プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大崎隆雄

2018-01-29 21:35:14 | 日記
1960年

大崎のピッチングをはじめてみたのは、ことしの夏の甲子園大会だった。フォームがぎこちない欠点はあったが、高校生ばなれのした体と、とてもいい素質を持っているように感じた。フォームがぎこちないのは腕の振りが堅いからで、体格のわりに球にウエートがのっていなかった。ところが先日大洋入りがきまって京都衣笠球場で実際に大崎の球をとってみて、体が非常にやわらかくなっているのに気がついた。昨年夏肩を痛め、昨秋から今春にかけて坂本(立大志望)にマウンドをゆずったがこのときのニガい経験が彼を人間的にも技術的にも成長させ、今夏の大会で活躍できたのだろう。「野球をやるために平安にはいったのに肩を痛めて野球ができなかった。眠れない夜がつづいたし、本当に目の前がまっくらになりました」と当時を語っている。いまは肩の痛みがすっかりとれ、腕の振りも非常にスムーズになっているが、グローブを持つ左手の使い方がまだまずい。そのため体が大きいのにフォームが小さくなっている。左手を大きく使えば打者に威圧感を与える。また球速も豊かになり、いっそう有利になる。そういうフォームの欠点はあるが、目標を定め、よくねらって投げていたのには感心した。大崎は上から投げおろしたときにスピードがあり、コントロールもよく球が生きていて申し分ないが、ときどき投げるサイドからの球はスピードが落ち、球が死んでいる。サイドから投げては1㍍82の恵まれた上背を殺してしまう。大崎がプロの投手としてやっていくにはまず三つの欠点をなおさなければならない。第一は球の軽いこと。第二は腰の小さいこと。第三に体に似合わず気が小さいことだ。球の軽いのは正確なコントロールをつけることである程度カバーできる。腰まわりをもっと大きくするにはランニングで鍛えることだ。腰から下が細いから腕だけにたよろうとするところがある。腰を張って腰で投げるピッチングをすれば下半身も大きくなるだろう。下半身の小さいことがカーブにも影響して、手先だけで投げようとしている。カーブはストレート以上に腰で投げなければいけない。シュートもカーブもいちおう投げられるのだから、変な球種もおぼえることはない。いまのまますぐ第一線はムリだろうが「二、三年二軍で勉強したい。いますぐ一軍のユニホームを着ようとは思いません」というとおりみっちり鍛えて将来にそなえる気がまえが大事である。

大崎投手の話 「同僚に坂本君といういい競争相手がいたことは幸いだった。ことしの夏の大会では堅くなったが、動揺しない精神力をつけることが第一だと思っている。技術的には疲れてくるとステップが大きくなるので、腰が落ちて力を使うわりに球が切れなくなるのをなおしたい。土井垣さんに聞いてみたら「踏み出す左足のツマ先が内側に向かないからだ。日常歩行のときも少しくらいかっこうが悪くても内またで歩くようにつとめなさい」といわれました。下半身を鍛えて一日も早く公式戦に出たい」

大崎投手略歴 高野中(京都)出身。中学二年までは捕手、三年から投手に転向したが中学時代は大きな大会に出場していない。昭和三十三年平安高入学、藤野(東映)卒業のあとのエースとなった。今春の選抜では昨年痛めた肩がまだ回復せずスランプ、高松商にKOされた。しかし夏の予選ではあざやかにカムバック、坂本に代わってエースとなり西舞鶴高(七回コールド)を一安打、16三振。東山高を11三振、ノーヒット・ノーランにおさえるなど五年連続甲子園出場の立て役者となった。甲子園大会でも金沢市立工を1安打、14三振に押えたが、鹿島高戦には自分の暴投(スクイズを警戒したウエスト)で惜敗した。平安高野球部はじまって以来の長身投手で、高校球界きっての本格派。

出身校 平安高。 身長、体重、きき腕 1㍍82、75㌔、右投右打。
生年月日 昭和十七年四月二十三日。
現住所 京都市左京区高野蓼原町三一。 背番号 未定。
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竹屋三郎

2018-01-29 20:35:34 | 日記
1962年

プロ野球の各球団から好投手としてプロ入りを進められていた社会人野球協和酸酵(山口県防府市)のエース竹屋三郎選手(20)=岡山県井原市高屋町=は三日中日ドラゴンズに入団する意思を表明した。中日球団では近日中に同選手と正式契約をする。身長1㍍78体重78㌔、左投げ左打ち、福山工高出身。

