プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山林明雄

2018-01-04 22:30:25 | 日記
1972年

大洋のファームに左腕の新兵器があらわれた。昨年のドラフト八位で入団した山林明雄投手(22)=福井工大出=。三日、大洋多摩川グラウンドで行われたイースタン、対ロッテ戦で完封勝ちし、五月三十日の東映戦につづき二試合連続完封。連続イニング無失点も二十五回と記録をのばし、防御率「0」で投手十傑の一位におどり出た。竹内につづき、一軍昇格を目前にしている。

「ピッチング自体に文句はない。あとはけん制やサイン・プレーなどの細かい点を身につければ・・・」と宮崎監督はいう。稲川コーチも「きょうのようなできをもう一試合みせてくれたら、一軍に推薦したい」と口をそろえた。速球を低めに決め、カーブをコーナーにうまく落として、被安打3、奪三振12。今季のイースタン・リーグで連続完封はもちろん初めて。技術面以外での好投の原因は二つある。ひとつは一軍が十三日から北陸遠征に行くこと。福井の友人からこのところ「おまえはこないのか」とさかんに電話で問い合わせを受けていたので「ベンチにはいるだけでもいいから、遠征に参加させてもらいたかった」という。一軍に参加するためにはイースタンで好成績をあげるしかない。もうひとつは「ここで打たれたら、バッティング投手にまた落とされる」という思いだ。開幕前の二軍オープン戦、対東映戦で3ホーマーされ、失点6というみじめなピッチングをした翌日から味方の打撃練習用の投手になり、四月末に左ヒジを痛めた。ランニングと治療だけの生活を一ヶ月つづけて再起したばかりだ。「二度とあんなイヤな生活はゴメン、だから必死だったんです」前の完封試合のときもそうだったが、この日も大阪の両親にさっそく電話で朗報を知らせていた。中部六大学リーグでは四年間、最高殊勲選手に輝いたが、しょせんは弱いチームが集まる地方の六大学リーグのお山の大将。「五十球すぎると球威が落ちる」とスカウトの評価も低かった。大学時代は気ままな練習だった。大洋に入団し、ヘドが出るほどの走り込みを重ねて、これまで自信のなかったスタミナも身についた。大阪へスカウトに行った福井高の監督の目にとまって学区外入学。以来、福井で七年間の下宿生活を経験しているから、五人兄弟の末っ子とはいえ、合宿住まいも苦にならない。「型にはめられ、上から強制された方がぼくはいいみたいですね」という山林は、野球をやめる日のために、給料の大半をため込んでいるというオカタイ青年だ。
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柳田利夫

2018-01-04 21:10:31 | 日記
1964年

午後二時ちょっと前、世田谷の自宅で柳田菊江夫人はテレビのスイッチを入れた。虫の知らせとでもいうのだろう。はっきり映像がうつった瞬間主人がダイヤモンドを一周する姿がうつった。だがホームランしたことを確かめると消してしまった。「なんだかこわくなってしまって・・・」というのがそのときの心境・・・。家庭での柳田は昨年までよくしゃべった野球の話をことしは全然しゃべらないとか。「女には男の仕事はわからんから」というのがその理由。そのかわりキャンプでも遠征でも日曜の午後七時になると必ず電話をかけた。しかし電話の内容は五ヶ月になる長女美香ちゃんのことばかり。野球のヤの字も出ない。「あしたが日曜日ですからまた電話がかかると思います。でもホームランのことなんか一言もいわないと思いますわ」ノンプロ常盤炭鉱にいたあと大毎入り。ノンプロでも大毎でも武勇伝はたくさんある。飲むと一升酒。ケンカもきらいではない。それがことしから人が変わったのは生まれついての負けん気と美香ちゃんのせいだ。「昨年失敗したのは大毎のときと同じ気分でキャンプへきたせいなんです。ベンチにいることが多かったし、しゃくだった。そこへ子供が生まれたでしょう。結婚して七年目の子供ですよ。子供ってあんなかわいいもんだとは知らなかった。オレは子供のためにもやらなくちゃと思ってね。きょうのホームラン?低めの球だった。うまくしゃくったと思います。あのコース、最近うまく出るんですよ」昨年の打率は一割七分一厘。いやな昨年の思い出のなかで、たったひとつ忘れることのできないものがある。日本シリーズ第七戦の先制ホームランだ。「打ったこともうれしいですよ。でもそれ以上にうれしかったのは監督さんがオレを使ってくれたことに対する感激です。大事なゲームに一割七分台のオレみたいな選手をよく忘れなかったと思って、本当いって泣きました」殺し屋のリュウは義理と人情のなにわ節タイプの男のようである。
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石黒和弘

