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

関根潤三

2017-04-12 21:47:31 | 日記
1963年

「ヒットの打ち方教えてください」試合前ベンチで女性のようなやわらかい関根の声がした。選手は笑って相手にしない。ベスト・テン3位、ちょっと当りがとまっていたといっても彼は巧打者だ。「四回の右前安打がきっかけになった。内角のカーブ、最近ぼくはあのポイントしか打てないんだ。土橋は知らなかったんだろう。見ている人は関根のヤツうまく打ったなと思っただろうが、そうじゃないんだ。力のはいり方がおかしかったし、フォームもバラバラだ」たとえホームランを打っても自分の考えたとおりのバッティングができないとふきげんな関根だ。「その点六回の二塁打は本物だ。一塁ベースの真上をゴロで抜いたが、ねらっていたとおりのコースにとんだ。七回の満塁一掃の二塁打?外角速球。左の橋詰だったからバットを突き出すように打ったんだ」落ちついたものだ。そのヒタイにはいく本ものシワが寄った。二十五年恩師藤田省三氏((近鉄初代監督)とともに近鉄入りして十四年。その間投手で七年、打者も七年になる。入団のとき「やるからには一流になれ」と藤田氏にいわれた言葉をいまも関根は忘れない。「第一、第二打席のカーブはふつうの左打者が打てば、きっとファウルになるむずかしい球だ。それをちゃんとヒット・コースにとばすのは名人芸だ」評論家の戸倉勝城氏も舌をまく。「つくづく思うんだ。十四年間、よく野球をやめなかったとね」近鉄の躍進を一番喜んでいるのは生えぬきの関根ではないだろうか。別当監督もいう。「潤ちゃん(関根のこと)が元気な間に優勝してチャンピオン・フラッグを握らせてやりたい」
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板東英二

2017-04-12 21:27:31 | 日記
1961年

マウンドの板東にナインから何度も声がかかった。「がんばれ英二」「とび出せ英二」そのたびに板東は童顔をほころばせて「はい」と答えた。その声があまり大きいのでスタンドは何度も笑いにつつまれた。試合が終わっても板東はあいそがいい。ベンチの上からぶらさがったたくさんの手にいちいち握手して持ち前のサービス精神を発揮。しかしピッチングの話になると気乗りうす。「あかんですよ。あんなピッチングじゃあ申しわけない。コントロールが悪かったですものね。それと前半とばしすぎです。カミナリ族みたいに早くからとび出したのが悪かった。だから後半随分ランナーを出したでしょう」ここまでいうと、もう板東はバスの方へ向かいはじめた。そのあとを報道陣が追いかけたが、板東はスイスイ歩く最後に「どうもスミマセン」と林家三平の専売特許でおどけ、バスにピョンととび乗った。前夜とその前の晩、板東は権藤と二人で合宿を出た。といっても無断外泊ではない。球団公認の外泊だ。というのは合宿が暑いので、先発投手にゆっくり寝てもらおうと球団が特別なはからいで市内八事の旅館にとってある冷房つきの部屋に泊まったわけだ。「なにしろ天皇陛下が泊まった旅館ですからね。最高ですよ」これは一緒に泊まった権藤の説明だが、板東も「二日間ぐっすり眠らせてもらった。おかげでランナーを出しながらも楽に投げられた」といった。なんでもその旅館は一泊五千円といううわさ。「それで負けては、それこそどうもスイマセンくらいでは追いつきませんよ」板東はここでまた三平の口マネをした。どうやら板東は大へんな三平ファンらしい。
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権藤博

2017-04-12 21:04:34 | 日記
1963年

六試合2勝1敗、防御率3・40、三十六、三十七年連続30勝(セ・リーグ記録)して権藤ドラゴンズとまで騒がれたエースにしてはものたりない成績だ。「真ん中に投げ込まんとダメなんだから・・・」と権藤はいう。新しいストライク・ゾーンへの不満だ。速球と大きく割れるドロップ。タテの変化で勝負するから「有利だ、といわれたのに外角いっぱいの直球をてんでとってくれない」と口をとがらせる。中の逆転2ランで敗戦投手はやっとのがれたが、阪神四回戦(五日・甲子園)でソロムコのホーマーを含め七安打、四回で降板したのもストライク・ゾーンのせいだといいたそうな口ぶりだ。だが女房役の江藤は否定する。「とんでもない。それが原因ならあの巨人戦(一日・後楽園)で完投勝ちなんかできるものか」杉浦監督も「権藤だって人間だから打たれるときだってある」と少しも心配していない。その証拠に七日から中日球場で行われる巨人三連戦では、権藤は巨人にひとアワ吹かせるつもりでいる。権藤には目標がある。三年連続30勝の日本プロ野球記録(いままで三人=スタルヒン、野口二、稲尾)への挑戦だ。投手の神様国鉄の金田にもできなかったこの大記録へ、ものすごいファイトをもやしている。目標というより義務だと信じ込んでいるようだ。ことしの契約のときことしも30勝を条件に大幅なベースアップを要求。会社を納得させたからだ。「ぼくは夏場にかけて強いんだ。昨シーズンは六月に5連勝、八月には8勝もかせいだ。ことしの手はじめはこんどの巨人戦だ。セ・リーグで一番こわいと思うのは巨人。その巨人をたたいてエンジンをトップに持っていくんだ」白い顔にサッと赤味がさした。
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野上俊夫

