1964年
一軍入りしてから2本のサヨナラ安打を飛ばすなど、大活躍の篠原に続いて二十六日、東京球場で行われた対東映23回戦では、岩本がサヨナラ安打を飛ばした。延長十三回、153勝を目前にした東映の看板投手、土橋から左前へ快打したのだから殊勲選手というところ。岩本は、「スライダーだったと思いますが・・・監督さんからバットを短く持ってセンターをねらえといわれたんです。だからコツンと当てることだけに神経を集中していたんです。監督さんのアドバイスのお陰です」と顔をほころばせていた。本堂監督に対する岩本の気持は、ほかの選手とはまるで違う。というのは、二年前の暮れ、本堂監督が、二軍監督から一軍監督に正式に就任した年、ちょうど巨人を整理され、三重県の実家に帰っていた岩本は、「すぐ出てこい。まだお前はプレー出来る」と本堂監督に呼び出されたからだ。二軍監督時代、イースタン・リーグで巨人と試合をしながら、本堂監督は小柄だが、ホームラン王になったこともある俊敏な岩本のプレーにほれ込んでいた。東京はちょうど内野強化に乗り出していた時で、岩本にとっては渡りに船だったわけ。八月二十七日現在、岩本は本塁打1をふくめ2割9分7厘(37打数11安打)と監督の期待にこたえるハッスルぶりをみせている。「ボクは巨人に二年いてプロの苦しさはよく味わいました。こうして東京でプレー出来るのはみんな本堂さんのお陰です。一生忘れませんヨ。努力してチャンスには力いっぱいがん張らなきゃ・・」岩本は本堂監督の温情にこたえようと精進を続けている。
一軍入りしてから2本のサヨナラ安打を飛ばすなど、大活躍の篠原に続いて二十六日、東京球場で行われた対東映23回戦では、岩本がサヨナラ安打を飛ばした。延長十三回、153勝を目前にした東映の看板投手、土橋から左前へ快打したのだから殊勲選手というところ。岩本は、「スライダーだったと思いますが・・・監督さんからバットを短く持ってセンターをねらえといわれたんです。だからコツンと当てることだけに神経を集中していたんです。監督さんのアドバイスのお陰です」と顔をほころばせていた。本堂監督に対する岩本の気持は、ほかの選手とはまるで違う。というのは、二年前の暮れ、本堂監督が、二軍監督から一軍監督に正式に就任した年、ちょうど巨人を整理され、三重県の実家に帰っていた岩本は、「すぐ出てこい。まだお前はプレー出来る」と本堂監督に呼び出されたからだ。二軍監督時代、イースタン・リーグで巨人と試合をしながら、本堂監督は小柄だが、ホームラン王になったこともある俊敏な岩本のプレーにほれ込んでいた。東京はちょうど内野強化に乗り出していた時で、岩本にとっては渡りに船だったわけ。八月二十七日現在、岩本は本塁打1をふくめ2割9分7厘(37打数11安打)と監督の期待にこたえるハッスルぶりをみせている。「ボクは巨人に二年いてプロの苦しさはよく味わいました。こうして東京でプレー出来るのはみんな本堂さんのお陰です。一生忘れませんヨ。努力してチャンスには力いっぱいがん張らなきゃ・・」岩本は本堂監督の温情にこたえようと精進を続けている。