プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

菊川昭二郎

2018-01-27 23:32:08 | 日記
1962年

野球の選手にしては珍しく色が白くて、一見やさ男に見えるが、グローブを持ってグラウンドに立てば、出足の速さとフィールディングの的確さでは九州高校野球のピカ一的存在だった。鎮西高校一年のときから野球部に入り、この三年間は遊撃オンリーに勤めあげてきただけに、守備の堅さは群を抜いている。打撃も二年までは甘さが指摘されていたが三年に入ると打率もぐんと伸び、二、三年の全国高校野球予選は3割4分8厘とかなりよい当たりを見せている。プロ入りしてもっとも心配されるのは、1㍍73の身長と65㌔㌘の体重が、プロ選手として小さすぎはしないかということ。同校中原野球部監督は「将来は阪神の吉田遊撃手のような選手になってもらいたい」と、期待をかけている。そして「体力をカバーするのは、からだの動きしかない」と練習ではいつもダッシュの連続だった。ベースを一周するのに一年のときは15秒かかったが、いまでは14秒5で回るほどにまでなった。菊川選手がプロ入りできたのも、この守備の堅さが買われたことはもちろんだ。だが、本人はもとより、関係者がもうひとつ心配しているのは、打撃がどこまで伸びるかという問題。中原監督は「打てないプロ選手ほど魅力のないものはない」というが、もっともな話。平本同校野球部長も「高校で3割以上を打っていても、プロ入りする選手はみなそれぐらいは打っているのだからたいして頼りにはならん」という。「菊川選手は、守備を買われてプロ入りしたとはいえ、これから打撃も並行して伸ばしてもらいたい」と回りの人たちは激励する。本人も「吉田さんを手本にして、守備はもちろん、打撃もコツンと当てて行くタイプの選手になりたい」と、将来を夢みている。熊本市には、川上巨人監督を輩出した熊本工業など高校球界の名門校があるが、菊川選手のいる鎮西高は野球部が発足したのが、戦後二十二年。しかもここ数年前までは、熊本市においてすらもCクラスのチームでしかなかった。したがって、プロ球界には、先輩らしい先輩がおらず、この点菊川選手は心細そうだが「自分だけを頼りに全力を尽くすだけ。鎮西野球部の伝統はこれから私が築いて行く」と、力強く語るあたり、後輩思いの一面がよくあらわれている。菊川選手は三年になると一年先輩の岡田選手(阪急二軍)のあとを受けてキャプテンにおされた。ふだんは冗談がうまく部員をいつも笑わせるが、いざ練習となると白球に生きるそのままにガラリと人が変わると後輩たちはいう。タフな菊川キャプテンのもとで練習する部員たちは、ついて行くだけでほとんどがアゴを出し、平本部長は「菊川君は下級生からいちばんコワがられていたようだ。それで彼がいるとチームはいつもビシッとしまりができていた」と名キャップぶりをほめる。鎮西高野球チームは、さいきん熊本県内でもAクラスにのしあがってきたが、昨年もことしも全国高校野球ではクジ運に恵まれず苦杯をなめている。三十五年には中九州大会で大分県代表高田高と第一回戦で顔があい、門岡投手(現在中日)にしてやられ、三十七年には同じ中九州大会で大分商に延長戦で敗れている。菊川選手にとって高校球児の夢・甲子園の土を踏めなかったことが、なによりも心残りなのだ。だが、予選における名守備ぶりは球団スカウトの目を引かずにはいられなかった。「大会が終わると近鉄はじめ四つの球団から話があった」と中原監督はいっている。菊川選手は、はじめ大学に進む予定だったが、家庭の事情で進学を断念せざるをえなくなり、菊川選手を見込んで通いつめた近鉄の熱意に引かれて球団入りが決まった。体力のハンディを動きの速さでどれだけ克服できるか、また心配される打撃をどこまで伸ばしきるかが、菊川選手のプロ生活のすべてを決めるカギなのだ。
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森田斌

2018-01-27 23:02:05 | 日記
1962年

ノンプロ川崎トキコの森田斌投手(26歳、中大出、右投右打)の大洋入りが決定的になった。森田投手は先日の都市対抗大会にはいすゞに補強されて出場。一回戦電電関東を六回まで1安打無得点、二回戦丸善石油との試合にも八回まで3安打無得点、九回2安打を喫して負けたが、なかなかの好投で一躍注目を浴びた。大洋としては優勝するためにすぐ使える投手がほしかったところで、一週間以内に契約、新戦力としてすぐ一線に立たせることになろう。なお川崎コロムビアの左腕虎若投手(21歳、八幡商出)は阪神入りが濃厚である。