福山工時代は投手兼四番打者として活躍した。昭和三十五年ノンプロ協和酸酵に入社、この年に、巨人軍の監督だった水原(現東映)が入団を誘ったことがあった。それから一年一年、進歩をみせる同投手にことしの三月ごろから各球団がマーク。阪神、巨人、中日、広島、阪急、西鉄、東映、南海の八球団が激しい争奪戦を演じた。はじめは水原監督の関係から東映、地元の西鉄に有力という見方が強かったが、阪神は有力者某氏を仲介に西鉄有力をくつがえし、阪神への入団はほとんど成立していたようだ。竹屋投手は上段から投げおろす本格派左腕投手で、社会人球界の各関係者は「竹屋投手のインコース低めをつく速球はノンプロの打者ではちょっと打てなかった」といい、また「インドロップにいいコントロールを持っているのが彼の絶対的な強みだ」と評価している。

柴田スカウトの話 竹屋君は早くから左腕の好投手として注目を集めていた選手だ。彼のいいところは左腕投手特有のインコース低めをつく速球、切れのいいドロップだ。私は後半戦に活躍してくれることを期待している。左の権藤になってもらいたいと願っている。
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菅原紀元

2018-01-29 20:15:36 | 日記
1962年

「神宮はどうもいやですよ。何かおはらいでもしないと・・・」この夜試合前、暗い通路から明るいグラウンドに出た瞬間、大毎白川マネがおはらいのまねをした。過去神宮で大毎は東映に2勝9敗、バッテリー間千八百、内外野千七百ルックスと日本一明るい球場とはうらはらに大毎ナインにはいやな神宮のムードがしみついている。それを突き破ったのが菅原。四回一死満塁でディサをリリーフ。代打稲垣の中犠飛で1点は許し3-2とつめられながらとにかく虎の子の1点を守りきった。これで8勝目。六月十七日の南海戦に勝ってから八十六日ぶりの勝利だ。「必死だった。張本を三振にとったのは二回ともストレート。打たれても元々と思って投げました。まあやぶれかぶれで投げたのが成功したんです」汗びっしょりだ。グレーのユニホームだから余計に汗がしみ通っているのがわかる。杉下コーチは「いまのフォームがバラバラでボクとしては投げさせたくなかった。とにかくよくやってくれたよ」と手ばなしのよろこびようだ。そんな菅原に「スガおめでとう」ナインの手がつぎつぎにさし出される。「ありがとうございます」いちいちていねいに、頭を下げる菅原。菅原は父親源十さんと母親花子さんとの間の一人っ子。現在でもことしの正月に母親が成田山で買ってきてくれたお守りをしっかりとズボンのポケットに入れ、また毛糸であんでもらった肩当てをつけている。「最近は投げても投げてもポカばかりでしたから、きょうは格別のうれしさです」ともう一度ポケットのお守りにそっと手をのばす。ことしで四年目だが菅原とはそんな純情な男である。
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大庭清

2018-01-29 19:46:52 | 日記
1962年

重松=アンダースローに投法を変えたが、トレーニング後半でみなについていけるようになった。努力しだいではおもしろい存在になる。

武末=短期間でアンダースローをなんとかこなせるようになったのだから素質はりっぱなもの。くせのあるタマも投げる。アンダースローの特異性からみて、一軍におどり出るチャンスは大いにあるのだから、ファイトをたぎらせてほしい。
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松本照夫

2018-01-29 19:45:33 | 日記
1965年

4年間の長い春に終止符を打って、松本照夫投手が去る十日東京のホテル・ニューオータニで岡野代表夫婦の晩酌で結婚式をあげた。新婦は東京都千代田区神田須田町二の一九船木猷夫氏長女三津子さん(立教大学在学中)で、学生時代からの交際がやっと実を結んだもの。立教中退、物議をかもして阪急入りした松本は、プロ入り1年間を無意味に過ごした。入団が決まった時、西本監督は、「外人選手をひとり獲ったのと匹敵するだけの投手だ。5勝は期待してもよいのではないか」と大きな望みを松本にかけていたが、プロ入り1年目は水に慣れなかったのか、そのほとんどがファーム暮らし。1勝すらあげることが出来なかった。「本当に寂しい1年間だったが、この苦しみに耐えられたのも三津子さんのカゲからの激励があったからだ。いままでのような安易な気持を改めて真剣に野球と取り組みたい」結婚の決意を松本はこう語っている。
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三浦清弘

