プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

杉本公孝

2018-01-28 23:36:18 | 日記
1960年

一昨年の大毎がオープン戦で岩国に立ち寄ったことがあった。駅前の化粧品屋さんで買い物したとき、その店の女主人がぼくに気がついて盛んに自分の息子の自慢話をはじめた。立大の野球部にいてやっとレギュラーになったばかりだが、なかなか有望だということで、いい息子だということを盛んにしゃべっていたのを覚えている。いま考えてみるとどうもそれが杉本君のお母さんだったようだ。当時の杉本君はまだリーグ戦に出たばかりでぼくは知らなかった。しかし、そのごの杉本君は神宮でも何回か見たしテレビでもシャープなスイングは知っている。決してホームランをたたくロング・ヒッターではないが、シュアーな中距離打者で、とくにリストが強い。ぼくの母校慶応も彼のばっとでかなり苦しめられて実にいやなヤツだと思ったことも何回かあった。バッティングはまだ未完成だが守備は文句なしに一球品。肩はよし、フット・ワークよし、打球に対するカンもプロではりっぱに通用する。ただ心配なのは本職である三塁を守らしてもらえるかどうかという点だ。ライバル徳武君もはいったことなので三塁徳武、遊撃杉本という布陣が考えられるが、三塁から遊撃に移ることは並たいていのことではない。守備範囲が全然違うし、一塁までの距離も違う。同じ当たりのゴロをとるにしても三塁だったらスリー・バウンドでもとれるゴロも、遊撃の場合は四つバウンドしてからとることになる。二塁ベースを中心にしたプレー併殺、けん制、これがまたやっかいだ。三塁と遊撃ではまず文部大臣と外務大臣くらいの内容の差がある。二塁をやらされるかもしれないという話も聞いたが、そうなるとまたまた面倒だ。しかし杉本君は非常に努力家であること、肩と足がよいことから、案外早く新しいポジションをこなせるようになるのではないだろうか。杉本君にはもう一つめぐまれた点がある。それは徳武君が国鉄に入団したことだ。ライバルが同じチームで技を競り合うことはなによりもはげみになるものだ。キャンプでも練習でもとなりで片方が好プレーをみせればよーしオレもという気持ちになる。ただ一人ポツンととり残されるのにくらべたら相当違う。杉本君のプレーぶりをみていると、一つだけ気になることがある。それは地味な選手ということだ。徳武君の動きがかなりハデで大きく目立つ存在だけによけいに目につくのだろうが、プロの選手は長島をもって代表されるように、ハデな方が得をする。ハデにエラーばかりしていては工合が悪いが、地味な選手は実力相応に評価されない場合が多いし、目立たない。杉本はなるほどよい選手だとファンがいきなり目をつけるようなプロ的ななにものかを早く身につけてほしい。よい意味でのショーマン・シップはプロにはいった以上、これも勉強しなければならないことの一つだと思う。

出身校 岩国高ー立大 身長、体重、きき腕、1㍍76、75㌔、右投右打。
生年月日 昭和十三年七月四日。
現住所 山口県岩国市駅前。
背番号 未定。
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門岡信行

2018-01-28 22:54:51 | 日記
1962年

阪神最後の打者、遠井を三ゴロに打ち取ると、マウンドをおりる門岡に濃人監督がベンチからかけ足でとんできて握手。当の門岡以上に濃人監督のほうがよほどうれしそうだ。ベンチ前で高木時を相手に軽く肩ならしのピッチング。それがすむとふだんはあまり感情を顔に現さない門岡の顔が笑いでいっぱいになった。
ー代わりバナに少し打たれたが・・・。
「五回は投球が高めのコースにはいったのでいけなかったです」
ー武器にしたタマは?
「シュートです。江藤さんのサインどおりに投げました。だからカーブはいつもより少なかったです」
ーからだが最近大きくなったのでは・・・。
「3㌔ほどふえて、いまの体重は76㌔ぐらいです」
ー肩の荷がおりたろう?
「ええ、まあね。フフフ・・・」
江藤は「シュートがとても速かったのできょうはこれでいこう」と思ったのだという。五月二日相手も同じ阪神との五回戦で九回一死まで好投、初勝利を目の前にしながら逆転負けしておあずけを食ったが、こんどこそしっかり握ることができた。金のタマゴどうした?といわれ続けた門岡はこれで気分的にも楽になったはず。「きょうは最初から門岡のリリーフを予定していた。これでこんご自信をつけて投げてくるだろう」と濃人監督も手放しの喜び方だった。
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マニー

