プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山田正雄

2018-01-30 21:50:13 | 日記
1962年

明治高は山田のワンマン・チーム。山田は体力もあり、左である有利さもあってよく投げるが、もうひとつ球速がほしい。ひとりで投げ切らなければならないのも重荷だ。

大毎オリオンズでは二十八日午後三時から東京スタジアム内の球団事務所で四選手の入団を発表した。

長谷川一夫投手(19)=大宮工、1㍍74、70㌔、左投げ、左打ち、背番号46
山田正雄投手(18)=明治高、1㍍79、74㌔、左投げ、左打ち、背番号59
三宅孝彦投手(18)=名商大付属高、1㍍75、70㌔、右投げ、右打ち、背番号65
中野正彦外野手(18)=静岡商、1㍍76、79㌔、右投げ、右打ち、背番号64
の四選手の入団発表を行った。

長谷川投手は今夏西関東の準決勝で敗れて甲子園進出はならなかったが、県予選5試合での奪三振65のレコードホルダー、連続三振も8、一試合奪三振21の快記録を持っている。左腕からの低め速球は超高校級の定評があった。山田は明治高で投手で四番を打った文字どおりのワンマン。三年間の通算打率が・450、大毎では始めから打力を生かす方針のようである。突然の入団発表で三宅、中野の両選手は間に合わず出席しなかったが、三宅は速球を武器とする本格派、中野は攻守走三拍子そろった静岡県下で一、二を争う好選手。

長谷川投手の話 どうせ野球をやるなら一番レベルの高いプロでと思っていたところ、社長さんから直接熱心に誘われたので、大毎にお世話になることにしました。一生懸命やる、ただそれだけです。

山田投手の話 投手として進出よりバッティングを生かしたい。高校時代に一塁、外野もやったことがある。大毎は打力のあるチームそんな中でもまれれば僕自身にもためになると思います。
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幡野和男・高井準一

2018-01-30 20:58:22 | 日記
1960年

私が法政二高の監督をつとめるのは法大在学中からだからことしで十二年になる。そして今夏の甲子園で宿願の全国制覇をやった。一応、理想のチームだったと思う。優勝できたのに一歩近づいたというのは、守備面でまだまだ満足のいくチームではなかったからだ。打力、走力の面で私が手がけたどのチームよりもよかった。しかし、守備面は投手によりかかったチームでこの点は満足できるものではなかった。私は私なりの考えからチーム作りの方針を立てている。高校の在学年数はわずかに三年、一年生のメンバーをそろえてスタートしても二年ちょっと、三年目の夏には一応の形を整えなければならない。私がもっとも力を入れるのはバッティングにしても、フィールディングにしてもまず基本をしっかり身につけるということだ。たとえばバッティングの場合はまずライト打ちからはじめ、バッティングとはミートが大事だということをおぼえさせる。はじめから引っぱるバッティングではどうしても力にたよってしまうからだ。しかし、幡野の場合にはムリにライト打ちをやらせるようなことはしなかった。それだけバッターとしてのセンスがあったわけだ。どんなタイプの投手に、どんな球を投げられてもポイントをつかむうまさが幡野にはあった。私が育てた外野手では斎田(法大ー近鉄)中山(日石)吉田(法大)に、幡野といったところが一流だ。そして穴のないコンスタントな点では幡野がいちばんだろう。しかし、斎田のような長打力は持っていない。力強さという点やや弱い感じがするのはそのためだ。私が内野を構成する場合、二塁にもっとも大きな内野手を持っていく。併殺プレーのキー・ポイントになる二塁はどうしても大型選手でなければいけない。小坂(法大ー広島、1㍍74)小川(法大、1㍍75)にことしの高井(1㍍76)がそうだ。いかにも野球をやるために生まれて来たような体で、ユニホーム姿が高井ほどぴったりする選手も珍しい。甲子園ではややスランプだったが、打つべきときにちゃんと打っている。第一戦(対御所工)では大量点の口火をきってナインをすっかり落ちつかせ、決勝戦(対静岡高)でも2安打しているのでわかるだろう、。高井はフライをとるのがニガ手だ。どちらかといえば小坂同様に最高のプレヤーだが、ゴロに対しては動きがいい。しかしフライを追うときには腰がのびきってしまう。足首、ヒザがかたくなるからだ。そして打球の下に早くいってボールを待つのではなく、腰がのびきったまま捕りにいくからへまをやることがある。法政二高から直接プロ入りするのは幡野と高井がはじめてだ。二人とも高校選手としての基本はできている。基本については補球ひとつでもうるさくいった。グローブのアミに引っかけて捕球するクセをつけないように、目の荒いヒモだけにしてグローブの真ん中で球をにぎるという練習をみっちりやらせた。こういった練習をきり抜けてきた二人だから軽率なプレーはやらないはずだ。しかし、これからは大人の野球だ。私も卒業生を送り出したあとのチーム作りをはじめた。もうこれでいいということはない。野球の技術にしても、もちろん同じことだ。技術に頂点はない。それを登りつめるのは努力だけだということを二人に贈りたい。