略歴 昭和三十年川越工から中大に入学。大学時代は投手としてより打者として活躍。トキコに入社後投手として再出発、川崎地区随一の好投手となった。速球、シュート、スライダーが主武器の本格派。コントロールもいい。

森田投手の話 鈴木さん(隆)や桑田とは家が川崎にある関係でずっとつき合ってきた。こんど大洋から話があったが、よそのチームという気がしない。どのていどやれるか目標は立たないが、はいるからには全力をつくすつもりだ。

大洋藤井スカウトの話 予選から大会を通じて森田のピッチングをみたが、じゅうぶんやれると思って交渉した。まだ正式に承諾の返事はもらってないが九分九厘だいじょうぶと思う。すぐユニホームを着て投げてもらうつもりだ。
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中山実

2018-01-27 22:28:47 | 日記
1961年

名門佐高からは吉岡、森永の両主力打者が来春学窓を出るが、吉岡中堅手は早大志望、森永右翼手は東芝入りが伝えられている。森永には住金もさそいの手をのばしてきたが、一年先輩の永淵投手がいる東芝を選んだものだろう。佐商の強肩強打の好捕手中山は西鉄入りがウワサされている。二、三年前ノンプロでウデを磨いてから・・・という話も一部には出ていたようだが、思い切ってプロの世界に飛び込む決意を固めたものとみられる。竜谷のスラッガー村岡外野手は藤倉電線(東京)からさそわれているらしい。身体に恵まれ、俊足強打、内野もこなせる万能選手だけに将来が楽しめる選手の一人。城野投手とバッテリーを組んでいた鳥栖工の田中捕手は住金入り。上背が足りないのがちょっと気になるが、ガッチリとしたキャッチャーらしいタイプで、定評のある鉄砲肩。打力もなかなか鋭く、中山に劣らぬ素質の持主だけに今後の成長が期待される。
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宮崎昭二

2018-01-27 22:08:21 | 日記
1961年

夏の西九州大会県代表になった鹿島からは宮崎投手がプロにふみ切り、今シーズン水原旋風をまき起こした東映に入る。一八一㌢の長身から投げ下ろす速球、右打者のヒザもとを鋭くえぐるシュート、ブレーキのよいドロップの切れ味には二年生のときから定評のあるところで、西九州大会では海星の豪球池辺(大毎入り)と渡り合い、散発三安打におさえる出来をみせた。東映には甲子園の優勝投手尾崎(浪商)をはじめ早大のエース安藤、石川(立大)など高校、大学の一流どころが入ったので、来シーズンすぐに頭角をあらわすのは無理としても、将来がじゅうぶんに楽しめる存在だ。同じ鹿島の強打者古賀中堅手は宮添とともに八幡製鉄入り。本県高校球界の双璧といわれ強打コンビが八幡の主力打者として活躍することを夢みるのもファンにとっては楽しみの一つだろう。小野原遊撃手は先輩宮崎(司)投手のいる住金(大阪)にきまったもよう。
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村田元一

2018-01-27 21:59:54 | 日記
1962年

九回二死まできれいに三人ずつかたづけ完全試合になる寸前だったのだから国鉄ベンチの気持ちは勝敗を超えて村田を八人めの完全試合樹立者にしたがったのは当然だろう。「どたん場で西山の安打がクリーンヒットなら、むしろすっきりとあきらめがつくんだが、ジグザグのような変なゴロだからアト味が悪い」と谷田コーチがいうように1-0で国鉄が勝っても一塁ベンチは大きなタメ息のウズ。「勝ったからいいさ」飯田コーチのひと声で無念の表情の村田を迎えた。村田はベンチに座って水をいっぱい飲む。大記録を寸前に逸した無念さがあらためてこみあげてきたのだろう。肩を落としたまま「暑かったね」というのが村田の口からでた最初のことば。「西山にはスライダーを投げたんだ。(75球目のタマ)バットの先っぽに当たって変なバウンドで一塁にころがった。安打になったときの気持ちはいまはなんともいえないよ」村田の顔は水をかぶったように汗まみれ。「三回まではランナーを出さなかった。こんなことはいまのぼくにはめずらしいから早くから意識したさ。前半はあまりいいとはいえながったが、後半はしり上がりだった。タマも速かったし思うところに決まった。それに阪神打線が早いカウントから打ってくれるんで助かった。報道陣が八回藤本に0-3となったときの4球めはヒヤッとしたんじゃあないかと質問を浴びせると「くさいコースだったがスライダーを投げたし、あれはストライクですよ」と胸を張った。「ぼくが完全試合を逸したのはこれで二度め、三十三年の対大洋戦で七回にヒット1本打たれた。打数28でこれがプロ入り初の勝利。そして初の完封勝ち。残念にはちがいないが、ぼくは若いのだからまたチャンスを作るさ」ベンチを出て更衣室で下を向きながら語っていた。
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宮崎昭二