2018-01-28 22:26:25 | 日記
1962年

ニック・テスタ捕手の紹介で来日したフランク・マンコビッチ投手(25)=リトルワック(2A級)=は十四日午後、東京スタジアム内の大毎オリオンズ事務所を訪れた。松浦代表、宇野監督など球団関係者にあいさつをしたあと、ただちに塩津選手のユニホームを借りて軽い練習を始めた。最初ブルペンでテスタを相手に二、三十球投げたあと、グラウンドに出てランニングを行った。前夜羽田に着いたばかりで、練習といっても汗を流すていどのもの。本人の話によると「旅行の疲労がとれていないので本当のコンディションではないが二、三日中には普通のコンディションになる」といっており、大毎球団としては数日内に本格的テストをしたうえで正式契約する予定。同投手は右投げ右打ちで身長1㍍88、体重83㌔。球団では同投手をマニーの略称で呼ぶことになっている。大毎入りはほとんど確定的で「入団できたら残り60試合に10勝を目標にしてがんばる」と張り切っている。

ー日本で野球をやる気になった理由は?
マニー テスタから手紙でいろいろと日本のプロ野球のことを知らせてもらった。昨年まで2A級でやっていたが、アメリカでも2A級ではせいぜい四、五千人しかお客がはいらぬ。ところがテスタの話では日本は一万人ぐらいははいるということだ。これはたいへんな野球熱だと思う。そういったところでぜひ野球がやりたかった。こちらにくる前、二、三の大リーグから誘いを受けたこともあったが、年齢的にもう三、四歳若ければ大リーグのほうを選んでいたかもしれないが、二十歳を過ぎてから大リーグにはいったのではおそいと思った。
ー得意なタマは?
マニー はやいタマだ。
ーどれくらいのスピードボールか?
マニー 昨年投球スピード測定機ではかったときは88だった。(火の玉投手として知られたボブ・フェラーが90を記録した。普通のプロ投手は80をすこし越えるていどだそうだ)
ーそのほかの武器は?
マニー ドロップとシュート。
ー現在のコンディションは?
マニー 兵隊でもずっと野球をやってきた。ボクがいた隊のチームは軍隊ではもっとも強いチームで、ボクは7試合投げて全部勝ち投手となった。これまでのなかではことしがいちばん調子がいい。二、三日して旅の疲れがとれればすぐコンディションを取り戻せる。多分、この月曜日ごろにははやいタマを投げはじめることができると思う。
ーバッティングもいいそうだが・・・。
マニー 2A級のチームでは投手のなかでいちばんよく打った。打率は2割から2割5分くらい。オーバー・スタンドのホームランも打ったことがある。

松浦代表の話 数日中に本格的なテストをやりたい。そのうえで契約するかどうかを決めたい。

杉下コーチの話 はやいタマを投げていないのでなんともいえないが、フォームはまとまっている。
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秋本祐作

2018-01-28 22:08:58 | 日記
1962年

過去西鉄に五連敗の阪急は今季まだ1勝(南海から)しかしていない秋本を先発に起用する奇襲作戦に出た。立ち上がり若生を攻略して4点のリードをもぎとった打線のバックアップに大いに助けられた面はあったが、秋本は内外角をゆさぶるピッチングで米田、梶本兄らがニガ手とする西鉄打線を相手にもののみごとに完投、期待にこたえた。三、四年前は準エース格としてくせ球を売り物に活躍していた秋本はこの一、二年タマのキレに鋭さがなく、鳴かず飛ばずの状態だった。しかし、この夜はシュートの切れ味がすばらしく、タイミングをはずすカーブも小気味よく曲がった。しかもコントロールが絶妙。西鉄打線は左右に大きくゆさぶられて手の出しようがなく完全に秋本のペースに巻きこまれていた。最終回、長短4連安打を浴びてシャット・アウトを逸した秋本は「勝つには勝ったが八回までのがんばりがさいごで帳消しになった」としきりにくやしがっていたが、阪急六連勝の立て役者であることには変わりはない。戸倉監督が「きょうのゲームを秋本ひとりで勝てたのは夏場だけに大きい」とニコニコ笑っていた。
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八木孝

2018-01-28 21:59:33 | 日記
1962年

明大のエース八木孝投手(22)は十四日夜、同選手の後見人である大下弘氏(前阪急技術顧問)後援者の本川福治郎氏(佐伯市市会議員)と都内田村町の某中華料理店で話し合った結果、父親宗造氏の意向を尊重して最終的に広島入りを決めた。同選手は二、三日中に大分県佐伯市に帰省した後、広島で正式契約の運びとなる。八木投手は1㍍75、70㌔、左投げ左打ち、佐伯鶴城高出。
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楢崎量