2018-01-04 20:09:21 | 日記
1964年

東京の永田会長が昨年暮れ反対を押し切って成年ルーキーの出場制限を撤廃させたうらには、石黒をはじめから使いたい気持ちがあったからだといわれる。この日の活躍ぶりは、まったくその期待にそむかぬすばらしいものだった。「満塁ホーマーなんて生まれて初めてですよ。草野球でも打ったことがありません」いかにもルーキーらしくうれしそうな表情をかくさない。1㍍72、67㌔の小柄。色白。話すときクリクリと目を回すあどけなさも残っている。「腕っぷしには自信があるんです」と、外見から感じられるやさ男に石黒は反発する。愛知県下の中学生を集めた熱田神宮相撲大会で母校を優勝させたこともある。子供のころから足腰は人一倍強かったそうだ。「満塁ホーマーは外角。ねらっているところにきました。でも、はいるとは・・・。二本目のときは完全にヤマをはっていた。やっぱりいい気持ちですね。いままでダメだったでしょう。やっとご期待にそえてうれしいですよ。これからはなんとかやれそうです」いまオリオンズでは宮川新聞係を中心に、球団全体が「なんとか石黒を新人王に、東京のスター・プレーヤーに育てよう」とPRに力をいれている。石黒はそういう球団の配慮を知っている。「この世界は自分の力が第一ですからね。みんなが気を使ってくれても肝心の本人がダメじゃしようがありませんからね」中京商を優等で卒業、名門慶大を出ただけに考え方はしっかりしている。この日の活躍がなにものにもまさるPRだった。
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小松時男

2018-01-04 19:52:33 | 日記
1970年

七組のウエ―ディング・マーチを奏でる西鉄の新婚ブームは、球団創設初のおめでたと、関係者はうれしい悲鳴をあげているが、もう一組、飛び入りというのだからまさに結婚ラッシュといったところ。そのおめでたい相手とは、小松時男。聞かん名前だなあといぶかる御仁もおられるかと思われるので紹介しておこう。つい先日(十一月九日)のドラフトで六位指名で獲得した河合楽器の外野手、すでに入団契約を済ませ、百道寮に合宿して秋の練習をしているのだから、入団歴は、まだ一か月も経っていないが、レッキとした西鉄所属の選手である。「幼なじみですよ。上村喜代子っていうんです。私を今日まで、心から支えてくれた人です。来春早々には式を挙げますから、よろしく」まじめな選手と折り紙つきの入団発表だったが、「近ごろの若いもんは、持つべきものはチャンと持っている」と、球団関係者の弁もどこか楽しそう。そして「また一組ふえましたネ」とニヤニヤ。
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藪上敏夫

2018-01-04 19:31:52 | 日記
1971年

広島戦で初先発して五回を四安打失点二でおさえてデビューを飾った二年生藪上投手(向陽高ー新日鉄広畑)は大方キャンプでは人気者島本が報道陣に追いかけ回されるのを横目に、じっくり投げ込んだ。「ボクだって負けたくはありませんよ」その意地がチャンスを確実につかんだ根性をはぐくんだ。藪上は一昨年のドラフトで四位に指名されながら、自信がないと一年間はノンプロで鍛えていた。しかし、南海二年越しの説得が実って今季からプロ入りとなったが、コントロールのよいスライダーとシュートのゆさぶりは一級品。野村監督や古谷コーチも「あと二、三試合してみなきゃ・・・」といいながらも、「若手の中で飛び出す一番手」と期待をかけていた。それが、十一日のヤクルト戦では先発して四回をノーヒットにおさえ勝利投手となり更に評価を高めたのである。

島本と同じ和歌山出身の二年生藪上が大きく浮かびあがってきた。二年生とはいっても、昨年一軍の公式戦での実績はゼロ。ルーキーと同じようなもので、とても期待できるような存在ではなかったが「いいシュートを持っているから、一度見てやってください」との新山コーチの進言で、広島とのオープン戦に初登板。五回を投げて四安打。四球と犠飛がからんで二点を失ったが、まず安定したピッチングを披露した。直接リード役をつとめた捕手野村も「コントロールがいい。だいたい狙ったところにボールがくる」とその安定感を保証した。エース皆川が、限界と戦っており南海が覇権を奪回するためには、一にも二にも投手陣の整備にかかっているのだが、オープン戦で中山に続いて藪上も頭角をあらわした。「こんなチャンスに出てくる奴こそが、ほんとに力のある奴や。オープン戦が終わるまでには、もっと出てきてくれるやろう」この野村監督の期待に応えて、藪上は十一日の大阪球場での対ヤクルト戦では四回をノーヒット無得点の好投をみせ、第一線投手の仲間入りをまず確実にした。
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高橋英二

2018-01-04 19:15:56 | 日記
1976年

九年間巨人に在籍し昨シーズン限りで対談した高橋英が、ひょっこり宮城球場に姿をみせた。現在は故郷の仙台で会社を経営しているが、旧友に再会して懐かしそう。現役時代はほとんどファーム暮らしだっただけにイースタンでプレーした淡口、所らと談笑していた。中でも淡口の活躍はいかにもうれしそうで「すごいじゃないか。社会に出てもオマエのことが励みになるよ」と肩をたたき合っていた。
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渋谷誠司