幡野選手の話 「阪神は高校出身の選手が多く、また甲子園でプレーできるのが魅力だ。プロのスピードに負けないように、振りをもっとシャープにすることがまず第一の目標。そして並木さんのようなプレーヤーになりたい」
出身校 法政二高 身長、体重、きき腕 1㍍76、72㌔、右投右打。
生年月日 昭和十七年五月十二日。
現住所 川崎市北加瀬950。
背番号 未定

高井選手の話「名人といわれた千葉さんに二塁手としてのプレーを徹底的に教わりたい。二塁手としては土屋さんのプレーが目標。スピードのある三遊間におくれず、また息のあったプレーはすばらしいと思う」
出身校 法政二高 身長、体重、きき腕 1㍍76、69㌔、右投右打
生年月日 昭和十八年一月一日
現住所 平塚市須賀587。
背番号 未定
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片岡健治

2018-01-30 19:44:45 | 日記
1962年

片岡健治投手が森選手の紹介で今季キャンプで大洋のテストを受けることになった。片岡投手といっても知らない人が多いと思うが、二年前ノンプロのいすゞから鳴り物入りで中日入りした投手。入団した当時はアンダースローでもモーションが独得で球威もあり、将来は中日の屋台骨を背負って立つ投手として大いにしょく望されている。ところが入団最初のキャンプで肝心の肩をこわしてしまった。このときの事情を片岡投手はこう説明している。「ボクは入団が少し遅れ、はいったときはもうキャンプが近かった。キャンプでみんなと並んで投げていたとき、みんなが速い球を投げるので、ボクも遅れてはいけないと思っていきなり速い球を投げてしまった。気がついたときは肩をこわしていたのです。焦って自分のp-エスを忘れたんですね」これが命取りになった。なんとかこわした肩をなおそうと片岡は治療と名のつく治療は全部やった。電気、指圧、神がかり的なオマジナイ、飲みぐすり、湿布剤、肩の治療では専門的な別府へもいった。しかしいったんこわした肩はなかなかなおらなかった。しかも二年目を迎えた片岡投手には都合の悪いことがあった。信頼する杉下監督がやめ濃人監督が誕生したのである。以来片岡投手はほとんどかえりみられない存在となった。片岡投手が森選手にかわいがられているとの単純な理由も加わって・・・。以来片岡投手はガタ健の異名をつけられ、まったく日影者になってしまった。精神的にもすっかりやる気をなくした片岡投手は昨シーズンのなかばで野球をやめようとまで決心し、シーズンが終わるまで練習に出てもただブラブラ過ごすようになっていた。そして去年の暮れ望み通り(?)自由契約選手となり傷心のまま球界を去ることになり、いったん郷里の栃木県大田原の実家に帰った。が、これをみた森選手がいたく心配、もう一度再起のチャンスを与えようとしたのである。もともと森選手と片岡投手の関係は深いからでもあった森のいた早稲田学院の一年後輩がノンプロいすゞにはいり、その後輩と片岡投手が同年輩で仲が良かった。そんな関係から森選手は片岡投手を紹介されつき合うようになった。いすゞから片岡投手を中日に入れたのも森選手であり、片岡投手も中日が一番安い契約金であったが、森をしたって中日入りした。いわば兄同ようの仲。自由契約になった片岡投手に誘いの手をのばした森選は親身の世話をいとわず、昨年の暮れにはむしろ消極的な片岡を積極的に文京区原町の自宅へ連れもどし、ずっと寝食をともにしてきた。そして森選手は直接森代表にあい片岡投手のテストOKをとった。いま片岡投手も森選手の自宅リキ・パレスへ通い黙々とトレーニングにはげみキャンプでのテストの月をいまやおそしと待っている。森選手は「もう一度かれにやってもらいたかった。かれは家が裕福なので欲がないが、人間は死ぬ気になればあるてい度はやれると思い世話をする気になった」と語り、片岡投手も森選手の友情に感謝しながら「ブラブラしていたのがよかったのか、肩の方はもうほとんどなおった。プロのことは大体わかっているし、これならとやれる自信がわいてきた。お世話してくれる森さんのためにも欲を出し、一生懸命にやりたいと思います」と力強く語っている。森選手の友情といい片岡投手の気迫から考え、テストには上々の結果がでることを祈りたい。
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福沢幸雄、成田秀秋、池谷哲夫