2018-01-28 21:33:09 | 日記
1957年

楢崎は柔軟なフォームから繰り出す速球と切れのよいドロップがさえており、最近はスローカーブ、ドロップを巧みに使い分け、ときおり力にまかせて単調になる欠点も出さなくなった。もちろん大事な試合は楢崎一本ヤリ。

この日の若狭楢崎は速球だけでアウトシュートもきまらず、決して上出来ではなかった。
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下須崎詔一・上杉芳則

2018-01-28 21:22:18 | 日記
1962年

西鉄ライオンズは新人補強の第一陣として五日午後一時半、福岡市万町の同球団事務所で下須崎詔一(18)=鹿児島商、上杉芳則(20)=佐伯豊南高出=両選手の新入団を発表した。

下須崎選手のポジションは外野手、今夏の甲子園大会に出場した鹿商の主将、右足骨折のため不幸にして甲子園のヒノキ舞台は踏めなかったが、よくチームをまとめ、その強打は同チームの甲子園出場に大きく貢献した。昨年秋から今夏の甲子園出場決定までの打撃成績は20試合、71打数31安打、本塁打1、三塁打9、二塁打3で打率は0.437というりっぱなもの。右投げ右打ちで身長1㍍74体重72㌔、巨人、大毎、近鉄、広島の各チームから誘いの手がのびたが、両親も本人もプロに行くなら同じ九州の西鉄にと早くからきめていたので西鉄入団はすんなりきまった。体力もあり、素質に恵まれているので大成が期待されている。

上杉選手は教度にわたる新人テストのうちからただひとり合格した右投げの投手、高校時代の後半から卒業後にかけては軟式野球をやっていたが、身長1㍍75、体重86㌔というすばらしい体力の持ち主、スピードボールにはみるべきものがある。軟式出身の東映のエース土橋投手に似たがっちりした体格なので注目される。

西鉄川崎重役の話 下須崎君は非常に素質に恵まれた強打の外野手、両親がねっからの西鉄ファンだし、本人もはやくから西鉄にはいりたいと考えていたそうだ。他球団からも盛んに誘われたが、意思どおりに西鉄にきてくれた。体力もあり球団も大いに期待している。上杉君はテストに合格しての入団だが、これまた素質に恵まれている。軟式出身だが、体力もすばらしくかならずものになるというのが球団関係者の一致した意見だ。

下須崎選手の話 あこがれていたライオンズに入団できてうれしい。足のケガもすっかりよくなった。プロの世界でどこまでやれるか、目標といったものは別に持っていないが、ベストをつくしてがんばりぬきます。

上杉選手の話 テストを受けてプロ野球に飛びこむのですからボクはボクなりの堅い決意を持っています。どんな苦しいことがあってもけっしてへこたれることなく精進して一人前のプロ選手になる覚悟です。
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木原義隆

2018-01-28 21:04:59 | 日記
1964年

一日神宮球場で行われた東大戦で秋季リーグ戦の全日程を終えた法大の木原義隆投手(22)=法学部四年、右投げ右打ち、1㍍83、73㌔=は、試合後「プロ入りする。秋季リーグの閉会式のあと、実家(和歌山県海南市)に帰って家族とも最後の話し合いをしてから意思表示するが、意中の球団は決まっている」と語った。木原争奪戦には近鉄、南海が名乗りを上げていたが、近鉄の独走の形となっており、近鉄入りは確実である。

東京六大学リーグの好投手のひとりとして、木原には早くからプロの勧誘の手がのびていた。和歌山・海南高から法大に進み、二年生の春エースにのし上がったとき中退ープロ入りの動きさえあった。しかし二年秋のリーグ戦からフォームに迷い、以後山崎武昭投手(東映)の陰にかくれて低迷、プロの手も一時遠のいた。だが山崎が卒業して、四年生になった木原が再びエースの座につくと、巨人、大洋、東京、国鉄、南海、阪急、近鉄など各球団がつぎつぎと名乗りを上げた。下手投げだが、1㍍83の長身、しかもからだが柔らかいことに各球団は注目した。激しい争奪戦のすえ南海は鶴岡監督、近鉄は大西調査部長と、法大野球部OBで法友会に顔の広い切り札を動員。この両チームが勝ち残った。大洋は保井スカウト(現近鉄二軍ヘッドコーチ)が和歌山の自宅を中心に熱心に誘ったが脱落。南海、近鉄のつば競り合いも学校関係と実家に両面攻勢をかけた近鉄が、八月中旬にはほぼ確実の優位に立った。近鉄大西部長が、法大で鶴岡監督の先輩であるところから、同監督も巻き返しはできず、一歩ゆずった。九月末から十月中旬にかけて近鉄は別当監督の辞任、法大の先輩関根選手の退団など大きな人事の変動があり木原も動揺したが、大西部長が九月十九日上京してダメを押したとみられている。木原はことし春のリーグ戦ではまだ本調子ではなかったが、秋のリーグ戦では見違えるほどの進境をみせ、7勝8敗の好成績をあげた。上手投げのバック・スイングでサイド・ハンドから投げていたが、秋のリーグ戦を前に、先輩藤田省三氏から「それでは無理がある」と指摘され、完全な下手投げにフォームを変えたのがよかった。木原の武器は内角に浮き上がるシュートと落ちるシュートを投げ分け、外角をカーブで攻める下手投げ特有の投球の多彩さ。しかもスピードじゅうぶん。好不調の波のあるのが難点だが「調子のいいときはちょっと打てない」といわれるほどで、近鉄の大きな戦力になるだろう。

