プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

辻佳久

2015-06-28 15:43:33 | 日記
1964年

春の選抜高校野球以来注目されていた金沢高辻佳久投手(18)=1㍍83、75㌔、左投左打=は二十日小松市平面町の自宅で父親三次氏、同校駒谷監督、巨人青木スカウトの三者で話し合った結果、巨人入りを決めた。また同校で三番を打ち、辻投手と三年間コンビをくんでいた竹内洋捕手(18)=1㍍78、73㌔、右投右打=の中日入りも決まった。辻投手は春の甲子園で一躍スカウト連の注目を集め、選抜終了後中日、巨人、大洋、国鉄などの間で激しい争奪戦が演じられていた。そして金沢を親会社中日新聞が地盤としていることなどから一時は中日入りが濃厚といわれていたが、中日が条件的に難色を示している間に、巨人青木スカウトが最近読売新聞正力社主の至上命令をうけて獲得に乗り出し、中日をはるかに上まわる一千五百万円の条件を提示して、逆転に成功したもの。同投手は左の本格派投手として春の甲子園でも金田二世といわれたほどの好投手である。
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阿部成行

2015-06-28 15:27:01 | 日記
1964年

十四日甲子園球場で行われた高校野球選手権大会二回戦で惜敗した花巻商のエース阿部成行投手(17)=1㍍72、69㌔、左投左打=は、同日試合後神戸市内の宿舎で「プロが誘ってくれるなら野球をつづけたい」とプロ入りを表明、かねてから交渉のあった大洋入りが決定的となった。阿部投手は本格派サウスポーの少ない本大会でただ一人の好投手と折り紙がつけられ、左腕からくり出す速球と緩急二種類のカーブで一回戦の玉竜を完封、予選でも七試合で四試合完封、失点もわずかに3と安定したピッチングは早くからスカウトに注目されていた。同投手獲得にのり出していたのは大洋と、次兄が近鉄にいる関係から近鉄の2チームだが、これは大洋藤井スカウトが、夏の予選前から常に長兄誠佑氏(26)に食い込み他のチームにつけ入るスキを与えなかった。近鉄は次兄雄厚さん(22=同校出身)の線で押していたが、近鉄はやや乗り気うす。兄弟関係の強いルートを持ちながら大洋の実家攻勢が実り、大洋の優位は動かず、近鉄は手を引いた模様であるので、同投手の大洋入りは決定的となったもの。

阿部投手の話 今後のことは郷里に帰ってすべてをまかせる長兄によく相談して決めますが進学の意思はありません。できることなら野球をつづけたいし、プロから誘いがあれば入って自分の力を試したいと思います。長兄からはいまのところ大洋から話があると聞いています。大洋の藤井さんとは予選の前に会いましたが、ピッチングを見てもらっただけのことです。
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松浦信吉

2015-06-28 15:03:32 | 日記
1964年

近鉄入りした博多工の橋本投手とともに、九州高校球界屈指の好投手としてプロ入りをうわさされていた小倉工松浦信吉投手(18)=1㍍83、74㌔、右投右打、三年生=は、きのう二十九日中途退学して南海入りすることになった。正式契約は近日中に行われる模様。また南海入りが決定的だった同校の投手兼内野手村松選手は大学進学に踏み切った。松浦投手は恵まれた体から投げおろす本格派投手として、一年生のころから脚光をあび、春の選抜大会(昭和37年)に出場、スカウトの目にとまった。その後一時腰を痛めて精彩をかいたが、今春から完全に立ち直り、今夏の甲子園出場の原動力となった。松浦獲得に乗り出した球団は、地元西鉄をはじめ南海、近鉄、東映などだったが、中でもいち早く同投手に目をつけた南海は、石川スカウトが実家(直方市内)に日参して精力的な獲得交渉にあたった。また松浦自身も小倉工の同僚で、四番を打つ村松選手の実兄、先輩の太田選手らが南海にいる関係で南海に愛着をもっていたため、交渉はスムーズに進み、南海が西鉄近鉄を終始リードして独走に終わった。同投手は二十七日中途退学に踏みきり、退学届を提出した。学校側は「あと半年」の在学で高校卒業ができるため卒業ープロ入りということで、沼津同校野球部長らが説得にあたったのだが、家族、本人の意思は堅くきのう二十九日午前十時池田同校校長、白石同校後援会長の立ち会いで正式に中途退学届を受理し南海入りが決定した。
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石原碩夫

