プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

柳田利夫

2017-04-15 11:31:10 | 日記
1961年

試合前の一塁側ダッグアウト。ある記者が「田宮が二塁とはもったいないねえ」と西本監督に声をかけた。それを聞いた西本監督は「それより一番をみてくれよ。開幕以来連続二本塁打したトップ・バッターをもっているチームなんかあるか」と日ごろ控え目なこの人には珍しい言葉。その柳田がこの日の一回三塁線二塁打を祓川に浴びせ大量点のきっかけをつくり、二度目の打席も足でかせいで二塁打と、大毎の連続安打を引き出した。昨年の暮れー東京有楽町の球団事務所で船田代表の前に立った太いマユ、角ばったアゴのヒゲづらの男。代表が「ねえ君、君は来年が勝負だ。参加報酬は少し低いかもしらんが、もしレギュラー・ポジションを確保したらシーズン中でも月給をあげてやる。いいね」立っていたのがこの柳田だった。これが奮起のきっかけとなった。キャンプ中の人が変わったように練習に励んだ。ゲリ患者が出た大毎で一日も休まなかった。三十三年、当時の白川二軍コーチにすすめられて練習に参加して以来、昨年まで鳴かず飛ばずの生活だったが全く見事の成長だった。第一線対西鉄一回戦九回に代打で出て稲尾からホームランを奪って以来ずっとスタート・メンバーに顔を出すようになったことはもちろんだ。「なんとなく調子がいいんですよ。どんなときでも自信をもってやれば打てますね」心臓の強さでは人に負けないとはっきりいう。「打つ方、走る方はまあまあになったから、あとは守備だけです」この日も一回広瀬の打球を胸にあてて内野安打にし、七回にも一塁に高投しているが「失策の分は打撃でとり返す。一度くらいヘマをしても平気です。これがボクのいいところです」とわりきっている。「今まですくうように打っていたのをかぶせるような打法に変えたら、いい当たりが出るようになった。この調子をくずさず二割八分は打ちたいですね。そのくらいの自信はあります」ともつけ加えた。新星柳田の進境は優勝をねらう大毎にはたのもしいかぎり。「船田さんとの約束が果たせそうです」とよろこんでいた。ビールなら十本は楽に飲めるという。福島県内郷高ー常盤炭鉱。
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西岡三四郎

2017-04-15 10:05:01 | 日記
1972年

野村が打席に立つたびに、盛んな拍手が起こった。もちろん通算1219得点の日本新を期待した拍手。だが、第一打席で三振した野村は、その後も左飛、三ゴロと凡退して、期待は次第に薄くなった。回が進むにつれ、野村から主役の座を奪っていったのが西岡。二回二死からクリスチャンを四球で歩かせたものの、重い外角速球と胸元のシュート、タイミングをはずすスライダーで、グングン投げ進む。捕手の野村監督は、四回に早くもノーヒット・ノーランを意識している。雨で流れたとはいえ、十一日には初回に大杉の3点本塁打を食い、野村監督にこっぴどくおこられた西岡は「どうにでもなれ」と、破れかぶれでマウンドにあがったという。「だから、調子がいいのか、悪いのかわからなかった」そうだが、タマには力があった。六回まで無安打。スタンドのざわめきが、次第に高まっていった。この間、いい当たりの三つの三ゴロを佐野がうまくさばいたし、宇四回の阪本の大きな左飛は風に戻され、フェンスいっぱいでスミスのグローブにおさまった。「五回からはっきり意識した。やれそうだったし、やりたかった」と西岡は一球一球に力をこめている。七回も阪本、張本をうちとり、大杉も一塁線の平凡なゴロ。これで終わりと思ったとたん、逆シングルで軽くさばこうとしたジョーンズがはじき、打球は二塁方向へころがった。捕球した二塁手・桜井がすぐスコアボードを振り返る。もちろんエラー。一塁側から「ヒットにしてやれや」とヤジが飛んだ。「ジョーンズのやつ、もっとしっかりとってやればいいのに。あれさえなければ、調子の波に乗っていけたのになあ」と野村監督をくやしがらせたエラー。西岡は「気にしなかった」というが、白にはボール3つ続けたから動揺したのはたしか。なんとか2-3まで持ち込みはしたものの、白にファウル2つねばられたあとの高めのスライダーを、左前に快打されて野望はつぶれた。西岡は「打たれたあと、やっぱり気が抜けてしまった」という。八回にはバックの拙守による3安打で1点をとられ、ノーヒットどころか完封、完投まで逸してしまった。南海から無安打投手が生まれれば、昭和十八年の別所昭以来のこと。もう十八年もマスクをかぶっている野村監督は、まだ一度も無安打投手のタマを受けたことがない。それだけに、野村はジョーンズのエラーが西岡以上にくやしかったのかもしれない。
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門岡信行

