プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

升井真喜人

2017-08-21 21:54:39 | 日記
1963年

日南キャンプに参加している南海・升井真喜人投手(26)は、十九日退団を申し出て鶴岡監督の了承を得た。こんごは任意引退選手となる。同投手は今シーズン初めから力のおとろえを感じ、ユニホームを脱ぐ気持ちになっていたもの。

升井投手「だいぶ前から自分なりにいろいろ考えていた。野球とは無関係だが、あとの仕事のことも一応メドがついたし、このあたりが引きどきだと思う。監督も了解してくれた」
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稲垣博愛

2017-08-21 21:27:11 | 日記
1964年

国鉄・稲垣博愛投手(28)は今シーズンかぎりでユニホームを脱ぐことになった。同投手は八月中旬から右ヒジに軟骨ができて痛みをうったえていたがシーズン終了後になっても完治せず退団にふみきった。一日、郷里の尾張一の宮に帰って両親と相談、今後の身のふりかたを決める。
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中谷剛

2017-08-21 21:21:14 | 日記
1964年

糸魚川商工高の中谷剛投手(18)=1㍍80、76㌔、右投右打=は東京入りがきまった。糸魚川商工は野球部ができてからまだ四年だが、新潟で行われた今夏の国体に地元代表として出場、中谷の力投で名門北海高を3ー2で破り、一躍クローズアップされた。中谷はフォームが未完成だが、長身からダイナミックなピッチングをする。落ちる球が武器で、夏の高校野球新潟予選では準々決勝まで進んだ。
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渡辺澄雄 門谷昭 横田斉夫 井上修

2017-08-21 20:51:57 | 日記
1964年

広島は八日午前十一時、市内三篠本町の合宿で新入団選手四人を発表した。白石監督、久森事務局長、木庭スカウトが立ち会った。

投手 渡辺澄雄(18)=呉芸南高、1㍍76、73㌔、右投右打
門谷昭(18)=高知安芸高、1㍍72、70㌔、左投左打
内野手 横田斉夫(22)=高岡高ー不二越鋼材、1㍍72、73㌔、右投右打
井上修(18)=福岡電波高、1㍍73、72㌔、右投右打、いずれも背番号は未定。
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小久保勲

2017-08-21 20:21:42 | 日記
1964年

中京大・小久保勲外野手(22)=1㍍75、74㌔、右投右打=の中日入りが内定。十七日から秋季練習に参加した。小久保は中京大の四番打者として活躍、その長打力は愛知大学リーグで定評があり、春のリーグ戦では首位打者になった。この日行われた紅白試合では白組の左翼手として登録、一安打を記録した。
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小林義治

2017-08-21 20:12:38 | 日記
1964年

阪急は松阪商のエース小林義治投手(18)=1㍍75、68㌔、左投左打=を獲得した。小林は甲子園大会には出場していないが、左腕から投げおろす本格派。とくに速球とカーブには威力があり、早くからスカウトの目をひいていた。左投手の少ない阪急投手陣の中で、梶本はすでに年齢的に限界に達しており、阪急は早くから丸尾スカウトが交渉していた。
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津野剛志

2017-08-21 20:07:23 | 日記
1964年

宮崎南高・津野剛志投手=1㍍75、72㌔、右投右打=の巨人入りがきまった。今夏の予選では二回戦で敗退したが二試合で18三振を奪っており、速球、シュートに威力がある。巨人は宮崎にスプリング・キャンプを張っている関係から、内堀スカウトが昨年から目をつけていた。
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井手峻

2017-08-21 00:24:43 | 日記
1967年

二十一日、中日球場でのウエスタン・リーグ阪神X中日最終戦で、中日・井手投手は七回まで4安打、5三振、2四球、1失点(自責点なし)の好投を見せ、近く一軍ベンチ入りする。

この日スライダーのコントロールがよく、二度の無死走者を併殺に押え、一塁浜田の悪投で1点を失っただけ。オープン戦でデビューした当時より、見違えるほど成長したピッチングだった。すっかり日焼けしてたくましくなり「まだ七分の調子だが、スライダーでかわせるようになったのがよかった。ストレートさえよくなれば、自信をもてます」ともういつでも本番OKのようだ。八回交代した河村が富恵に逆転3ランされ、惜しくも初勝利は流れてしまったが、これまで(8試合1敗)のうちで最高の成績だった。「コントロールが非常によい。ストレートの四球など多少乱れはあったが、申し分ない。走者をだしたときも、スライダー気味のカーブがよかった。久保、佐藤とともに中継役としてベンチ入りさせ、一軍の空気にふれさせたい」(近藤コーチ)「低めの攻めがうまい。もっと内角を攻めて幅ができれば申し分ない」(大友コーチ)と首脳陣は大場に続く井手の進境にうれしそうだった。
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羽村起夫・栗崎日出男

2017-08-21 00:08:36 | 日記
1967年

南海ホークスは、六月二十一日付けで羽村起夫投手(21)=倉敷工出=と栗崎日出男外野手(19)=柳川商出=を任意引退選手にし、そのむね二十二日発表した。この処置はただ選手を任意引退にしたということでなく、全ナインに警告的ないふくみをもたせ粛正の意味が含まれているだけに注目される。さる五月十日、南海はチーム不振を打開するため、コーチ陣を刷新、気分転換をはかったが、このときスコアラーだった中谷信夫氏が二軍監督に就任し、ファーム選手の無軌道な私生活、グラウンド・マナーの悪さに驚いた。そこで中谷二軍監督は鶴岡監督と相談、ファームチームの悪いムードを一掃するため思いきった手段を取ることにした。任意引退となった羽村、栗崎両選手には反省をうながすため頭を丸坊主にし、またS選手はユニホーム着用を禁じるなど、だらけたファーム選手の生活態度にきびしい姿勢でのぞんだ。しかしこうした球団首脳部の警告的な手段にもかかわらず反省の色がないことからこんどの強硬処置になったもの。
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