2018-01-30 19:02:55 | 日記
1962年

濃人学校の特待生ー福沢、成田、池谷の三選手が、まだシーズンのなかばというのに突然クビになった。どうやら複雑怪奇な中日球団の内部事情が、いよいよ氷山の一角を現したようだ。

七月十日の朝のことだった。福沢、成田、池谷の三選手は名古屋市中村区のドラゴンズ寮から突然柴田チーフマネに呼び出された。「なんの用だろうな。こんなに朝早くから・・・。一軍にあげてもらえるのかな」と三人は胸をおどらせながら柴田チーフマネの前に出た。だが意外にも柴田チーフマネのことばは死刑の宣告にひとしいクビの通告だった。まるまると太った重役タイプの柴田チーフマネは「キミたちは競輪と女に狂っている。だからドラゴンズにおくことはできない。きょう限りクビだ。十六日までに合宿を出ていってもらいたい。それに給料は八月で打ち切りにする」と太ぶちの目がねごしに冷ややかな表情でいったそうだ。三人がガクゼンとなって念を押したのはムリもない。福沢、成田は濃人学校の特待生なのだ。福沢は濃人監督が日鉄二瀬から中日入りする時に、特にその片腕として一緒に入団契約をした師弟の間柄だし、成田は前田内野手の一年後輩で、九州出身の柴田チーフマネ兼スカウトの金城湯池としている熊本県熊本工業卒業なのだ。池谷は中川政人フリースカウトの口ききで石本ヘッドコーチが兵庫県の育英高から引き抜いてきた投手で、テスト生採用だが右太ピッチングコーチが手塩にかけて育てていた。それだけに三人のクビ切りは濃人ー石本も知らないうちに決められたようだ。ということは高田代表の密命を受けた柴田チーフマネが濃人ー石本に内証でやったことになる。はじめは濃人ー石本ラインに忠誠を誓っていた柴田チーフマネも、濃人ー石本ライン危うしとなっては、保身のために高田代表側に寝返りを打ったととれる。しかし驚くべきことには、これを知った濃人ー石本はほおっかむりをして、見て見ぬふりをしてしまった。腹の虫のおさまらないのは三人だ。池谷は規約の上でテスト生だから泣き寝入りになっても仕方ないが、福沢、成田はちゃんと統一契約書にサインをして今シーズンの契約をしている。「将来の見込みがないからクビにするというならなっとくするが、いきなり競輪や女に狂ったといわれちゃ立つ顔がない。おまけに八月で給料うち切りとはひどい。われわれは年間契約をしたから年棒の十二分の一を月給としてもらっているので、当然一月分までもらえるはずだ」と高田代表にくってかかった。ところが柴田チーフマネは「キミたちはオレが中日に入れてやったのに、オレの顔をつぶす気か」と顔色を変えて怒ったという。それに「二瀬当時の濃人さんは親分ハダの人でグラウンド以外で頼っていったらなんでも聞いてくれたのに、いまは人がかわってしまって頼りにならない」というように秘蔵っ子の福沢、成田のことでさえ相手にしないそうだ。しかし福沢成田にはクビという現実は重大問題だ。再度高田代表に会って統一契約書にもとずき、一月分までの給料の要求をしている。もし高田代表で話し合いがつけなければ大島球団会長、それでもダメなら内村コミッショナーに提訴すると強い態度でいる。合宿にいる二軍の選手たちの間では「あすはわが身」と大きな動揺をきたしているという。聞くところによると中日は六月分のナインの給料が払えないので東海銀行から一千万円借り入れたそうだ。シーズン途中の突然のクビ切り旋風は、そのシワ寄せととれぬこともないが・・・。
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佐藤護

