プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

屏道夫

2014-04-18 23:09:03 | 日記
1964年

去る十月二十二日、秋のオープン戦を目前に控えてナインが、多摩川グラウンドで最後の練習に励んでいるところへ、ひとりの青年がユニホームをかかえてやって来た。「よろしくお願いします」言葉少なにあいさつすると、この青年は黙々とボールを拾ったり外野を走ったり。どこかで見た顔だと思ったら、つい最近巨人を自由契約選手になった屏道夫内野手だった。福岡京都高を出た屏は、期待されて巨人へ入団、第一線選手を夢見てがん張ったが、その望みもも空しく、今シーズン限りでとうとう自由契約にされてしまった。一度は公式戦の舞台に立ったこともあった屏は、3年間のプロ生活を清算するにはどうしても心残りだったようだ。思い余ったあげく、水原監督にテストを申し出てきたものだった。「一からの出直しのつもりです。一度みてください」とこの日、東映のグラウンドに現れたというわけだ。この日は水原監督もグラウンドに姿を見せており、一応練習を許可、テストをすることになったが、屏の真剣な体当たりにどんな答えが出るか。面白いことに東映の練習グラウンドと巨人のグラウンドは多摩川をへだてて東京川に巨人、川崎側に東映と文字通り目と鼻の先にある。選手の動きなどはお互いに見えるくらいだが、わき目もふらず練習に励む屏に、ナインも温かいまなざしでこれを見守っている。
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山本英規

2014-04-18 23:08:20 | 日記
1964年

「バリバリ食ってるんだけど、全然肉がつかない」と嘆く選手もいれば、太り過ぎて動きがとれないと嘆いている選手もいる。世の中とはままならぬものだが、後者の代表格はなんといっても巨人の期待のルーキーといわれてきた山本だ。山本は昨年、広陵高から超高校級の三塁手でスラッガーというふれこみで入団したが、今シーズンは一軍へ一度もはいれず、期待はずれに終った。というのも第一は太り過ぎが原因。1メートル75と上背は余りないのに体重は80㌔を軽くオーバーして増える一方。練習でしぼられても栄養を補給するとたちまち盛り返して一向にききめがない。そのうえ山本は生来の鈍足。もともと足の速さと肩の強さは少々練習を積んでもそうそうよくなるものではないといわれている。だから山本の場合などは泣きっ面にハチというわけだ。機敏な動きを要求される三塁はこれではこなせないということで、今シーズンはイースタンでも三塁手はわずか5試合に出ただけ。あとの23試合は一番動かなくていい一塁へ定住してしまった。打率は2割5分(32打数8安打)をマークしたものの、太り過ぎで腰の回転が悪いために持前の長打力も影をひそめ、二塁打が1本という頼りなさ。攻守に全くの鳴かず飛ばずに終わってしまった。「一生懸命にやったつもりですが・・。とにかく足を速くすることがボクの第一の課題ですから、秋季練習と来年のキャンプで走りまくります」と山本はいま多摩川でランニングに励んでいる。南村コーチは「バッティングはよくなったんだが、足を速くすること、やせることに一層努力しなきゃいかん。足腰のバネをつけさせるために山本には特別に砲丸投げをさせようと思ってるんだが・・」と今後の飛躍を期待している。
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高木孝三

