プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石原碩夫

2018-01-14 20:21:03 | 日記
1962年

ユニホームの左ヒザにドロがこびりついていた。「不経済でしょう。ユニホームは疲れるし、スネの毛なんてみんなとれてしまうんですよ。スネの毛は自然とはえてくるが、ユニホームはお金を出さなければなりませんからね。球団に余分な費用を出させてすみません」プロ入り初勝利を記録した石原はしきりにユニホームを気にした。六月六日の対南海九回戦以来二ヶ月半ぶりの登板。今シーズン対南海戦三度目の正直で飾った1勝だ。「多摩川で練習していたら、ベンチ入りだといわれてきたのです。まさかきょうとは・・・」だから石原のユニホームはドロと汗でぐっしょりよごれている。「カーブとストレートを投げわけただけです。野村さんに二つぶつけたのは内角のストレートのすっぽ抜け。申しわけありません」また頭をかいた。「監督さんから野村の前に打者を出さないようにといわれて、その注意を一生懸命守って投げたつもりなんですが、野村さんを二度も塁に出してしまいました・・」勝利投手らしくない答えがつづいた。岡山東高から東洋紡岩国に入社、弱いチームで苦労してここまできただけに人間はまるくできあがっている。「下手投げにかわったのは東洋紡に入社してから。まだまだ不完全です」高校で大洋・秋山投手の六年後輩だから、中国路では秋山二世の評判が高い。「野村さんにふたつスライダーを投げましたがあれはついこの間マスターしたばかりなんです。アウトローにうまくきまりましたよ」一か月ほど前、駒沢の合宿を出て、二軍の高木コーチの紹介で世田谷区奥沢のアパートに移ったばかり。「アパートに帰って冷たいビールでもキューッと飲んだら初勝利の喜びが本当にわくかもしれませんね」
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西三雄

2018-01-14 19:47:46 | 日記
1962年

大毎・西鉄戦でさる十六日ノンプロ丸善石油から入団した西投手がはじめて九回の一イニングだけ投げた。トップの和田に三遊間安打されると三塁側スタンドから「丸善へ帰って石油でも売っていろ」と痛烈にヤジられたが、井上(忠)を中飛のあと城戸、稲尾を連続三振させてまずまずのデビューぶりだった。「肩ならしがすんで間があったので、投げろといわれて面くらった。最初はやはりあがったが、すぐ落ちついた。捕手のサインどおり投げた。だから直球とカーブだけでシュートはほうっていない。コントロールには自信があるが、スピード、球威などはまだまだ。プロの打者はやはり迫力がある」と試合後語っていた。杉下コーチは「あがっているようすはなかった。定評どおり強心臓の持ち主らしい。それとコントロールのよさはいまのウチに大きな魅力だよ」と期待を寄せていた。
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飯尾尊雄

2018-01-14 19:05:08 | 日記
1969年

昨年は故障つづきだった。キャンプ・イン早々、肩を痛めた。いったん直ったが、夏場に疲労からまた肩がアウト。とうとうイースタンには一度も登板できなかった。東映・尾崎を、スローモーションにしたような独得のフォームで、シュートがよくきまる。体力をつけるのがまず先決。
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吉沢勝

2018-01-14 19:01:21 | 日記
1966年

甲子園に五回連続出場の記録を持っている。一年の夏は補欠。二年の春夏は松谷投手(現東映)の控え投手兼外野手。三年はエースナンバーの背番号1をつけて甲子園のマウンドを踏んだ。名門北海高出身。昨年は肝ぞうを悪くして川崎の関東労災病院に入院したが、もうすっかりいい。高橋一とともに若手左投手の成長株。コントロールに一段の進歩をみせ、ワンポイント・リリーフにはうってつけの存在。カーブとシュートをうまく配合して打者を打ちとっている。「ことしダメだったらプロ野球から足を洗うつもりシーズン・オフもできるかぎりからだをいじめた。スタミナもついたし、先発させてもらいたい」昨年までは練習中、手をぬくこともあったが、ことしのキャンプはみっちりしぼられた。藤田コーチは「投球技術で吉沢が抜群」と折り紙をつけた。「左打者のときだけの登板でなく、右打者でもリリーフしたい」ことし、一年にかける吉沢の左腕が楽しみ。
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久保田一

2018-01-14 10:10:12 | 日記
1972年

プロ野球ではめずらしい、いや、アマチュア球界でも例の少ないマネジャーを兼ねる現役選手が東映のファームにいる。久保田一(はじめ)捕手、プロ入り五年目、二十二歳。一軍の快進撃をよそに二軍はイースタン・リーグで現在最下位。「エンの下の力持ちでも、チームが勝つことだけが喜び」とがんばっている。今シーズン、イースタンのゲームに二度代打で出たが、いずれも三振。自分のバットを持たず、打撃練習もほとんどしないのだから無理もない。それでも「投手の打力よりはマシだろう」といわれて打席に立つ。「もう選手としての将来はあきらめた」と思う一方。やはり打席にはいるとこのチャンスには「一発やってやろう」と思うそうだ。初めの三振をとられた相手は大洋のルーキー竹内投手。「入団したての高校出の投手に・・・」とくやし涙がこぼれた。選手としての動きはバッティング捕手かブルペン捕手がほとんど。「いつユニホームを脱ぎ、マネジャー一本になってもいい覚悟はできている」のだが、人手不足とあって当分は二足のワラジがつづきそうだ。小さいときから地味な性格で世話好きがとりえだったという。日大三島高校の監督の紹介でテスト同様でプロ入り。一度も一軍の味を知らず、一昨年暮れの契約更改で、球団からマネジャー兼業の話を持ち出されたときも「自分の力の限界がすでにわかっていた」から、その場でOKした。「一軍の試合で一本だけホームランを打ちたかった」のが心残りだったが、いまはむしろこの道を選んでよかったという。「マネジャーになって痛感したのは、監督やコーチが選手以上に選手のことを考えていること。それを強くみんなにいいたいですね」二歳のとき父に死別し、静岡県沼津市に住む母・みや子さん(45)と二人だけ。ジン臓病の手術をして静養中の母を休日のたびに見舞いにいき「早く東京によび、小さなアパートで暮らしたい」のが夢だ。
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