最後の東大戦を完封勝ちして有終の美を飾った木原投手は、さっそく報道陣の矢面に立ち、将来の野球についての抱負はと遠回しに水を向けられると、一瞬張りつめた顔になったが、あとはただニヤニヤ。川崎市今井仲町の合宿に帰ってひとふろあびるといくぶん気持ちもほぐれたようだったが、明確な意思は明かさなかった。

木原投手の話 もうゲームはありませんが、最後の閉会式には出たいから、まだなにも話せません。ただ僕自身の気持ちは九分九厘決まっています。あと一分がどうですかね。閉会式がすみしだい海南の実家に帰って、そこで意思表示をすることにします。

近鉄・大西調査部長の話 木原には八月から会っていない。木原は閉会式後一度和歌山へ帰り、兄さんと身の振り方を相談するだろう。高校生と違い、大学生は最後は自分で行く先を決めるのだから。私はg閉会式のとき上京する予定だが、すべてはそれからだ。もちろん一応の自信はあるつもりだ。
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野口勝治・島野育夫

2018-01-28 00:13:49 | 日記
1962年

中日ドラゴンズでは二十三日午後三時半から東京・品川の観光ホテルでノンプロ明電舎の野口勝治投手(23歳、作新学院出、1㍍72、75㌔、右投右打)同島野育夫投手(18歳、作新学院出、1㍍75、75㌔、右投右打)の入団を発表した。野口投手は三十三年に明電舎入社、三十五年の都市対抗には熊谷組の補強選手として出場しており、都社会人球界屈指の速球投手として知られている。島野投手は高校二年まで投手、三年生になって外野に転じ、昨春の甲子園では作新学院クリーンアップトリオの一角をしめた。今春明電舎入社後は投手、外野手として活躍した。なお背番号は野口投手が34、島野投手は63が予定され、近日中に登録、九月から二軍で整調する。

野口投手の話 中日が明電舎の球場で練習しているのをよくみたが、チームワークが良いのが強く印象に残っていた。ことしの夏ごろから調子がよくなりプロで一度自分の力をためしてみたと思っていたとき中日に誘われたのでうれしかった。ノンプロの投手がプロでがんばっているところをみるとボクもいけるのではないかと考えている。

島野投手の話 中日の明るいチームカラーにひかれた。中日には山中、門岡君らボクと同期の優秀投手がそろっているから、彼らに一日も早く追いつくよう努力したい。
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大熊伸行

2018-01-28 00:03:41 | 日記
1964年

大熊が南海打線を相手にのびのび投げ、6回で被安打一本、奪三振2、与四球2という好投をみせた。七回先頭唐崎に、内角高めの球を左翼席へぶち込まれ、つづく樋口にも打たれて高橋と代わったが、それまでのピッチングは、コントロールにやや難があったものの、伸びのある速球を内外角低めに決め、実にリズミカルなピッチングを披露した。ときたま配するシュート、カーブの切れもまず申し分がない。欲をいえばインタバルの取り方にいまひとつくふうすれば楽しめる存在となるだろう。捕手森は「ストレートをよく投げさせた。きょうは天気がよかったのでのびのび投げ込んでいたが、球がよく走っていたね。それに大きなカーブもよかったし、ブレーキのあるカーブ(小さなカーブ)もよく切れていた」と好投を認めていた。大熊は「久しぶりに自分でも満足のいくピッチングができた。ストレートを主に投げたが、よく走ったし、カーブの切れもよかった。いつもこんな調子で投げれば文句はないんですがね」と真っ白な歯をのぞかせていた。
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