プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岩本進

2017-08-06 20:31:35 | 日記
1964年

一軍入りしてから2本のサヨナラ安打を飛ばすなど、大活躍の篠原に続いて二十六日、東京球場で行われた対東映23回戦では、岩本がサヨナラ安打を飛ばした。延長十三回、153勝を目前にした東映の看板投手、土橋から左前へ快打したのだから殊勲選手というところ。岩本は、「スライダーだったと思いますが・・・監督さんからバットを短く持ってセンターをねらえといわれたんです。だからコツンと当てることだけに神経を集中していたんです。監督さんのアドバイスのお陰です」と顔をほころばせていた。本堂監督に対する岩本の気持は、ほかの選手とはまるで違う。というのは、二年前の暮れ、本堂監督が、二軍監督から一軍監督に正式に就任した年、ちょうど巨人を整理され、三重県の実家に帰っていた岩本は、「すぐ出てこい。まだお前はプレー出来る」と本堂監督に呼び出されたからだ。二軍監督時代、イースタン・リーグで巨人と試合をしながら、本堂監督は小柄だが、ホームラン王になったこともある俊敏な岩本のプレーにほれ込んでいた。東京はちょうど内野強化に乗り出していた時で、岩本にとっては渡りに船だったわけ。八月二十七日現在、岩本は本塁打1をふくめ2割9分7厘(37打数11安打)と監督の期待にこたえるハッスルぶりをみせている。「ボクは巨人に二年いてプロの苦しさはよく味わいました。こうして東京でプレー出来るのはみんな本堂さんのお陰です。一生忘れませんヨ。努力してチャンスには力いっぱいがん張らなきゃ・・」岩本は本堂監督の温情にこたえようと精進を続けている。
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浜崎正人

2017-08-06 20:18:59 | 日記
1965年

阪急の秋季練習で、もっとも伸びた若手はという質問に対し西本監督は浜崎と答えた。トレーニングを始めたころは、「大石、金本らの成長を期待している」と話していたが、キャンプを打ち上げた時には浜崎が金本と大石を抜いていたのだ。浜崎はレギュラー・バッティングの投手になるときまって打者をキリキリ舞いさせた。切れのよいシュートを外角に決め、スピードもあるので一軍の打者でも打ちあぐんだ。その浜崎が進境を買われてブレーブス・カーニバルの紅白戦で先発した。しかし本番になるとやはり違う。衆樹にベルトあたりの好球を投げて左中間に打ち込まれ、住吉にもカーブを左翼スタンドへたたき込まれた。「もう少し考えて投げるようにならなければならない。それに走者を置いてからのピッチングが甘い」期待をかけていただけに、西本監督の採点は辛かったが、浜崎にとってこの紅白戦の痛手はいいクスリになったことだろう。
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高田博久

2017-08-06 17:34:29 | 日記
1985年

24歳、昭和36年、7月16日 173㌢、68㌔、右右
千葉商高ー青学大ー日本楽器
出身・千葉県 父・福治(48)=会社員=、母・久子(52)、妹・まり子(20)=交通巡視員
千葉商では3年夏の県大会準々決勝戦で延長16回市立銚子の銚子(法大ー大洋)にサヨナラ本塁打を浴びて敗退。青学大では投手陣の柱で活躍したが、優勝の経験はない。
好きな球団・巨人、ヤクルト・大洋
上背はないが、下手からのストレートは伸びがあり力強い。スライダー、カーブ、シンカーと持ち球も豊富だが、コーナーに散らしてかわす投法より力で押すタイプ。
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服部裕昭

2017-08-06 11:11:49 | 日記
1989年

プロ入り初登板が先発となった左腕・服部だったが、3回で降板し「せっかくのチャンスだったのに・・・」と肩を落とした。千葉・浦安高から入団して四年目。「ボールの球離れが遅い分、打者は打ちづらい」(上田投手コーチ)という利点を生かし、左肩の軟骨除去手術などのアクシデントを克服して頑張ってきた。この日の先発は、前日のゲーム中に言い渡されたそうだが、「調子は悪くなかったけど、やっぱり甘い球は禁物ですね」と反省していた。今季は八月に一度だけ一軍に登録されながら、出番のないままファームへ降格。それだけに「今後は筋力を強化しながら、次の登板では落ち着いて投げたい」と若者らしくキッパリ。
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迫田七郎