2018-01-30 19:01:53 | 日記
1962年

スカウト合戦で話題をまいた選手とくらべ、佐藤君のプロ入りは、新聞の片スミにちょっと発表されただけである。だが、話題になった選手たちと技術面をくらべれば、佐藤君の技量が劣っているわけではない。愛知高時代から、そして愛知学院大時代でも、スマートで堅実な守備ぶりは天下一品という定評だった。もし佐藤君が東京六大学の選手として出場し、そのプレーをみせていたら巨人軍の広岡遊撃手を思わせるようなプレーが話題になったことだろう。愛知大学リーグ戦で佐藤のプレーをみた阪急の丸尾スカウトは「定評どおりみごとな守備だ。左右のフットワーク、肩といい、脚力といい、申しぶんない。この守備なら、いますぐでも通用する」とほれ込んだ。ことしの九月ごろに丸尾スカウトから入団の交渉があった。「プロを目標に一生懸命に野球をやってきた」という佐藤君は、阪急入団の誘いを心よくうけた。だが、母親敏子さん(52)の願いは、平凡なサラリーマンになってもらいたいということだった。「護が小学校六年生のとき父がなくなりました。いま家庭は私と長女美智代(19)の三人ですが、護を大学へ進学させたのは会社へ就職してもらうためだった」と母親徹子さんは語る。ノンプロの三重交通、西濃運輸はじめ、多数の会社から入社を誘われた。むすこのプロ入りについて、おかあさんは学校へ相談にでかけたそうだ。「むすこさんはもうりっぱに一人前ですよ。心配いりません」現国鉄の金田投手をはじめ幾多の名選手を生み出した芝野球部長の激励に、おかあさんは「むすこがその気なら・・・」とプロ入りを許したそうだ。母一人、妹一人の佐藤君がおかあさんといっしょにくらしたのは中学の三年生まで、高校からずっと合宿生活である。それだけに卒業後はともに楽しい家庭生活を夢みていたおかあさんにしてみればさびしいにはちがいない。佐藤君は愛知県弥富中学では速球投手で鳴らした。近くの蟹江中学には同じく中京大から阪急入りする早瀬君がいた。いまでも二人はよきライバルである。愛知高に入学した佐藤君は、芝野球部長の目にとまった。投手では大成しないとみた芝さんは内野手なら一流になる素質を見抜いて鍛えあげた、選手作りの名人芝さんの指導によって、練習を重ねるごとにうまくなった。大学へ進んでからますます上達し、ベスト・ナインに三度選ばれ、打者としても三番を打った。今秋のリーグ戦はしばしば好打でチャンスをつくり、またいいところでタイムリーを打つなど、リーグ戦第二位進出の原動力だった。「佐藤は一見弱弱しい感じをうけるが、あれで試合になるとずぶとい根性を持っている。野球人はこれでいいのだ」芝さんの佐藤に対する批評である。「プロへはいった以上はやはり第一線選手として、バリバリやりたい」という佐藤君は、いまキャンプ・インに備えて、木曽川でトレーニングに励んでいる。佐藤君は身長1㍍78、体重67㌔、スマートで、映画俳優の高倉健とよく似ている好男子とあって、某映画会社の関係者から「俳優にならないか」と誘われたことがあるそうだ。球友たちにも「野球選手よりも、映画俳優になったほうがいいぞ」などとひやかされるそうだ。昭和十五年七月二十九日生まれ。右投げ、右打ち。現住所は名古屋市南区六条町一ノ九。

愛知学院大部長の話 佐藤は真面目な男だ。それに親孝行でもある。きびしいプロ野球の世界でも立派にやっていくだろう。左右のフットワークは申しぶんないが、前進守備にちょっと難がある。常に出足をよくすることだ。プロはまず第一に打力がなければならない。かれにホームランは期待できないが、チャンスにつよくしぶといバッティングを身につけることが大成への道であると思う。脚力、肩もいいし、早く第一線に出場できるようにがんばってもらいたい。
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渡辺博文