2015-06-28 14:25:10 | 日記
1960年

東映フライヤーズは十四日午後三時、京橋の球団事務所で石原碩夫投手(21)の入団を発表した。同投手は岡山東高から三十四年四月東洋紡岩国に入社、この間三十四年夏の都市対抗に出場している。右投(アンダー・スロー)右打、身長1㍍77、体重77㌔、背番号65。

石原投手の話 自分の力を試したいと思って入団した。プロ野球はあまりみていないが、パ・リーグのファンとして東映に関心はあった。一生けん命やりたい。先輩には秋山さん(大洋)といういい人がいるので…。

石原代表の話 シーズン途中に入るのは気苦労も多いと思うがそれだけに本人も一生懸命やってくれると思う。社会人からプロに入団する以上はそれだけの心構えがいるわけだ。ちょうど都市対抗の予選も終わったので正式に退社入団してもらった。十四日コミッショナーに届け出たから、これが受理され次第出したい。

宮沢スカウトの話 私が目につけたのはことしの二月ごろだった。下半身が強く、体も柔軟性があるので将来性は大いにあると思う。少しもまれればスピードはもっと威力を増そう。楽しみな選手だ。
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交告弘利

2015-06-28 14:15:03 | 日記
1962年

東海地方で本格派の速球投手ナンバー・ワンの折紙をつけられている岐阜短大付属高二年生、交告(ごうけつ)弘利投手(17)は、地元中日をはじめ、近鉄、阪急、南海、大洋から誘われていたが「中退ープロ入り」に踏み切り、このほど家族会議の結果、阪神入りときめた。同投手は二年生ながら、上背があり、左腕から投げおろす速球は超高校級の球威をもっている。今春近鉄がいちはやく目をつけ、岐阜県中津川の自宅を訪ねた。その後、中日、阪神、南海、大洋が名のり出て激しい争奪戦となった。今夏の予選前まで中退する考えはもっていなかったが、予選後中日の攻勢が激しくなり、中日は本多スカウトが連日自宅参りして口説いたため、中退に傾いた。中退に踏み切った七月二十日すぎごろには、スタートの早かった近鉄と、地元の中日が有力だった。とくに巻きかえしの強かった中日に傾きかけたが、家族の「地元ではあまりに身近すぎるので遠い球団の方が本人に独立性がもてる」という意向から中日の縁はうすくなった。近鉄江田スカウトが都市対抗野球で東京に出かけたスキに阪神が強力に話を進め、三十日夜自宅を訪ねた中日本多スカウトに父親が「阪神入り」の意思を明らかにしたもの。1㍍80、75㌔、左投左打。
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福浦健次

2015-06-28 13:04:48 | 日記
1960年

今夏の東京都高校野球予選で本格派第一人者の折り紙をつけられた中央商の福浦健次投手(18)=1㍍81、75㌔=は今春来プロ球団の注目の的となっていたが、去る二十六日日大二高に敗れて以来各球団スカウトが殺到、活発な争奪戦が展開されたが、このほど福浦家と学校側の意見一致を見、阪神入りが内定した。同投手に対しては阪神、大毎が早くから触手を伸ばしたのをはじめ阪急、中日、巨人、広島、大洋などが獲得につとめた。ことに同校敗戦の翌二十七日はスカウトが福浦家ではち合わせするなど、争奪戦は表面化したが、同投手自身は阪神入りを希望し、このほど内定の運びにいたったものである。同投手は現在長野で行われている中央商新チームの練習に参加しているが、父親与七氏の語るところによれば同投手の阪神を希望した理由は、阪神は高校生を主体にしているチームだから働きよいことと、同校清水野球部長のすすめもあったと語っている。阪神佐川スカウトが今春亀戸で行われていた同校野球部の練習を見に行った際、その将来性に太鼓判を押し、学校側にぬかりなく手を打ち、福浦家とも接触をもって父親と本人を説得、獲得にこぎつけたものである。なお今夏の都予選の成績は井草、昭和一商、立正、日大二の四試合に投球回数24回1/3、自責点3、安打12、三振34、防御率1.08の好記録を残している。