2017-08-06 10:53:14 | 日記
1964年

「ピッチャーはやっぱり先発しなきゃウソですネ。プレーボールの前にマウンドにあがってウォーム・アップする気持は、何ともいえません。張り合いが違います」と鼻息の荒いのが東京のひねくれ球投手の迫田。若手選手の試練の場といわれる秋のオープン戦ではしばしば起用されて大いに腕を上げている。東京のオープン第一戦は去る三十一日、足利の対大洋戦だったが、この第一戦に迫田は先発ピッチャーで登板した。ことしの迫田は公式戦には12試合(0勝1敗)に出場しているが、いずれもリリーフで先発は一度もなく、この試合が一軍戦での初めての先発。五回までは沈む球とスライダーが低目にうまくきまって、打たれたヒットはつまり気味にたたいた松原の二塁右を抜くヒットと、近藤和の渋い右前ヒットだけで、一年生とは思えぬプレートさばきを見せ、ベンチの期待にこたえた。六回にはいって近藤昭に右前へ合わされ二盗、桑田も歩かせた一死一、二塁で松原に中前快打されはしたが、西田の好返球に救われ、六回まで投げて23打者を4安打に押え堂々勝利投手になった。迫田は、「先発は2、3日前からいわれてたんで張り切ってたし、どれだけ自分が投げられるか楽しみにしてたんです」と一軍戦での初勝利にニキビ面をほころばしていたが、初勝利以上に本人は技術面の収穫を大喜びしている。ことしの迫田は前半の研修時代、イースタンで大活躍した。ひねくれ球を駆使して、12勝4敗の防御率1・36は、金田二世と、評判の高かった半沢(国鉄)の9勝4敗を上回り、内容的にも高くて文字通りイースタンのエースだった。ところが公式戦では8勝した半沢にみごとに逆転負け。というのも、フォームに欠陥があったからだ。だからこの日は、「左の腰の振りを小さくしてステップもやや開き気味に直したんです。シーズン中よりは、ずっと楽なフォームになって伸び伸び投げられるようになりました」と秋季練習の成果にびっくりしていた。一日、平(福島県)での大洋戦にも投げて通算9イニングで自責点1が目下の成績。この分だと来シーズンは開幕からローテーション入りは確実とみていいだろう。迫田は、「今シーズンは八月十日に過労で1週間ばかり休んだのがたたって、出る幕がとうとうなくなった。だから来シーズンはバテないように今のうちにスタミナをつけておきたい。同じイースタンで投げ勝った半沢に負けたくないから・・・」と頼もしいことをいっている。小山、坂井、妻島に続くピッチャーに成長するかどうか、とにかく楽しみな2年目が来そうだ。
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迫田七郎

2017-08-06 10:53:14 | 日記
1964年

「ピッチャーはやっぱり先発しなきゃウソですネ。プレーボールの前にマウンドにあがってウォーム・アップする気持は、何ともいえません。張り合いが違います」と鼻息の荒いのが東京のひねくれ球投手の迫田。若手選手の試練の場といわれる秋のオープン戦ではしばしば起用されて大いに腕を上げている。東京のオープン第一戦は去る三十一日、足利の対大洋戦だったが、この第一戦に迫田は先発ピッチャーで登板した。ことしの迫田は公式戦には12試合(0勝1敗)に出場しているが、いずれもリリーフで先発は一度もなく、この試合が一軍戦での初めての先発。五回までは沈む球とスライダーが低目にうまくきまって、打たれたヒットはつまり気味にたたいた松原の二塁右を抜くヒットと、近藤和の渋い右前ヒットだけで、一年生とは思えぬプレートさばきを見せ、ベンチの期待にこたえた。六回にはいって近藤昭に右前へ合わされ二盗、桑田も歩かせた一死一、二塁で松原に中前快打されはしたが、西田の好返球に救われ、六回まで投げて23打者を4安打に押え堂々勝利投手になった。迫田は、「先発は2、3日前からいわれてたんで張り切ってたし、どれだけ自分が投げられるか楽しみにしてたんです」と一軍戦での初勝利にニキビ面をほころばしていたが、初勝利以上に本人は技術面の収穫を大喜びしている。ことしの迫田は前半の研修時代、イースタンで大活躍した。ひねくれ球を駆使して、12勝4敗の防御率1・36は、金田二世と、評判の高かった半沢(国鉄)の9勝4敗を上回り、内容的にも高くて文字通りイースタンのエースだった。ところが公式戦では8勝した半沢にみごとに逆転負け。というのも、フォームに欠陥があったからだ。だからこの日は、「左の腰の振りを小さくしてステップもやや開き気味に直したんです。シーズン中よりは、ずっと楽なフォームになって伸び伸び投げられるようになりました」と秋季練習の成果にびっくりしていた。一日、平(福島県)での大洋戦にも投げて通算9イニングで自責点1が目下の成績。この分だと来シーズンは開幕からローテーション入りは確実とみていいだろう。迫田は、「今シーズンは八月十日に過労で1週間ばかり休んだのがたたって、出る幕がとうとうなくなった。だから来シーズンはバテないように今のうちにスタミナをつけておきたい。同じイースタンで投げ勝った半沢に負けたくないから・・・」と頼もしいことをいっている。小山、坂井、妻島に続くピッチャーに成長するかどうか、とにかく楽しみな2年目が来そうだ。
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原口哲也

