プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田口竜二

2017-08-16 09:39:02 | 日記
1986年

南海は二年目の田口が先発し、好投した。四回甘いストレートをバンボに2点本塁打されたものの真っすぐに力があり、カーブ、スライダーも低めに集まっていた。貴重な左の先発候補として今後のピッチングが楽しみだ。

二年目の大型左腕、田口の若さあふれる投球は、「一軍入り」への強烈なアピールだった。オープン戦第一戦にいきなり先発。だが、マウンドさばきは落ち着いたもの。大きく落ちるカーブを低めに集めて、三回までは走者を一人も出さなかった。「予想以上の出来。特に、球の切れ、コントロールが素晴らしかった」と、中西投手コーチもべた褒めした。四回、バンボに中越えに手痛いアーチ。「苦しくなってからの攻めが課題。力が入るとボールが甘くなる」と、田口は反省する。しかし、「ほぼ思い通り。ナックルなども試せたし、低めも意識的に突けた」。課題もあるが、それなりに自信をつかんだようだ。ドラフト一位で入団した昨年は「特発性気胸」で一年を棒に振った。それだけに「ことしにかける」意気込みはすごい。昨季は左投手が1勝もできず左腕不足に泣いた南海にとって、頼もしい若タカの出現である。
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永川英植

2017-08-16 09:37:38 | 日記
1975年

「もう少しいけると思った。正直言って投げたかったです」と永川は遠慮がちにほほえんだ。オープン戦の初登板をたった1イニング、17球で追いたヤクルトのドラフト1位投手、近鉄の上位打者4人に対し安打1、三振1、凡打2に抑えたデビューを「先頭打者を打ち取り、二番への初球にストライクを取って落ち着いたからあとは伸び伸びやれた」と振り返ったルーキーは、肩の荷をおろして目を輝かせた。初球はいずれもストライク。武器の直球を主体に「カーブを5球」を混じえて、二死一塁から佐藤竹を2-3後に外角低めの速球で見逃しの三振に切って取った。若者らしい好感のもてるピッチングである。さっと引っ込めたヤクルトベンチの計算はー。巽投手コーチによれば「ふん囲気になじませるのが目的だから、内容が良ければ一回だけと考えていた」片岡バッテリーコーチも「まず試合に慣らすのがねらい。これから少しずつ投球回数を伸ばしたい」と説明する。どうやら予定通りの1イニング試運転だったようだ。首脳陣の細かな配慮で無傷に滑り出した永川を、近鉄の西本監督は「腕の振り出しにちょっと無理があるようだが、それが直れば体もいいからもっとスピードがついて好投手になるだろう」と素質を認めた。高校ビック4の中で実力派の呼び声高い背番号24、今後の登板に期待がふくらむ。その若々しい力強い投げっぷりから見て、将来大物投手に育つ兆しをのぞかせた。
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宮本幸信

2017-08-16 09:36:21 | 日記
1975年

宮本幸信、実はトレードが決まったとき腹の底が煮えくり返る思いだったそうだ。チームの弱点を補い合う交換ならともかく、投手同士のトレードだったからだ。「阪急はもう僕を要らないっていうわけですよ。要するにおはらい箱ってやつですね」眼鏡がよく似合う理知的な風ぼう、温和な性格の男が初めて怒りを表に出した。そしてそれはプロ入り七年目にして初めて味わう惨めな気持ちだった。