父親与七氏の話 私は野球はよく知らないのだが、日大二高に負けてから各球団の肩が昨夜おいでになって入団をすすめられた。学校側とも相談した結果、本人が望む球団に行かせるのが最もいい方法だと思って健次の意思を尊重した他球団はすでにおことわりし、きょう(四日)佐川さんに連絡したので翌朝(五日)には再びみえると思う。そのときにお世話になる旨を伝えようと思っている。
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江田昌司

2015-06-28 12:40:26 | 日記
1962年

二十六日、千葉県で習志野高校と並んで優勝候補の筆頭にあげられていた千葉商は、千葉敬愛に5-4で惜敗したため、同校野球部江田昌司遊撃手の阪神入りが決定的となった。同選手は上尾高の山崎遊撃手とともに関東高校野球界きっての大型内野手との評判があり、今春五月千葉で行われた関東大会で強打を振るい、一試合の2打席連続本塁打をふくめ大会を通じて3本塁打を放った。この活躍によって江田株は急上昇、早くから交渉を進めていた阪神はじめ巨人、大毎、大洋などが獲得に乗り出した。だが最も早く交渉に入り、終始積極的に勧誘した阪神の独走の形となり、他球団のくい込む余地はなかった。千葉商の敗戦によってスケジュールを終えた同選手は、近日中に阪神佐川スカウトと最終的な話し合いを行い、入団決定の運びになるものと思われる。同選手は外野手から内野手に転向今春二塁から遊撃に回ったものである。1㍍79、78㌔の恵まれた体の持ち主。守備に堅さがあり打撃もラフなところはあるが、内角球にはめっぽう強く、ツボにくれば外野席にたたき込む長打力を持っている。関東大会で記録した3本塁打はいずれも左翼スタンドにたたき込んだ豪快なものであった。

河西スカウトの話 一度東京へ行って江田君を見たことはあるが、その後の交渉は東京駐在の佐川さんがやっているはずだから、くわしいことはわからない。
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溝口憲雄

2015-06-28 12:22:47 | 日記
1964年

千葉県東金商高の溝口憲雄投手(16)=1㍍80、70㌔、右投右打=の阪神入りが決定した。同投手は二年生ながら恵まれた素質と速球は喧嘩随一といわれ、早くから阪神、国鉄から注目されていた。今夏の予選では準々決勝で木更津高に惜敗したが、房総農高戦では15打者から11三振を奪った右の本格派。プロ入りについてはまだ二年生であることから学校側は極力卒業まで待つように説得したが、同投手の家族が阪神佐川スカウトの熱心な勧めに動かされ、五日には退部届けを提出、阪神入りとなったもの。なお正式発表は近日中に行われる。

三橋・東金商監督の話 監督ではあるが教師という立場から考えて中退は本人のためによくないととめたのだが、家庭の方がどうしてもということなので退学届けを受理した。私としてはまだ二年生だけに残念だ。しかし溝口君は予選では四割の高打率をマーク、打者としても非凡なものを持っている。やる以上は立派なプレヤ―になってほしい。
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村上俊義

2015-06-28 11:46:07 | 日記
1960年

阪神タイガースでは三十日午後三時、阪神本社の球団事務所で、戸沢代表からBSタイヤの村上俊義投手(十九歳、東筑高卒)の入団を正式発表した。同投手は近鉄矢ノ浦遊撃手と同級で、高校時代は主戦投手。昨年BSタイヤに入社したが、権藤(現中日)の控えとしてあまり目立たなかったが、そのすぐれた素質は以前から高く評価されていた。去る十九日の都市対抗北九州予選で日鉄二瀬に敗れてから話が具体化し、阪神入りが決まった。左投げ、左打ちの本格派投手で決め球は内角低目へのストレート。「スピードの点では先輩の権藤さんと五分五分でしょう」と本人も語るぐらい威力があり、左投手難に悩む阪神にとっては将来楽しめる投手だ。昭和16年8月29日生まれ、身長176㌢、体重70㌔。