2018-01-29 19:44:38 | 日記
1962年

最終回、2四球を出して一死一二塁のピンチを招いた三浦を鶴岡監督が呼び寄せて何ごとかをささやいた。気を取り直した三浦は当たっている和田を三振に切っておとして井上忠を遊ゴロにうちとり1点差を守り切った。相好をくずしてんナインの祝福にていねいに礼をいう三浦はこれで13勝、いまや押しも押されぬ南海のエースだ。「初回の二死三塁で豊田を一邪飛にうちとったのが大きかった。西鉄が打ち上げていたのはシュート。ゴロはスライダーだったがきょうはスライダーとシュートをうまいぐあいに使い分けできた。この前の大毎戦あたりから調子があがってきたのです。まだまだこれからがんばらなくては・・・」と静かな口調で語る三浦はこれが調子づいた西鉄をおさえた投手か?と思いたくなるほどのやさ男。鶴岡監督も「三浦はこのところ酷使気味で疲れているがよく投げてくれた。ピンチで二回ほど呼びよせたのは注意でもなんでもない。もうけもののリードだから同点になってもともとやといったまで・・・」とうれしそうだった。
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木原義隆

2018-01-29 19:44:08 | 日記
1964年

近鉄入りが内定していた法大木原義隆投手(22)=1㍍83、72㌔、右投げ、右打ち=は十三日、東京・武蔵小杉の法大内で行われた納会後、正式に「近鉄のお世話になります」と近鉄入りの意思を表明した。同投手は海南高校時代甲子園大会に出場、法大二年生の秋季リーグ戦で好リリーフをみせ、優勝に貢献、三年生のときは山崎(現巨人)竜(現東京)の陰にかくれ目立たなかったが、今春エースになった。プロ球団は近鉄のほか、南海なども誘いをかけたが、スタートから近鉄が独走したもの。なお同投手はきょう十四日、和歌山県海南市の自宅に帰り、近鉄との正式契約は十八、九日のいずれかになる模様。

木原投手の話 近鉄さんは最初からずっと変わらぬ誠意をみせてくれたし、好不調にかかわらず常に僕を買ってくれていました。また高木さんや根本さんら先輩もいるので、最初から近鉄以外は考えていませんでした。もちろんプロでやれる自信があるからはいったので、同じ人間がやるのだし、ある程度いけると思っています。何勝するというより、まず最初の1勝をめざしたい。目標は杉浦さん(南海)秋山さん(大洋)ですね。やはり同タイプの投手ということになります。
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迫田七郎

2018-01-29 19:42:51 | 日記
1964年

ペナント・レースが終わったとき東京の幹部達は、なんとか小山坂井につづく、第三の投手を得たいと思った。トレードでその候補を物色するかたわら、連日の練習では若手を一人前にすることにとりかかった。その若手の一番手が三十一日足利市での対大洋オープン戦に先発した迫田。ベスト・メンバーに近いオーダーの大洋打線相手であり、ひとつの試金石とみられたトライアルだった。これを六回まで4安打の散発、みごとな投球で投げ切ったあたり、来シーズンへの大きな希望の光りが輝いたといえる。迫田七郎、昨年秋、鹿児島から知人の紹介でひょっこり東京へやってきたときはまったく無名だった。マウイ・キャンプへも行けず突風吹きすさぶ川口球場で、ホオを真っ赤にさせて黙々と投げていた。そのピッチングは、ねちっこいという形容詞がぴったり。残留組の坂本、三浦、植村三コーチの秘蔵っ子としてサコとかわいがられていた。ナインの評判も「サコの球は自然に落ちる」「シュートがいい」とよかった。六月一日の研修明けまで迫田は、イースタン・リーグでのヒーローだった。ジュニア・オールスターにも選ばれ「サコが出ると勝てる」とナインの信頼もピッチングに自信をつける要素となった。六月からは待望の一軍入り。だが、好事摩多しというのか、先発を予定されていた東映戦で二回も雨で流れ、そのうち一軍で神経を使ったが、八月十日から病に倒れた。川口球場でまるまると太っていた顔がいまでは見る影もなくやせて、ゴツゴツした感じだが、その肉体的な苦労とは逆に、彼のピッチングはますますみがきがかかってきた。イースタン・リーグの成績は11勝4敗。もう来シーズンへの欠かせない戦力である。「このオープン戦4試合は、毎日でも投げさせるんだ」と真田コーチも期待をかけ、そのことばどおりこの日の先発となったが、なみいる大洋打線をピタリと押さえた力投に「サコがよく投げられるようになった。まだスタミナの点で完投はむずかしいが、後半までもちこたえることができたのだからりっぱだ」と本堂監督も賛辞を惜しまない。「病気をしてからピッチングが少し変わりましたがかえって前よりもよくなった感じです。腰の入れ方をちょっと少なくしたのがよかった」と、とりかこまれた迫田は小声で語ったが、大先輩小山のピッチングを目のあたりに見て、いままでの投球にムダが多かったことを見出し、それを自分で直したところにも、彼の良さがうかがわれる。「とにかく一軍で投げたい。そして新聞に乗った記録や写真を鹿児島の家へ送るのが、なににもまして僕の楽しみです」とシーズン中いいつづけてきた迫田だが、来シーズンこそ、その夢もかなうだろう。
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飯尾為男