2014-04-18 23:07:08 | 日記
1964年

日本国民の期待に答えて重量挙げフェザー級で金メダルをとった三宅選手。一万メートルで六位、マラソンで銅メダルを獲得した円谷はともに自衛隊出身の選手だが、この二選手の大活躍を誰よりも大喜びしているプロ野球選手がいる。このシーズン・オフに自衛隊から初めてプロ野球にはいった大洋の高木孝三投手(20)=広島県佐伯郡五日市町出身=がその人。高木投手は三十七年、高校野球界の名門、広陵高から自衛隊の試験に合格して山口県防府市の第一航空教育隊に所属していた「空士長」さん。高木投手は五日市中学時代から右腕の本格派ピッチャーとして鳴らし、広陵高でも速球投手として活躍していたが、三年生の春、練習中に右ヒジを痛めてピッチングが出来なくなった。「メシより好きな野球・・・」も右ヒジの痛みには勝てず、高木投手はとうとう野球を断念して自衛官募集に応募した。「大学へ進学していい加減な生活をするんなら、三年間ぐらい自衛隊で鍛えられるのも悪くない。若い間は苦労しなきゃ・・」これが志願にふみきった理由。時間にしばられる規律正しい生活がそれから始まった。もちろん余暇にやるクラブ活動では野球チームへ一番にとび込んだのはいうまでもない。右ヒジは少しずつ回復してきた。対抗試合には自らピッチャーを買って出るようにもなった。そして今年の七月、都市対抗で中国地方の代表になった山角鉄鋼の補強選手としてかり出されるまでになった。都市対抗では運悪く一回戦で敗れはしたが、そのピッチングを山角鉄鋼の有吉コーチ(元西鉄投手)に認められ、「どうせやるなら思い切りプロで投げてみろ」といわれてとうとう大洋入りを決心した。高木投手はいま、十三日から多摩川で始まった秋季練習に参加して、元気に投げまくっているが、1㍍75、68㌔のやや細身のからだは大男ぞろいの若手組にまじると小さく見える。しkし、右腕から投げ下ろすタマはかなりのスピードが乗っている。土井コーチの評価は、「スピードはあるが、まだコントロールがついていない。練習もやらせてまだ日が浅いせいもあるが、これからうんと投げ込んでコントロールを身につけることが第一」と点は辛い。しかし、若い選手たちの面倒を見ている谷口寮監(元ピッチング・コーチ)は、「最近の若い選手は団体生活についていけないような面が多いようだ。その点高木は自衛隊で暫くでも鍛えられたせいか、すぐに合宿生活にもなじんでピリッとしたところがある。じっくり努力していけば、一人前になるのも早いだろう」とみている。自衛隊時代から時間にしばられる習慣がついてしまっている高木投手は、「朝早く目が覚めて弱ります。合宿生活は慣れっこですから、ちっとも辛くなんかないです」一軍のマウンドで高木投手の雄姿が見られるのはいつのことか。自衛隊出身の第一号として注目してみたい。
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上別府幸一

2014-04-18 22:10:53 | 日記
1964年

こんど西鉄入団が決まった上別府幸一投手(18才)は、西鉄はいうまでもなく、来シーズンの新人投手中でも異色として注目されている。まだ硬式野球では実力は未知数だが、軟式野球界では三十八年、日本ジャスパー興産(宮崎県高千穂町)のエースとして国体全国優勝。ことしも国体九州予選優勝のあと、全国大会で一回戦に丸善石油に敗れはしたが延長十五回を投げ抜く活躍で軟式球界では一級品というもの。左腕で体もあり(身長180㌢、体重64㌔)素質もいいものをもっていると前評判は上々。今練習に参加している中の異色として注目されている。
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特殊な経歴の選手

2014-04-17 23:10:03 | 日記
倉橋寛「元・南海」投手、1965年入団
・南海時代の3年間は一軍登板がないまま自由契約になりその後、平凡なサラリーマン生活を送る。しかし、プロへの未練が断ち切れず1970年秋、大洋の入団テストを受け合格。再びプロのユニフォームを着る。

佐藤文男「元・近鉄」投手、1972年入団
・高校3年時「戸手商業」、道端に落ちていたスポーツ紙を拾い上げ、偶然に近鉄のテスト生募集の広告を見つける。試しに受験してみたところ見事合格。一時は近鉄のリリーフエースにのし上がる。

藤瀬史郎「元・近鉄」外野手、1976年入団
・大阪体育大学4年生だった藤瀬は公立、中高の教員採用試験を受けるが不合格。秋になっても就職口が決まらなかった。そんな時、スポーツ紙で近鉄テスト生募集の記事を見て「これでも受けてやれ」と冷やかし半分で受験した。当日、60人の応募者の中で藤瀬一人だけが合格となった。

柴田民男「元・大洋」投手、1977年入団
・ノンプロ時代「富士重工」5年連続して都市対抗の出場経験がある柴田だが、1976年の大会終了後、退社し家業の寿司屋板前修業に本格的に取り組んでいた。そんな矢先に大洋球団からプロ入りの話が持ちかけられ、27歳でのプロへの挑戦を決意した。

夏目隆司「元・阪急」投手、1977年入団
・高校卒業後「静岡・三ヶ日高」、家業の果物栽培を継ぐために地元の農業短大で勉学するかたわら、機械部品メーカーの草野球程度のチームに籍を置き、密かにプロ入りのチャンスを狙っていた。1976年秋の巨人入団テストに落ちるが、その後
に受けた阪急のテストに合格。夢を叶えた。

河村秀則「元・大洋」外野手、1978年入団
・桜宮高校時代、プロからの誘いを断り社会人「デュプロ」に進む。しかし間もなく退社し、ダンプの運転手に従事する。その合間に自力で野球修行に励み、1977年秋の大洋入団テストに合格する。

花増幸二「元・日本ハム」投手、1978年入団
・当時、史上3人目の国立大学からプロ入りを果たした選手。在籍していた鹿児島大学はカーブさえ投げておけば打たれないという、低レベルな南九州4県リーグに属していた。プロ生活を2年で終え、1980年からはファームのトレーニング・コーチに就任する。