四十二年、中大が大学選手権で優勝したときのエース、翌年ドラフト1位で阪急に入団、七年間で通算32勝。1シーズンでは四十五年の8勝が最高だったが、チームの中堅どころとして、また人間的にも後輩から言われる存在だった。それだけに「トレードなんて人ごとだと思っていたもんで、知らされたときは信じられなかった」そうだ。しかし、日南キャンプに参加して欲がたつにつれ、爆発した怒りも和らいできた。何事にも卑屈になったりしないこの男の、厚みのある人間性がそうさせたのだろう。いまはこう決意を固めている。「僕は広島の宮本になりきります。そしてこのトレードをよい方向にもっていかなくてはならない。いまとなってはもう阪急に対して悪意なんてありません。これからは阪急で悪かった点を直し、出来なかったことをやってこそ、逆に恩返しになると思うんです。とにかくやらなくればならないことは広島でガムシャラにがんばることです」阪急時代はピッチングにムラがあったと自ら反省している。「調子がよかったと思うと次の試合で大失敗してしまうんです。気合の乗せ方が下手だったんですね」そして弱点として速球に頼りすぎたこともあげた。たしかに宮本の速球には威力があったが、一本調子だったのでねらい打ちされたり、制球が乱れたりして何度か泣いたことがある。その点、今度のキャンプでルーツ監督が投手陣に与えた第一課題は、チェンジアップを身につけることである。宮本は「球種が少ないので、ものに出来れば大いに効きめがあると思う。それはまた、得意の速球も生きることになるわけです」という。スパーン臨時コーチも宮本につきっきりでチェンジアップの指導に当たった。竜コーチは「すばらしい速球の持ち主なので、スピードに変化を加えれば、少なくとも10勝は堅い。オープン戦から先発組に入れ、どんどん働いてもらいますよ」と大きな期待を寄せている。今シーズンの目標は、まだ経験したことのない2ケタの勝ち星だ。それにも自信はある、という。「ルーツ監督の指導を受けて実力がついたなあとひしひし感じているんです。こんな感じは今まで一度もなかった。絶対に戦力になってみせます」奥さんと子供二人を大阪に置いて、一人で広島へ行くことにした。「今まで地元の球団で、しかも両親もそばにいました。しかし、甘えてはいけないと決心したんです。ふとんの上げ下ろしからすべて自分でやって苦労しながら鍛えたいんです」阪急では温和でぼんぼんタイプだったこの男が、広島で勇ましく雄飛しようとしている。
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クリーク

2017-08-16 09:35:12 | 日記
1998年

ベールに包まれたとは、この男のことです。新外国人ダグ・クリーク投手の評価が真っ二つに割れています。3月6日、オープン戦初見参の日本ハム戦(甲子園)。2イニング、打者10人に対して3三振のゼロ封。クリークも「低めに投げなきゃいけなかったのに、ちょっと浮いてしまった感じだけど、まあまあ。スライダーとチェンジアップがよかったからね」納得顔のサウスポーに対して、5球団の007は要注意マークを付けていました。でも、快投を演じたクリークには「もうひとつの課題」があるのです。日本のけん制のルールにどうもなじめずに、クイックにも課題が残る点です。この試合でも7回にボークを取られた後で三盗まで許す始末で、この時だけは、ネット裏に陣取った他球団のスコアラーは、弱点見つけたりと得意げでした。「まだスプリング・トレーニング中なんだから、開幕までには考えるさ」と、修正に自信を持っているクリーク。虎党のカギを握る男だけに、早く本番OKの姿を見たいものです。
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富永格郎

2017-08-16 08:42:26 | 日記
1965年

サンケイ移籍がきまった富永投手(東映)が、「フォークボールでもなし、ドロップでもなし、なんとなくフワッと落ちるボールを研究中である・・・」という。どうやらシンカーの一種らしい。富永は今シーズン、五月の自動車事故(歩道を横断中に自家用車にはねられて大ダイ部を打撲し全治一週間)で、鳴かず飛ばずに終わっているが、自宅で休養中、しばしばテレビで巨人のゲームをみたそうだ。「それで、ボクが一番関心を持ったのは、宮田の落ちる球でしたネ。あれは、ドロップでもなし、フォークでもなし、どうやって投げているんですかネ」といっていたが、今回富永が発明した球も、ひょっとしたらそれかも知れない。これで往年の速球を回復すれば、またセ・リーグに一人魔球が誕生することになるが・・・。
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安藤治久・足立光宏

2017-08-15 23:25:38 | 日記

1959年

期待の新人安藤、足立両投手は下馬評どおり優秀な素質を持っている。両投手ともキャンプでは最も早く調子を出し、二月末には九分どおりでき上がってしまった。安藤はスリー・クォーターとオーバー・スローを使い分けスピードもある。コントロールがいいから外角低目をマークすればかなりやれそう。それにカーブがいい。ブレーキがあり、しかも角度が大きいから打ち難いだろう。藤本監督も「あのカーブならいける」という。だが難点もある。シュートがいま一つさえないことだ。ノンプロ時代投げたことがないというだけに、キャンプではシュートのマスターを課題にしていたが、いま一歩ということろ。体格もいいし、スタミナもあるようだからピッチングのコツをのみこめば、最も早く出場できる新人の一人だ。常に安藤と比較される足立も大友ばりの投法をする異色投手下手から投げるシュートが主武器である。西鉄戦要員といわれる理由もシュートの威力を思ってのことだろう。打撃練習では死球を恐れてあまり用いないが投球連取ではかなりいい球を投げる。それにスピードもある。しかし足立には欠点がある。カーブが甘いことだ。どう見てもプロ向きのカーブではない。伊達コーチは「カーブよりスライダーを覚えさせる」と早速手ほどきにかかったが、四、五日でマスターしたぐらいだからカンはよさそう。
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内山憲一

