1963年
富山市内の野球ファンはいまこういって丸山をはげましている。「来年富山商が甲子園に出場するころは必ず後楽園で晴れ姿をみせてくれよ」研修期間百試合があるからこれはできない相談だが、丸山への暖かい声援がよくわかる。富山商・須田監督はこういって笑った。来年富山商が甲子園に出られるとはきまっていない。しかし私も丸山とひとつのカケをした。来年以降、甲子園出場と丸山の公式戦デビューはどっちが早いか競争しようと」そんなせいかトレーニングはすごい。ボールはにぎっていないが、学校が終わると夕方までひた走りに走りまくる。陸上競技部といっしょにダッシュ走法、インターバル・トレーニングにひと汗かいたあと、こんどは富山市と高岡市の中間にある海抜百㍍の呉羽山にランニングだ。学校から三㌔。ここに二百段の石段がある。九月に上京して多摩川練習場に顔を出したとき「腰をうんと鍛えておけ」と中尾コーチに命令された。呉羽山の石段はまさにピッタリの練習場だ。一日数回のあがりさがりはきついが、ネをあげない。父親はすでになくなり、末っ子で甘やかされた方だが、意外にシンは強いらしい。「富山県からプロにはいった人は少ない。まして名門巨人ですから、なおさらはりきってやらなくちゃ・・・」期待に少しでもこたえようと丸山はファイトにあふれている。中尾コーチから「腕をあげるとき、親指からあげるのはよくない。小指から先に上にいくように」という細かいアドバイスを受けたが、目下フォーム直しにもはげんでいる。「研究熱心だから、来春のキャンプまでには中尾コーチの満足するフォームになっていますよ」須田監督はタイコ判を押した。「とにかく巨人にはいれてうれしい。あとは一日も早く長島さんや藤田さんといっしょにプレーをしたい」富山市清水本町の自宅から自転車通学しているのも腰を鍛えるためだ。
1964年
巨人・丸山隆男投手(19)=1㍍82、73㌔、右投右打=の打者転向が決まった。ポジションは外野。同投手はことし富山高から期待されて入団したが、フォームが固まらないことなどが原因で投手として十分な活躍ができなかった。イースタン・リーグでのバッティングに目をつけた南村ヘッド・コーチのすすめもあり、一日から始まった秋季練習の前に川上監督から「打者の方が道がはやいから」と正式にいい渡され、打者としての練習をはじめている。
富山市内の野球ファンはいまこういって丸山をはげましている。「来年富山商が甲子園に出場するころは必ず後楽園で晴れ姿をみせてくれよ」研修期間百試合があるからこれはできない相談だが、丸山への暖かい声援がよくわかる。富山商・須田監督はこういって笑った。来年富山商が甲子園に出られるとはきまっていない。しかし私も丸山とひとつのカケをした。来年以降、甲子園出場と丸山の公式戦デビューはどっちが早いか競争しようと」そんなせいかトレーニングはすごい。ボールはにぎっていないが、学校が終わると夕方までひた走りに走りまくる。陸上競技部といっしょにダッシュ走法、インターバル・トレーニングにひと汗かいたあと、こんどは富山市と高岡市の中間にある海抜百㍍の呉羽山にランニングだ。学校から三㌔。ここに二百段の石段がある。九月に上京して多摩川練習場に顔を出したとき「腰をうんと鍛えておけ」と中尾コーチに命令された。呉羽山の石段はまさにピッタリの練習場だ。一日数回のあがりさがりはきついが、ネをあげない。父親はすでになくなり、末っ子で甘やかされた方だが、意外にシンは強いらしい。「富山県からプロにはいった人は少ない。まして名門巨人ですから、なおさらはりきってやらなくちゃ・・・」期待に少しでもこたえようと丸山はファイトにあふれている。中尾コーチから「腕をあげるとき、親指からあげるのはよくない。小指から先に上にいくように」という細かいアドバイスを受けたが、目下フォーム直しにもはげんでいる。「研究熱心だから、来春のキャンプまでには中尾コーチの満足するフォームになっていますよ」須田監督はタイコ判を押した。「とにかく巨人にはいれてうれしい。あとは一日も早く長島さんや藤田さんといっしょにプレーをしたい」富山市清水本町の自宅から自転車通学しているのも腰を鍛えるためだ。
1964年
巨人・丸山隆男投手(19)=1㍍82、73㌔、右投右打=の打者転向が決まった。ポジションは外野。同投手はことし富山高から期待されて入団したが、フォームが固まらないことなどが原因で投手として十分な活躍ができなかった。イースタン・リーグでのバッティングに目をつけた南村ヘッド・コーチのすすめもあり、一日から始まった秋季練習の前に川上監督から「打者の方が道がはやいから」と正式にいい渡され、打者としての練習をはじめている。