2017-04-15 09:14:57 | 日記
1962年

門岡にはスピードがあった。とくにスライダーがよかった。しかし走者が出るとボールが高目に浮く。ランナーが出たときのピッチングがオープン戦からの門岡の課題だった。徳武の本塁打も高目。それも内角へはいったからたまらない。打ってくださいといわんばかりの好球だった。明らかに門岡の失投だが、門岡の失敗は前にもあった。無死一塁でバントを処理した門岡が併殺をねらって二塁へ高投した。やや横手からフワッと投げたが、ああいう場合は確実に一塁走者を二封するだけでいいのだ。その点新人に多くを望むのはまだムリだが、門岡の経験不足というべきだろう。一死満塁から当っている土屋を1-3から右飛にとったまではよかったが、当ってはいないとはいえ徳武は四番打者、しかもこの点もそうだが
徳武は初球のストライクをねらってくる。第一打席の0-1をはじめその二度の打席でいずれも初球に手を出している。若いカウントから打ってくる徳武にカウントをととのえるにしてもストレートを投げたのがまちがいのもと。これはリードする江藤捕手にも責任がある。1点差で門岡がかたくなっていたときだけにもう少し考えてやるべきだ。門岡はスライダーがきまっていのだから、結果論にはなるが、あの場合スライダーで打たせるべきだった。

徳武選手「ヒットが出ないのであせっていた。リキんでバットがスムーズい振れていなかった。ボックスでソワソワして落ちつかなかったからね。七回の打席にはいる前に早くかまえてゆっくり持てとヒントを与えられたんです、それに無死か一死だったらどうしても打たなければならない責任感の方が先走ってしまうでしょう。二死だったので楽な気持ちで打てたのもよかった。内角高目のストレートだった」

江藤捕手「一球目のカーブが内角低目のボールになったので、カウントをととのえるつもりで外角低目への直球のサインを出した。それが内角高目にいってしまった。門岡の失投だ」

石本コーチ「門岡の失投だ。若いからピンチになるとからだがかたくなって手がちぢんでしまうんだな。その前に渋谷のバント処理がまずかった。ひとつ殺せばいいのにあわてて併殺を狙ったのがいけなかった」
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益田昭雄

2017-04-15 07:57:02 | 日記
1964年

益田はいままでプロ野球の力に気遅れしていたらしい。ノンプロ山陽特殊製鋼から巨人入りしてもう三年。だが、ナインの中にひとりも親友がいない。一児のパパ、ことし二十六歳の益田が藤田、伊藤、北川といったベテランと若い高橋、渡辺らのちょうど間にいるためではない。内向的な性格のためだ。マウンドにあがるとものおじしてブルペンと同じピッチングができないこともその性格のせいだろう。「ブルペンでいっしょに並んで投げていると、とても直球のスピードではかなわない」と伊藤がいう。高橋は「左投手はコントロールが悪いといわれるが、あの人は特別だね」といった。そこで藤田コーチはオープン戦を前に「のんびりした気分でフォームを考えずに投げてみろ」とアドバイスをしたそうだ。今シーズンは敗戦処理として四試合に登板しただけだが、オープン戦はこれで三試合2勝。それも東映(秋田)大洋(草薙)とも第一戦の先発だった。「きょうは暖かかったし、思い切って投げられた。でも、相手のバットはあんまり振れていなかった。大洋を押えたといってもあまり大きな顔はできませんよ」ゆっくり話す。小学校二年生のとき、友だちのどもるまねをしていたら、いつの間にかそれがクセになってしまったという。「藤田さんがいうようになにも考えず思い切って投げているうちに、ここにきてノンプロのときのフォームに戻ったと思う。スリー・クォーターからだんだん球が上から出るようになった」バスのおりる益田を迎えたのは藤田の握手だった。「ボクの勝負球は内角低めをつくスイフト。ノンプロのときはほとんどこれで勝負してきた。だから、この球を生かすため、きょうは外角へゆるいカーブと、小さく曲がるスピードをつけたカーブでカウントをかせいだ。これからは切り札にスピードをつけることです」オープン戦三試合の成績は十二イニングで被安打7、1点しか許していない。「コントロールがよくなって見込みが出てきたのだろう。マウンドさばきが板についてきた。自分の力を出すようになった、ということでしょう。自信を持ちはじめたら、もうこっちのもの。これから楽しめる」と藤田コーチは満足そうだった。
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