戸沢代表の話 左投手の補強は以前から考えていたが、この村上君は素質の点で大いに期待できると思う。まだ登録を終えていないがオールスター戦後からでも出場してもらいたいものだ。
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野崎洋

2015-06-28 11:29:38 | 日記
1960年

社会人野球長崎大洋クラブの野崎洋投手(18)=長崎市矢ノ平町745=は、十七日阪神タイガースに入団が決まった。同投手は今春長崎南山高を卒業。高校時代は投手兼外野手として活躍、大洋クラブに入ってからはエース柴田投手のかげにかくれて目立たたなかったが、平均打率三割の打力を買われて五番打者をつとめていた。身長1㍍74、体重70㌔、左投左打。なお野崎投手は十八日長崎駅発の急行雲仙で上阪、十九日大阪で正式契約をする。

野崎投手の話 投手として入団することになったが、果たしてプロの世界でどれだけやれるかわからない。しかし伝統ある阪神のために一生懸命がんばり、一日も早く第一線に出られるよう努力する。
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堀田明

2015-06-28 10:03:58 | 日記
1963年

巨人は二十五日後楽園球場での大洋20回戦の試合前、先に入団が内定していた社会人野球日本新薬の堀田明外野手(23)=関大出、1㍍80、75㌔、右投右打=の入団を発表した。同選手は今夏の都市対抗にも四番打者として出場、一回戦でコロムビア(準優勝)に敗れたものの、4打数2安打で一人気を吐き、昨年も積水化学に補強されて優勝の立役者となって、韓国遠征にも選ばれるなど、社会人球界のスラッガーとして定評があった。なお同選手の背番号は66。

堀田選手の話 プロ野球はテレビで見た程度でしかわからないが、一日も早く第一線に出られるようがん張りたい。本格派の投手には自信があるので、これからは変化球の打撃を勉強してなんとかがん張りたい。
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松尾勝彦

2015-06-27 22:23:15 | 日記
1962年

阪神はこのほど駒沢大学一年中退の松尾勝彦投手(19)をテストの結果採用した。同投手は神戸商から駒沢大に進んだ。しかしプロ入りをのぞみ、知人の安居玉一氏(元近鉄)を通じて阪神に紹介された。今月はじめ甲子園球場でテストを受け、本格的なピッチングが藤本監督に認められ入団が決定した。学校の了解を得るため連盟公示がおくれていたが、あす十四日からファームの練習に参加することになった。鏑木(千葉商工)についで阪神では今年二人目の新人である。なお同投手は未成年者のため研修期間は百試合となる。1㍍80、73㌔、右投右打。背番号は68番。
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村上公一

2015-06-27 03:04:31 | 日記
1958年

南海ホークスではこのほど村上公一投手(17)の入団を決定した。同選手は九月二十、二十一の両日大阪球場で行われた第三次新人テストに合格した四名(投手三名、捕手一名)の中の一人で、その後の審査の結果このほど入団が決定したものである。右投右打、1㍍80、73㌔、西淀中ー藤井金属。
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宣山明

2015-06-21 19:13:13 | 日記
1960年

去る二十六日広島市民球場で行われたカープ新人テストの結果、宇部商の宣山明投手と正式に契約したと三十日カープ久森事務局長から発表された。同投手は山口県下では№1の折紙がつけられ西鉄などの球団からマークされていた。昭和十四年十月十一日生れ、右投右打、1㍍71、62㌔。
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柴山宗守