2018-01-04 19:05:24 | 日記
1964年

「やっぱり長島さんは歩かせるべきだった」渋谷の第一声だ。たった一度の勝負(八回)に敗れ、渋谷はロッカーのすみで頭をかいた。そのまわりにはめったに集まらないほど報道陣がごった返す。津軽華子さんと同郷の青森県弘前市に生まれ、小学校のとき両親を失った渋谷だが、父親の男は信ずる道を真っすぐ進めというきびしいしつけに育ち、そのせいか曲がったことが大きらい。江戸っ子のように威勢がよくてキップもいい性格は、そのままピッチングにも現れ、勝負球はすべてストレート。「不思議なもんだ。ON砲を打席に迎えると速い球がいかなくなる。とくにシゲさんがそうだぜ。はじめから気分的にのまれているのかな」渋谷のこの日のON砲料理法はカンにたよったもの。長島を見たとき、渋谷は「打たれそうないやな予感がした」そうだ。そこで根来捕手と相談した。「わかった。それなら長島を敬遠、王と徹底的に勝負しよう」話は簡単に決まった。昨シーズン巨人から三完封勝ちしていても渋谷には自信がない。だからムリに打たれそうな予感のする長島に対し、あえて勝負する危険をさけるべきだということから、二、四、六回にわたって長島を歩かせている。四年前、中日が長島に対してこの手を使い成功したことがある。「王、長島がつながって出てきたら、どんなピッチャーだって参ってしまう。だから二人を切りはなすことをだれでも考えるだろう。そこできょうは長島を捨てて王との勝負にでたわけです。渋谷の球がいつもより速かったからそれも成功したんです。第一打席の二球目に、王は外角速球に振りおくれ三塁フライを打ちあげた。そのときこれならいけるという目やすがつきました。まずカウントをカーブでかせぎ極力勝負する速球を控えた」と根来捕手は説明した。八回その勝負球のストレートがつづけて二つボールになったときは、ムリな勝負をさけて歩かせたが、王に投げた速球は三打席目までにたった五球。「球を散らしたことが結果的によかったと思うが、いくら球を散らしてもON砲は打つんだ。ふつうの打者と違うところはそれですよ。こんどはこっちがやられる番です。きょうはラッキーだった」王を無安打に料理した渋谷はそれでも自信をもてないのだろう、ラッキーという言葉で逃げた。
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岩切正男

2018-01-04 18:39:36 | 日記
1964年

ルーキー岩切(駒大中退)永易(近畿電電)の両右腕投手が初の紅白ゲームに先発した。永易は「寒いのは弱い」と早くからウオーミングアップを開始したが、コントロールが定まらずマウンドで落ち着かない。一回一死から渡海を四球で歩かせると「そら始まった」と多田ピッチング・コーチからおしかりの言葉がとび出す。あわてて帽子をとって最敬礼、いかにもルーキーらしい。この回が終わってベンチに帰ってくると多田コーチからまたお説教。「投げるときにキャッチャーから目をはなすからコントロールがなくなるんだ。顔を動かしてはダメ」と頭を押さえられた。近畿電電時代は三十五年から毎年のように都市対抗に出場し、三十七年には日本ビールを相手にひとりで二十一回三分の一を投げ抜いたことのあるノンプロ球界のベテラン投手も、ちょっとかたなしといった感じ。しかし水原監督を感心させたのは四回。みごとなけん制球で一塁走者渡海を刺した。水原監督は思わず「うまい」といい、「おい、おい、お前たちも見習わにゃいかん」と久保田、富永に気合いを入れた。キャンプ前半にピッチをあげすぎ、いまの調子は少しくだり坂。肩が重く、あちこちが痛いそうだ。土橋と並んで東映投手陣の中で一番ハイ・ペースなのが岩切。まだほかの投手がキャッチボール程度の肩ならししかやっていないというのに早くもカーブ、シュートの変化球を投げ込んでいる。先発投手をいいわたされても「まかしてください」と胸を張った。1㍍84、80㌔というチーム一大きなからだをゆっくりとマウンドへ運んだ。初のゲームだというのに少しもおじけづいていない。永易とは対照的だ。昨シーズン終了と同時に入団昨年暮れからの東映の練習に参加していたのでナインととけ合っている。これも自信を持たせる理由かもしれない。西園寺、張本、吉田勝といったレギュラーのクリーンアップにも真っ向から勝負。大きな当たりをとばされても「ごめん、ごめん」と両手をあげ、軽く種茂捕手にわびるなど、新人とは思えない貫禄。水原監督も「ことしのホープです。オープン戦にどんどん使って実戦的な経験をつけさせる」と目を細める。多田ピッチング・コーチもこの無名投手をなんとか一線に押し出そうとキャンプでは連日つきっきりでいる。
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下川満康

2018-01-04 18:09:05 | 日記
1963年

大毎・西鉄戦で公式戦に初登板した西鉄の下川は十九日にベンチ入りしたばかり。二十日、球場にきて中西監督に先発を命ぜられてびっくり。下手投げからのシンカーを武器に、一回は無難に押さえたが、初陣を飾ることができなかった。下川は「いつもはもっとスピードがあるんですが・・・。でも別に堅くなったわけではありません。きのうはじめてベンチにはいったときの方が緊張しました。一軍のふんい気がわかったのこれからはやりますよ」と、KOされた投手とは思えないほど張り切っていた。
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