2018-01-29 19:38:15 | 日記
1959年

「オールスターに選ばれてこんなうれしいことはない」素直に受け、手ばなしで喜ぶ開きっぱなしの快青年。飯尾とはこんな男である。「プロ野球に入ったとき(大映)ぼくは一番若いプロ野球選手で十六歳だった。当時の球団にはスタルヒン、飯島、伊賀上というベテランのお父ちゃんばかしやった。毎日毎日三十分間、夏でもフリー・バッティングのピッチャーをやらされてきた。シンドかったよ。それがいま東映ではぼくが一番トシヨリになってしまった」十年選手。しかしまだ二十六歳。十年たてば去ってゆく名選手の多いこの世界で、十年たってようやくエースの地位に近づきプロ野球選手のすべてが望むオールスターに選ばれた。変ったコースを歩む、本格派投手飯尾とはこんな男である。「大映では藤本さんや先輩が、コセコセ投げるな。速い球を投げろ!といわれて育った。十年たってまだ肩もこわさず、ますますコンディションが出そうなのは、この指導のお蔭だと思う。カーブや変化球を投げさせられていたなら、十年ですっかりメチャメチャになっていたでッしゃろな」自分を育ててくれた監督や先輩に、常にその感謝の念を忘れぬ男、飯尾とはこんな男である。「だからぼくはいまでも、多少スピードは全盛時代よりも落ちると思っとるけれど、ゴマカシの球は投げないつもりや、タマにゃあ打たれてもいい。豪速球をドカンと通したい。その球で三振を取ったときの気持は、真夏のサカリに、冷たい生ビールをグートやったときのような気持やな」飯尾とはこんな男である。「もう一人ぼくには尊敬すべき先輩がいる。もと大映のショートをやっていた山田潔という人、いま大毎の二軍のコーチをしているんだけど、十年間つき合って、最初から最後までボロの出ない誠実な人だ。地味で堅実でウソがない。ぼくはこんな人を手本に、ぼくの人生を歩いていきたい」飯尾とは、こんなことをいう男である。一・七六メートル、七〇キロ。昭和八年生まれ愛媛県の出身。新居浜高から大映、高橋東映とその恵まれた体格と剛球を武器に十年間。ようやく東映でその実力を発揮するキザシに立っている。五人兄弟のオトンボ(末っ子)。東京では姉美智子さんとの二人暮し。大田区上池上に立派な家を建ててヒッソリと住んでいる感じ。お嫁さんはまだらしい。「早ようもろうてもらわんと、わたしお嫁にいけません」とお姉さんがいう。「もうもらわなあきませんか」とは無責任な返事。「もうそろそろとは思うてますが、これというのが見つかりませんので・・」二十六歳だが十年選手の経験がそうさせたか、三十すぎた分別もある。「どうせもらうなら、ショートパンツぐらいハイて、やあ為さん!とくるような女房がいいね」ときた。飯尾とはこんな男である。「ぼくは子供が好きでね」と話を逃げる。「家の表で遊んでる近所の子供とソフトボールをして遊ぶんです。昼間ね。すると夜の試合のとき身体がやわらかくコンディションがいいんです。昼間、家の中でゴロゴロしてると身がナマっていけまへんな」飯尾とはこんな男である。「ピッチャーは大変ですよ」話は野球にもどる。「バッターを向こうに回して戦うのは当たり前の話ですが、審判との戦いもある」ヘエーと驚いてみせると、「くさい球をボールに、しかも大切な所でボールにとられると、たいてい頭にくる。しかし、カーッとなって審判に頭にくるような抗議をするとやっぱし損だ。次からのくさい球はみんなボールに取られちゃう」なるほど十年の経験だ。「また審判によっては現役時代にインコーナーに強かった人、または、高目に低目にとそれぞれ好き嫌いの好みがあるものや。あの審判はインコーナー好みやな、テナぐわいにその好き嫌いを心得てやらないと、大損になるときが多い。そんなときは取ってくれないとストライクゾーンはあきらめた方がよい」うーむ。審判との戦いとはこんなところをいうのだね。「だから、バッターの好みと、審判の好みも調べておかないとあかん。その上に自分との戦いがある。働くのは辛くともつねにベストコンディションを保ってなけちゃならんしな」関西なまりでさりげなくいうが、飯尾とはこんな男である。巨人藤田とは昔しの球敵よろしく藤田と振りあうべし。
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