2017-08-06 10:21:35 | 日記
1988年

「何も考えずに投げました。清原の本塁打でいけるかも、と思っていました」。開幕以来単調だった投手のローテーションにかげりが見え始めた 折も折、西武に待望の孝行息子が生まれた。「清原」と西武のスターを呼び捨てしたが、原口は清原と同期。ドラフト三位で61年に地元熊谷商から入団。2年間はファームや米国留学で鍛えられ、今年六月十二日にやっと一軍登録。以後六試合に9回と1/3を中継ぎ、敗戦処理で投げてきた。この間の成績は被安打6、奪三振3、与四死球2で自責点1。森監督も「機会があれば長いイニングを投げさせたい」と合格点をつけていた。3万7000人の観客の見守る中、一回二死一、二塁でのリリーフは厳しい試練だったがよく耐えた。二回の一死二、三塁では佐々木、門田の主軸を凡退させてリズムをつかんだ。「よかった」というカーブと速球をまじえて、最長の8回と1/3を投げてうれしい1勝。「次は先発だね」という質問に「いや」と頭をかしげるしぐさに、やっとはい上がってきた若手のナイーブさがうかがえた。181㌢、75㌔、右投げ。
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迫田七郎

2017-08-06 10:11:49 | 日記
1962年 高校時代

三年計画の仕上げの年だけにナインの闘志も高まっている。非力をカバーするために頭上でグラブ、ボールをひねる迫田投手は変則モーションだが威力を持っている。一部には腕で目がかくれ、安定しないのではという見方もあるが、戦績はりっぱ。春いらい八試合の奪三振七十九。一試合平均九個以上の三振を奪っている。投手力にくらべて打撃は弱く、好打者としてあげられるのは脇元ぐらいのもの。下位が弱いのが欠点だ。不思議に試合をすてぬねばりと大会になると地力を発揮するチームだ。守備は遊撃の岩下がぬけてやや不安が残っている。
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服部裕昭

2017-08-06 08:48:06 | 日記
1989年

遠山と同期のサウスポーがデビューしました。それも初登板が初先発。4年目の22歳、服部裕昭投手です。10月2日の対広島戦(甲子園)、3回3失点で降板と、デビュー戦は黒星を喫しましたが「やはり二軍とは全然違い、甘い球は見逃してくれませんね」とショックより、一軍の実力のほどを身にしみて分かった点に、教訓を得たはず。千葉県出身で浦安高からドラフト3位で61年に入団。カーブに目を見張るものがあり、1年目のキャンプ時は遠山以上に期待がもたれた服部。2年目の春季キャンプ中に左肩痛に襲われ、手術。長いブランクを経て、ついに一軍昇格。来年からが、本当の勝負です。

1999年

吉田阪神の浮沈のカギを握るのは、何といっても強力打線である。大豊、パウエル、ハンセンの新加入トリオに、桧山、新庄の既存戦力。さらにベンチでは驚異のひと振り男・八木がにらみを利かせている。守備力はイマいち、走塁にいたってはからっきし。こんな阪神が勝つには、とにかく「打って、打って、打ちまくる」のみ。となると、彼らのコンディション作りをサポートする体制が、重要となってくる。現在、阪神に籍を置く打撃投手は9人。豪腕派あり、軟投派あり。各タイプ取りそろえているが、そのうちサウスポーは二人いる。特に、ややスリークォーター気味の角度から放たれる服部裕昭打撃投手の球には、まだ本物の威力する感じられる。現役を退き、裏方家業に入って1年ちょっと。キャリアの浅さが、決してマイナスとならないのが、この世界の特徴でもある。「誰でもそうでしょうけど、最初は戸惑いがありましたよ。それまでは、一軍であれ、二軍であれ、自分のための練習。それが完全に他人のためになるんですからね。でも、結局は自分にとってのいい球が、打つ側にとってもいい球。少しずつ、そう思えるようになってきたんですよ」はにかむ笑顔は、実際の年齢より若く見える。1986年に、千葉・浦安高からドラフト3位で阪神入団。その年は、桑田、清原のKKコンビが話題をさらい、阪神では今季、ロッテから出戻りの形で復帰した遠山が、同期の1位として騒がれた。11年間の現役生活で、残した数字は0勝2敗。決して、陽の当たる表街道を歩いてきたとは言えないが、だからこそ「一軍に上がってきて、チャンスをつかもうと必死になっている選手には、つい感情移入してしまう」と言う。だが5月戦線に突入した頃、この裏方左腕の周囲で、ある構想が渦巻き始めた。「田村(左肩痛)の復帰は、まだメドが立たん。湯舟(左足甲骨折)は、早くて8月やな。遠山、古溝はもう一つやしなあ・・・。服部は使えるんやないかと思っとるんやが・・・」小山投手コーチのこのひと言がきっかけで、服部さんの現役復帰が、首脳陣間で真剣に検討されている。連休明けの打撃練習では、各コーチがゲージ裏に集結。視線の先はゲージの中の打者ではなく、マウンド上の服部に向けられていた。左腕不足にあえぐ、虎投の救世主として、その投球が再び脚光を浴びつつあるのだ。なお、結論は持ち越されているが、幸いなことに保有選手枠にはまだ空席が「1」ある。チームのピンチにひと肌脱ぐか・・・。「気持ち良く打たせる」のが仕事だった打撃投手が、「打たせない」投手に戻る日が来るかもしれない。
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