2018-01-30 19:01:00 | 日記
1962年

加茂川の流れを横目にトレーニングに励むその顔に汗がじっとにじんでいる。京都の風は冷たいのに・・・。天気もすぐに変わる。いままで日がさしていたかと思うともうしぐれてくる。そうした中の川原を突っ走る渡辺投手の顔は無表情である。「先輩のみなさんがいっているようにぶつかってみなくてはわかりませんよ。自分の力なんか・・・とにかくやるときはやっておかなくては・・・」と黙々と毎日三十分の練習を欠かさない。十一月末に立命館大の合宿を出て下宿住まいをしているがやはり寂しそう。ひとりぼっちで走っているとよけいに社会のきびしさを感じるそうだ。これまでの倉敷工ー立命館大とエースの座を歩んできた彼にとって、こんどの阪急入りは、その人生における最大の難問だろう。「一年間やってみて、ダメならばそれから考えますよ」とドライに割り切ってはいるが・・・。彼と同じ左投手、岩本(豊浦高)浜崎(鹿児島商)が入団しているので、うかうかしておられない。大いにがん張らなくちゃあ・・・と決意はかたかった。渡辺のピッチングの持ち味は、コントロールの良さと打者のふところに食い込む切れのいいカーブだ。「プロに入ったからといって特別な工夫は考えていません。ただこれまでよりもいっそうコントロールをよくしようと思っています」これは藤井(関大ー阪神)など関西六大学の先輩にきいたのちの意見である。もちろん自分の特徴を自覚したうえのもので堅実な性格をにじませている。倉敷工から立命館大の二年までスイフトとカーブだけだったが、三年からシュートをマスターしてピッチングに幅をました。そして第二の人生であるプロ入りした以上は、投手としてコントロールにいっそうのみがきをかけて、投球の充実を計ろうとしている。これまで野球一筋に打ちこんできたので大した趣味もないので、シーズン・オフほど退屈なことはないという。「ひとりで練習していてもなんだかハリがない。正月には実家の岡山に帰りますが、早くトレーニングを始めてもらいたいです」とあまり太くない左腕をさすって笑っている。上背もなく貫禄がないようだが「十九貫のからだが春を待ちわびているんですよ」と冗談口も飛び出す。快活な青年である。明るく、おっとりした態度は、二男坊のせいだろうか。とにかく二男坊が思い起こす喜びも苦しみも野球を離れては何もないという。最高に惜しかったのは今秋の対関学一回戦で延長戦になったために完全試合を逃したこと。「関六初の記録でもあるし、自分の野球生活の上においても、まだ忘れることができない気持ちです」と青白い紅潮させ答辞のもようを語ってくれる。それにシーズンに10勝をマークしたのも見事な成績だ。とりたててハデなタイプではないが、倉敷工時代二、三年生のときに室山(一年先輩、阪神)三宅博(先輩、阪神)らとセンバツ大会へ連続出場。関六で昨秋、今秋の二度も立命館大を優勝させるバック・ボーンとなった実力と豊富な経験は、彼のピッチングのチ密さとなってあらわれている。持ち前の強さは実戦向きの男である。「西宮のマウンドは経験もあるし、できるだけ早く出て投げたいこと、そして左投手ということで案外早く登板のチャンスがくると思うのだが、岩本、浜崎両君のような強敵がいるのでね、負けたくありません」とすでに勝負意欲のさかんなところをのぞかせていた。昭和十五年七月四日生まれ、岡山市出身、現住所、京都市北区鞍馬口通り寺町西入、身長1・74㍍71㌔、左投げ左打ち

立命館大太田監督話 特徴のないようなタイプだが、倉敷工で二年も甲子園に出ているし、今秋、昨秋と立命大優勝の立て役者になったのだから実力はある。そうした豊富な経験をつんでいるのも彼のいいところだしマウンドではほんとに根性のあるピッチングを見せてくれる。少しスピードの点にくい足りないものはあるが、センスもいいし早くプロの水になじんでくれると彼の根性は高く買えると思う。バッティングもアベレージは悪いが、勝負強いし、打者としてもいい素質を持っている。
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西三雄

2018-01-30 19:00:01 | 日記
1962年

大毎先発西は、六回豊田、和田に連打され菅原にバトンを渡したが、ノンプロ球界の一級品だっただけに、まとまったピッチングをしている。とくにとりたてるほどの球威はないが、速球、変化球の制球力も一応よくととのっている。投手としてのバネがいいし、球威のわりに変化球、とくにシュート、シンカーの切れのいいのもそのためだろう。大きな期待はかけられないだろうが、大毎投手陣になって一段かえるだけの力は持っている。
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