松永浩美「元・阪急」内野手、1979年入団
・高校「小倉工」を私的な事情により2年で中退。数々のプロ球団の誘いの中から阪急を選択するが、高校中退の場合、翌シーズンは選手登録できないという規定に引っかかり、1978年は球団職員という名の練習生として過ごす。翌79年、晴れて正式入団となる。

上川誠二「元・中日」内野手、1982年入団
・箕島高校時代は輝かしい活躍を見せるが、卒業後に在籍したノンプロ、三協精機、大昭和製紙富士の野球部がたて続けに休部になるという不運に見舞われる。背水の陣でのプロ入りだった。

稲垣秀次「元・巨人」投手、1983年入団
・リトルリーグ時代は荒木大輔「元・ヤクルト」と並称される活躍を見せる。中学卒業後は野球とは無縁と思われる田中土質基礎研究所という会社に就職し、軟式野球を楽しんでいた。1982年、一念発起し巨人の入団テストを受け合格。荒木と同じ土台に立つ。

森田実「元・巨人」捕手、1984年入団
・高校卒業後、ノンプロ・三井造船に就職するが1982年に退社し、同年秋に巨人の入団テストを受ける。結果は合格だったが、高卒者で就職した者は3年間プロ入りできないという規定に引っかかり断念。83年は土木関係の仕事に従事するかたわら野球の練習にも励んだ。同年秋、巨人のテストを受けるが再び合格。プロ入りを果たす。

矢野和哉「元・ヤクルト」投手、1986年入団
・ノンプロ時代「神戸製鋼」、利き腕にメスを入れた経験がある。当時、球界でタブー視されていた、利き腕を手術した投手がプロ入りしたのは初のケースだった。

森山良二「元・西武」投手、1987年入団
・高校時代から注目された投手だった。卒業後は2浪し北九州大学で野球を続けたが家庭の事情で退学。1986年は小倉の食品会社「ONOフーズ」に勤めるかたわら少年野球の指導をしていた。西武球団は森山の素質に目をつけ、同年8月に投球テストを行い、早々と秋のドラフト指名を決定していたという。
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田中祥浩

2014-04-14 22:00:30 | 日記
1969年

先発投手の田中は上手投げの本格派で速球とカーブが武器。好調の波に乗れば相手を寄せ付けないが、まだ無理があるのが課題。
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渡辺博文(一史)

2014-04-13 20:16:18 | 日記
フォーム・・・打者のタイミングを狂わす独特の投球フォーム

球種・・ストレート、カーブ、ドロップ

1958年

渡辺は中国大会では肩の不調で球の切れが鈍かったが、すっかり回復して打者のタイミングを狂わす独特の投球フォームからカーブを主とした変化球に十分期待がかけられる。

1965年

プロ初勝利

六回から巽に代わった左腕渡辺のカーブを打ちあぐんでいるうちに、巨人は足もとをすくわれた形。渡辺はプロ初勝利。

もう一人のヒーロー、渡辺投手は「この前の巨人戦(八月十六日の19回戦)は、みっともなかったんで(ボークで1点とられ、一回もたずに降板)アダうちのつもりだった」と語る。この春阪急をやめ、湯之元のスワローズのキャンプにテスト生で参加し左投手だから、とっておいて損はないよと員教で入団した渡辺が、まさか勝利投手になろうとは、この夜の砂押監督の筋書にもはいっていないうれしい誤算だったろう。渡辺が投げ勝って、宮田の球宴、NO砲の5安打が出た巨人が負けるー信じられぬことづくめの三時間十分のロングゲームだった。
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荒川巌

2014-04-13 20:03:31 | 日記
フォーム・・上手投げ 球種・・・ストレート、カーブ、シュート

1963年

稲川と荒川の投げ合い。荒川はシュート、カーブの切れもよく堂々たる投球。だがわずか一度のつまづきで敗戦投手になってしまった。大洋は五回無死長田が第一球を右中間二塁打、バントで三進したあと島野の代打箱田が左中間に安打してやっと一点を取った。箱田の一打はつまっていたが高目だったので内野の頭を越えたもの。稲川は一、四回一、二塁に走者を出したがうまく切り抜け五回からは無安打に国鉄をおさえた。これで稲川は六連勝。これで大洋は四位となった。
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松本隆春

2014-04-13 09:42:56 | 日記
1976年

長身を利して、上から投げおろすストレートは、新人と思えぬキレを見せる。「速球で勝負する投手になりたい。早く一線で投げるのが目標です」。めぐまれた素質と、負けずぎらいの性格はこれから楽しみにしてくれる。
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舞野健司

2014-04-13 09:23:07 | 日記
1968年

一メートル八六と今大会で最長身の大型捕手として、目をひいたものだ。田淵(法大)よりも三センチも長身だ。東京あたりは、早くも実家にまで乗り込んでいっているのをみても、各スカウトの今後の動きに注目したい。足も一塁まで四秒一と遅くはない。ウドの大木的な鈍さがないという証拠をみせつけているのは頼もしい。スローイングもなかなかいいのがまた魅力でもある。
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森山学