2018-01-27 21:47:06 | 日記
1962年

1㍍82というのは、東映で一番のノッポ。このノッポ・ルーキーがひどいボール・ノイローゼにかかった。練習中打球が右手に一回、左耳に一回当たっているからだ。「三度目はどこに当たるんでしょう」おとなしいと評判の宮崎が、この日、なんと三度目はこれだとばかり快投を演じたのだからオドロキである。ボール・ノイローゼはむしろ阪急打線にくれてやったようなもの。小うるさい阪急打線をわずか4安打。プロ入り初完投。初勝利をシャット・アウトでかざる初ブームの宮崎だ。ピンチといえば二回安打と失策で一、二塁に走者をおいただけ。二塁走者はこの回の関口のみの文句ないできだ。イースタンでは6勝1敗だが、とても八月九日から一軍入りしたとは思えない。「スタミナという点は心配していない。だから別に疲れもしなかった」とケロリといってのけるあたり19歳とうヶ月のハイ・ティーンらしい。「カーブがよかったでしょう。あれは決め球です。コントロール?自信があります。きょうは捕手のサイン通り投げたのです」応答はまだ慣れていないので一見ブッキラボーだが、なかなか大した心臓だ。多田コーチは「早くからチャンスを与えたいと思っていたが、前半投手陣がよかったからね。きょうはあとに南海戦がひかえているので回転が苦しい。ものにこだわらない性格からか少しも負担を感ぜずに投げてくれた」と大喜び。尾崎とはルーキー同士で大の仲よし。尾崎の分までとキラッとメガネを光らせていた。ことし鹿島高(佐賀)から入団。北九州では西鉄入りした与田と並び称された本格派。ようやく光を放ってきたわけだ。
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岩本勝

2018-01-27 21:30:48 | 日記
1962年

阪急ブレーブスではこのほど山口県豊浦高校岩本投手(18)=左投左打=を確保したもよう。同投手は今春の選抜大会に出場、屈指の左腕投手として各球団のスカウトからマークされていた。阪急は戸倉監督が同校の大先輩であることから条件的に恵まれていた。同選手を誘ったのは七球団にのぼるが、最後まで地の利を持つ西鉄と大洋がくい下がっていた。

阪急岡野代表の話 今年の補強のねらいは左投手だ。岩本君はプロへ行くなら阪急へと好感をもっていてくれる。スカウト合戦もウチをのぞいてはほとんどの球団が落ちたようだ。
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水谷実智郎

2018-01-27 21:24:13 | 日記
1969年

「拾ってくれた近藤さん(コーチ)のためにも立派に再起したい」こういって、ロッテ入りが決まって、心気一転を誓っているのが水谷実智郎投手(前中日)。水谷は中日に4年間在籍。その間、中継ぎ投手として年間十試合ほど顔を出す程度で伸び悩み、四年間で0勝1敗という成績を残して、昨年暮、自由契約になっていたもの。最初はアトムズの自主トレにもテスト生として参加していたが、ロッテ投手陣が量的に不足しているところから、中日時代、水谷をコーチした近藤ピッチングコーチの口添えもあってロッテ入りが決まった。まだ二十二歳という若さに加え、一メートル八二、七一キロと体にも恵まれており、近藤コーチも「気持を入れ換えてやれば一軍で通用する力は十分持っている」と期待をかけている。背番号82番を貰って大喜びの水谷は「指宿キャンプが勝負ですから死んだつもりでやります」と五年目の移籍にすべてを賭けている。若手の好投手が少ないロッテだけに案外、早くチャンスが巡ってくるかも知れない。
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東条文博

2018-01-27 21:12:20 | 日記
1969年

女房和子、中学時代からの幼なじみで41年に結婚した。鹿児島市の甲南会館で挙式。プロポーズはもちろんボクからでした。生後まもない一粒だね由美子を抱きながら。ずいぶん若いパパだろう。地元でボクのために後援会をつくってくれた。その人たちに恩返しのつもりでやらねば。
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