2017-04-12 20:51:27 | 日記
1976年
・意外だった。野上はサバサバしている。暗さはまったくない。
長い人生の中でひと区切りつけるというか、ワンクッションと割り切って、プロ生活にサヨナラした男。
「遅かれ早かれ、いつかはやってくるもの」野上はあくまでも楽観的に自らを見つめている。
11月8日に任意引退になってから1ヶ月が過ぎた。野上は依然として「どんな仕事が自分に向いているかを検討中」である。この姿勢は野上にとって大きな転換であった。どちらかというと周囲のムードに流されて漂うタイプだった。
市和歌山商のエース、強打者の両刀使いで甲子園を沸かせたときも「野球をやめよう」と思い、進学かプロで迷い、結局はドラフト1位で42年暮れに阪神へ入団した。迷いの人生は続く。「投手より、打者で進みたかった」のに、左投手不足という阪神の内部事情に流され続け「打者に専念させてほしい」のひと言がどうしても出せなかった。不運といえば不運でもあった。感情も自らの主張をも表面に出せない性格が、損なめぐり合せに輪をかけていった。阪神では2年先輩に藤田平がいた。何かにつけて比較されることは、「ポジションが違うので気にならなかった」そうだが、ズルズル歳月が流れるままに、ひとつの諦めだけが大きくなっていたことも認める。努力はした。しかし、俗にいうぬるま湯につかっていたことが野上自身、いま感じ取れる。阪神で7年、一昨年南海に移ったときはじめて「気分一新」の刺激があった。松田コーチがつきっきりで、埋もれた左腕を甦らそうと、マンツーマンで指導したが、またまた不運。肩を痛めた。洋服が着れないほどの痛みが襲ってきた。気のいい男は、また損をする。「あのときも肩が痛いと申し出ればよかった。肩をかばってバッティング投手を買って出たが、とうとう球が届かなくなった・・・」野球投手の生命はここで完全に断たれた。たったひと言の自己主張と自らのいたわりがなかったばかりにーーーー。
この男がたったひとつ首脳陣に希望を述べたのが今季で、それがプロとの決別の年になることを知りながら、「1年間だけバッターでやらせて欲しい」だった。
ウエスタンリーグ、54試合に出場、打率312.最終試合で4打数2安打なら首位打者を勝ち取る可能性があったほどの好打を披露した。穴吹二軍監督は「もう少し早く打者に転向していたらなあ」と、その素質を惜しんだ。考えようによっては、これまでその打力を認めようとしなかった周囲への最初で最後の抵抗だったのではあるまいか。
周囲からは「他球団に話してやろう」と、10年目にかける誘いもあった。しかし、あっさり身を引いたところが、いかにも野上らしい。
野上は述懐する。「ぼくにとって野球とは一体なんだったのだろう?好きでたまらないとは思えない。嫌いでもない。それなのに自分から野球を取り上げると何も残らない。そんなものだったようです」。
身を立て名を上げ、という野心と、他人を踏みつけても突き進む厳しさ。それらを持ち合わせない野上にとって、汗と涙にもまれた9年間は、いったい何だったのだろう、と自問自答した末の述懐だろう。
さて、この先、野上はどこへいくのだろう。職探しに奔走しなくてもいいほど、温かい誘いがあちこちらから伸びているようだ。「それだけでも恵まれています。ぶらぶらしていてはいかんのですが、一日も早く決めて再出発したい」という。
南海をやめた踏ん切りと、もう一つ自らを最大限に生かせる就職選びの踏ん切り。これまでズルズルと流されてきた野上に決断を要求される日々がきた。
大阪は阪急沿線の園田。神戸にも大阪にも足の便はいい。美子夫人と長女・麗奈ちゃんの3人暮らし。「机に座ってやる仕事より、なにか体を使って動き回るのがいいですね」と笑うまだ童顔の残る27歳。野球を離れることでこんな浮き浮きした表情をみせた人がいただろうか。
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