2014-04-13 09:02:03 | 日記
1975年

昭和31年11月10日生 1㍍82、80㌔、右投右打
熊谷商ーロッテ

掘り出しものの可能性大。ズングリした体で上体の強いピッチングは尾崎(浪商ー東映)にそっくり。速球が武器だ。
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奥田敏輝

2014-04-13 08:00:22 | 日記
1967年

六連勝を記録、新人王に向かってひたすら走る阪神のルーキー江夏にくらべると高校時代この江夏に投げ勝ったライバル奥田の出遅れが、あまりにも目立っている。トーナメント大会前の阪急戦でめった打ち。三イニングで三ホーマーの五安打を浴びてKOされ、自信を喪失した。「阪急がよく打つと聞いていたので試合前から意識過剰になっていたようです」以来コントロールの甘さ、スピード不足に自信喪失が重なってト晩のチャンスさえ失った。悪いときには悪いことが重なるもの。下手ー横手とフォームを変えているうちに右腕を痛めた。リードされている江夏に対する焦りもようやく薄れた。「いまから焦ってもしようがない。後半戦に備えてがんばります」渡辺コートの指導でスライダーを覚えた。落ちる球の威力もかなりだ。こうした長所を伸ばすため、不遇な現在をランニング、下半身の鍛錬ですごしている。江夏に追いつけ追い超せ奥田の巻き返しがみものである。
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井上洋一

2014-04-13 07:43:47 | 日記
1970年

テスト生上がりの有望株といわれたヤクルトの井上が、四年目でようやく一軍入りし、「守備なら三塁で井上が一番うまいんじゃないか」と首脳陣からも買われている。この井上、四年前、拓大付属高から公募テストで入団、一度は外野へコンバートされたが、今年からまた古巣の内野へ転向したが、テスト生出身にしては足あり肩ありでなかなかの好素質の持ち主。三年目の昨年はイースタンでも、打率こそ二割六分九厘(十二位)だったが、盗塁第二位(二十六個)、打点第二位(三十一点)の好成績で晴れてベストナインに選ばれている。今でも暇さえあればランニングに精を出すという努力家で、地味な精進が実ってか、先日の札幌シリーズ(対巨人)では好投の高橋一から左前へ痛烈なプロ入り初ヒットを記録した。井上は「これからは目の前で試合が見られるだけでもいい勉強になります。いいプレーをうんと吸収して早く一人前になりたい」と四年目のラッキーチャンスに目を輝かせている。
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市原明

2014-04-13 07:35:29 | 日記
1970年

勝率七割台で首位独走のロッテの一番バッターとして、ピリッとした攻守を見せているのが二年生の市原三塁手(銚子商)。今年のジュニア・オールスターにも文句なしに選ばれたが、六月から七月にかけて大当たり。十八得点と先兵としてもなかなかのハッスルぶりで、十三日現在まで七試合連続安打、六月の月間打率も三割二分六厘で首位躍進の原動力となっている。厳しい指導で定評のある大沢二軍監督も「若手が伸びたのが大きい。とくに吉岡悟、市原、土肥それに問矢、藤井のルーキーなどが実践的な力をつけてきたのが楽しみだ」という。「バットがよく振切れるのでいまは打席に入るのが楽しみ」という市原。もうすぐ勝率八割台へ届こうかというロッテは一軍よりも、もちろん一本先に、しかも、それよりよい勝率で優勝を決めることだろう。
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竹中惇

2014-04-10 21:40:51 | 日記
1962年

大型三塁手として期待をかけられて、今シーズン日大から入団した竹中が、投手に転向する。もともと竹中は大学時代、本職は投手であったのだから、転向にもそれほど深刻ではない。むしろ色気満々だ。「入団したとき、打者でやれといわれたが、ほんとうは投手をやりたかったですよ。だから負け惜しみじゃなくて、こんどの転向は自分の力をテストするにいい機会だと思う。ストレートのほか変化球は、フォークはいますぐでも投げられる。ほかにシュートがあるが、調子がよくてスピードがあるときは、ぼくの球は自然にシュートする。だからスピードをつけることですべて解決されると思う。もちろんコントロールが問題ですがね。キャンプのムダ?そんなことはないですよ。野手をやったおかげで、動きもよくなったし、あるていど打てるようになった。昨年の秋ころまでは力投すると肘が痛んだから適当な肘の休養になったと思っている」と竹中は再スタートに明るい表情。竹中の投手転向だが、原因はニュークがはじめて打撃練習したときに投げたのが竹中。その球質をみてニュークがびっくりしたという。「ベンチにおいておくにはもったいない」といったことが直接の原因だ。
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