1962年
野球の選手にしては珍しく色が白くて、一見やさ男に見えるが、グローブを持ってグラウンドに立てば、出足の速さとフィールディングの的確さでは九州高校野球のピカ一的存在だった。鎮西高校一年のときから野球部に入り、この三年間は遊撃オンリーに勤めあげてきただけに、守備の堅さは群を抜いている。打撃も二年までは甘さが指摘されていたが三年に入ると打率もぐんと伸び、二、三年の全国高校野球予選は3割4分8厘とかなりよい当たりを見せている。プロ入りしてもっとも心配されるのは、1㍍73の身長と65㌔㌘の体重が、プロ選手として小さすぎはしないかということ。同校中原野球部監督は「将来は阪神の吉田遊撃手のような選手になってもらいたい」と、期待をかけている。そして「体力をカバーするのは、からだの動きしかない」と練習ではいつもダッシュの連続だった。ベースを一周するのに一年のときは15秒かかったが、いまでは14秒5で回るほどにまでなった。菊川選手がプロ入りできたのも、この守備の堅さが買われたことはもちろんだ。だが、本人はもとより、関係者がもうひとつ心配しているのは、打撃がどこまで伸びるかという問題。中原監督は「打てないプロ選手ほど魅力のないものはない」というが、もっともな話。平本同校野球部長も「高校で3割以上を打っていても、プロ入りする選手はみなそれぐらいは打っているのだからたいして頼りにはならん」という。「菊川選手は、守備を買われてプロ入りしたとはいえ、これから打撃も並行して伸ばしてもらいたい」と回りの人たちは激励する。本人も「吉田さんを手本にして、守備はもちろん、打撃もコツンと当てて行くタイプの選手になりたい」と、将来を夢みている。熊本市には、川上巨人監督を輩出した熊本工業など高校球界の名門校があるが、菊川選手のいる鎮西高は野球部が発足したのが、戦後二十二年。しかもここ数年前までは、熊本市においてすらもCクラスのチームでしかなかった。したがって、プロ球界には、先輩らしい先輩がおらず、この点菊川選手は心細そうだが「自分だけを頼りに全力を尽くすだけ。鎮西野球部の伝統はこれから私が築いて行く」と、力強く語るあたり、後輩思いの一面がよくあらわれている。菊川選手は三年になると一年先輩の岡田選手(阪急二軍)のあとを受けてキャプテンにおされた。ふだんは冗談がうまく部員をいつも笑わせるが、いざ練習となると白球に生きるそのままにガラリと人が変わると後輩たちはいう。タフな菊川キャプテンのもとで練習する部員たちは、ついて行くだけでほとんどがアゴを出し、平本部長は「菊川君は下級生からいちばんコワがられていたようだ。それで彼がいるとチームはいつもビシッとしまりができていた」と名キャップぶりをほめる。鎮西高野球チームは、さいきん熊本県内でもAクラスにのしあがってきたが、昨年もことしも全国高校野球ではクジ運に恵まれず苦杯をなめている。三十五年には中九州大会で大分県代表高田高と第一回戦で顔があい、門岡投手(現在中日)にしてやられ、三十七年には同じ中九州大会で大分商に延長戦で敗れている。菊川選手にとって高校球児の夢・甲子園の土を踏めなかったことが、なによりも心残りなのだ。だが、予選における名守備ぶりは球団スカウトの目を引かずにはいられなかった。「大会が終わると近鉄はじめ四つの球団から話があった」と中原監督はいっている。菊川選手は、はじめ大学に進む予定だったが、家庭の事情で進学を断念せざるをえなくなり、菊川選手を見込んで通いつめた近鉄の熱意に引かれて球団入りが決まった。体力のハンディを動きの速さでどれだけ克服できるか、また心配される打撃をどこまで伸ばしきるかが、菊川選手のプロ生活のすべてを決めるカギなのだ。
野球の選手にしては珍しく色が白くて、一見やさ男に見えるが、グローブを持ってグラウンドに立てば、出足の速さとフィールディングの的確さでは九州高校野球のピカ一的存在だった。鎮西高校一年のときから野球部に入り、この三年間は遊撃オンリーに勤めあげてきただけに、守備の堅さは群を抜いている。打撃も二年までは甘さが指摘されていたが三年に入ると打率もぐんと伸び、二、三年の全国高校野球予選は3割4分8厘とかなりよい当たりを見せている。プロ入りしてもっとも心配されるのは、1㍍73の身長と65㌔㌘の体重が、プロ選手として小さすぎはしないかということ。同校中原野球部監督は「将来は阪神の吉田遊撃手のような選手になってもらいたい」と、期待をかけている。そして「体力をカバーするのは、からだの動きしかない」と練習ではいつもダッシュの連続だった。ベースを一周するのに一年のときは15秒かかったが、いまでは14秒5で回るほどにまでなった。菊川選手がプロ入りできたのも、この守備の堅さが買われたことはもちろんだ。だが、本人はもとより、関係者がもうひとつ心配しているのは、打撃がどこまで伸びるかという問題。中原監督は「打てないプロ選手ほど魅力のないものはない」というが、もっともな話。平本同校野球部長も「高校で3割以上を打っていても、プロ入りする選手はみなそれぐらいは打っているのだからたいして頼りにはならん」という。「菊川選手は、守備を買われてプロ入りしたとはいえ、これから打撃も並行して伸ばしてもらいたい」と回りの人たちは激励する。本人も「吉田さんを手本にして、守備はもちろん、打撃もコツンと当てて行くタイプの選手になりたい」と、将来を夢みている。熊本市には、川上巨人監督を輩出した熊本工業など高校球界の名門校があるが、菊川選手のいる鎮西高は野球部が発足したのが、戦後二十二年。しかもここ数年前までは、熊本市においてすらもCクラスのチームでしかなかった。したがって、プロ球界には、先輩らしい先輩がおらず、この点菊川選手は心細そうだが「自分だけを頼りに全力を尽くすだけ。鎮西野球部の伝統はこれから私が築いて行く」と、力強く語るあたり、後輩思いの一面がよくあらわれている。菊川選手は三年になると一年先輩の岡田選手(阪急二軍)のあとを受けてキャプテンにおされた。ふだんは冗談がうまく部員をいつも笑わせるが、いざ練習となると白球に生きるそのままにガラリと人が変わると後輩たちはいう。タフな菊川キャプテンのもとで練習する部員たちは、ついて行くだけでほとんどがアゴを出し、平本部長は「菊川君は下級生からいちばんコワがられていたようだ。それで彼がいるとチームはいつもビシッとしまりができていた」と名キャップぶりをほめる。鎮西高野球チームは、さいきん熊本県内でもAクラスにのしあがってきたが、昨年もことしも全国高校野球ではクジ運に恵まれず苦杯をなめている。三十五年には中九州大会で大分県代表高田高と第一回戦で顔があい、門岡投手(現在中日)にしてやられ、三十七年には同じ中九州大会で大分商に延長戦で敗れている。菊川選手にとって高校球児の夢・甲子園の土を踏めなかったことが、なによりも心残りなのだ。だが、予選における名守備ぶりは球団スカウトの目を引かずにはいられなかった。「大会が終わると近鉄はじめ四つの球団から話があった」と中原監督はいっている。菊川選手は、はじめ大学に進む予定だったが、家庭の事情で進学を断念せざるをえなくなり、菊川選手を見込んで通いつめた近鉄の熱意に引かれて球団入りが決まった。体力のハンディを動きの速さでどれだけ克服できるか、また心配される打撃をどこまで伸ばしきるかが、菊川選手のプロ生活のすべてを決めるカギなのだ。