2015-06-21 16:49:01 | 日記
1958年

同じく阪神へ入った関大の村山とちょっと似ている点がある。村山の右に対して柴山は左だが、相似点というのは同投手ともムラ気だということ。そしてこれはいけるぞと思って期待していると、ずるずるとスランプのドン底にいつの間にか落ちてファンをがっかりさせる。しかしいいかえれば期待が大きかっただけに風当りが強いといえる。三十一年彼が二年の時は矢形(丸善石油ー阪急)大塚(川崎重工)のカゲにかくれてほとんど登板の機会にめぐまれなかったが、三十二年春からようやく不振の投手陣をひきいて毎試合顔をみせ第三週の同大戦に連勝(3-0、2-0)シャット・アウトしたころから高く評価されだした。低目々々へねらい、外角へときにみせたシュートなど見事な切れ味で、カーブも深く鋭かった。無制球投手の悪評もふきとばす鮮やかさであった。近大付属高の三年春のこと、泉陽、浪商についで選抜大会代表の補欠校に選ばれたことがあり彼の健腕はすでに高かった。その後肩を痛めてそのままうずもれるのではないかとの声も一時はあった。前年の秋季近畿大会に好成績を収め代表校になれるかも知れないというのでまだ寒い冬の間から猛ピッチングをやりすぎたためかえってヒジを痛め甲子園行きもフイ、自分の腕にも自信を失ってからだったが彼の生一本さがなせるわざであった。真っ黒な顔に歯だけ白いからスモカとアダナされている六尺近くの大男で、愛くるしいともいえる童顔。ピッチングも大きく構えてスリークォーター気味から投げるが腕と腰がばらばらでこれが一致するときには当然のことながら重い球質を生かした豪速球となり各打者をなでぎり、ちょっと間違うとボール、ボール、こわごわ整えようとするところをばかすかたたかれてカイ滅するという甘さが残っている。三十二年秋には一挙に関学の大黒柱として一人で屋台骨を背負ってたったが、ことしに入るとまるっきりだらしがなかった。第一週の神大三回戦に先発として初登板したが、無制球の悪癖をさらけ出して二回にしてKOこれ以後ほとんど顔をみせず、秋のシーズンに入っても全然だった。まるで信頼されないのか下位チーム相手の試合にも起用されなかった。彼自身監督に見放された状態に半ばなげやりで不平をうったえていた。こんな心境ではカムバックののぞめないのが当然、これを最後に学生生活を去らなければならない彼にとっては何ともいえない気持だったろう。そんなリーグ戦も半ばを過ぎたころだったろうか。彼の阪神入りがうわさにのぼった。某紙が彼にむかって阪神入りのつもりかと聞き、入りたいような口ぶりをもらしたところ、本人の希望を入団内定として発表してしまった。しかし自信を失っていた彼にとって彼の入団を希望する球団のあることは確かに何かの心の安定を与えたことは確かであろう。吉田、佐々木の頼みとする投手陣をくり出して伝統の関大一回戦に敗れた関学は二回戦に思い切って柴山を出したが、予想外の好投で勝利をもたらし決勝では負けたが、やはり先発として登板、よく投げている。とにかくその場の状況に左右されることが多いのが彼の最大の弱点といえそうだ。体もあり素質もあるのだから、この精神的な弱さをどう解決していくかが大きな問題であろう。

国賀敏男氏の話(関西六大学審判員、関学OB) 体格もあり連投も苦にせぬタフネスな投手だが、投手の基本たる制球力に欠ける点がこれまで進歩をおくらせている主因ともなっていたようだ。球質も重く、体も柔かいので今後フォームの完成ということが最も急がれる。大学時代は荒れ球で成功して来たものの、このピッチングが意識して荒れているならよいが、フォームそのものがアンバランスでストライクを投げるのが精一杯、このような有様では到底プロとしてはいますぐ第一線に登場できないだろうが、あせらずフォームの改良に努めることだ。特に投球の際にキャッチミットから目が離れ、首のゆれる点が大きな欠陥のように思われる。

池田良雄氏の話(関学監督・関学OB) せっかくの素質をもちながら精神的な弱さに災いされのびなやんだ格好だ。腕の力はあるが下半身が弱くピッチングがバラバラになり肩に力が入りすぎるのでコントロールが乱れる。調子のよい時など内角低目にきまる速球は重くしかもスピードがある。シュートもよいが肝心の外角球がほとんどボールになる。これは手首のかえしが悪い結果だろう。好投した時はこの外角球に手を出してくれたからよかったが、プロはそうはいくまい。まず足腰をきたえることが先決で外角球をマスターしなければならないだろう。自信をもつことができれば彼の最大の欠点である精神的な弱さも自然解消されるだろう。すぐ使える投手ではないが、体もあり力もあるので将来は村山同様楽しめるだろう。
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