2017-08-07 20:42:44 | 日記
1985年

エースの内山は右の本格派。182㌢の長身から投げ下ろす速球は県内屈指。これに切れ味の良い縦に落ちるカーブと横に曲がるスライダー気味のカーブを交えたピッチングには、プロ球団のスカウトも一目置いているようだ。昨年夏の大会は一人で投げ抜き、ベスト4入り。この春の大会でもベスト8入りを果たしている。夏の大会後に痛めたひじが心配されていたが、順調な回復を見せており、再び快調なピッチングが楽しめそうだ。内山のほかにも投手陣は豊富で、夏までに二~三人に絞り込んでいく。

甲子園出場を目指し今大会にすべてをかけた内山の最後の夏が終わった。2、3回戦二試合で25点をたたき出し、チーム打率5割5分6厘という驚異の農大二打線から毎回の9三振を奪い、敗れはしたが大会屈指の右腕にふさわしい投球を演じた。「一球たりとも気を抜いたボールはない。これまでの最高のピッチング」と悔し涙を両目にいっぱいためながらはっきりと言った。三年間のすべてがこの日投げた129球に集約されていたといっていい。それほど見ごたえのある投球だった。昨年の夏、二年生ながら準々決勝で佐波農の笠原(現ロッテ)に投げ勝ちベスト4進出の原動力となった。プロのスカウトの目にもとまり「伊勢崎商に内山あり」と強く印象づけた。しかし、秋の大会は初戦となった2回戦で敗退。そして今春は、準々決勝で農大二に1-7でコールド負けを喫している。「組み合わせが決まった時から農大二とやることだけを考えていた」という内山、春の大会前から取り組んだフォーム矯正も六月中旬ごろからようやく身につき全身全霊をかけてのぞんだ試合だった。「低め球の伸びは素晴らしくカーブの切れは竹内よりよかった」(登丸一夫球審)というように、農大二打線は内山の前に三振の山を築いた。しかし、無情にも勝利の女神は伊勢崎商にほほえまなかった。試合後、農大二の斎藤章児監督に「ありがとうございました」と歩み寄った内山に対し「君がナンバー1の投手だ」と斎藤監督が健闘をたたえ、ガッチリ握手。「悔いはありません」と額の汗をぬぐいながら三年間の思いを一言で語った。182㌢、76㌔、右投げ右打ち。伊勢崎三中出身。

1984年

二年生で右の本格派・内山がエース格。控えにアンダースローの三年生・蜂須賀と左翼・成田の両三年生がいる。内山は体全体をつかったフォームから、直球と二種類のカーブを投げ分ける、コントロールもまずまずで、横と縦のカーブはなかなか打ちにくい。蜂須賀はコントロールが生命。典型的な打たせてとるタイプ。成田はマウンド経験が豊富で度胸もよい。三人とも完投能力があり、その日の調子によって使い分けが予想される。監督のさい配も見どころ。
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岩本進

2017-08-06 20:31:35 | 日記
1964年

一軍入りしてから2本のサヨナラ安打を飛ばすなど、大活躍の篠原に続いて二十六日、東京球場で行われた対東映23回戦では、岩本がサヨナラ安打を飛ばした。延長十三回、153勝を目前にした東映の看板投手、土橋から左前へ快打したのだから殊勲選手というところ。岩本は、「スライダーだったと思いますが・・・監督さんからバットを短く持ってセンターをねらえといわれたんです。だからコツンと当てることだけに神経を集中していたんです。監督さんのアドバイスのお陰です」と顔をほころばせていた。本堂監督に対する岩本の気持は、ほかの選手とはまるで違う。というのは、二年前の暮れ、本堂監督が、二軍監督から一軍監督に正式に就任した年、ちょうど巨人を整理され、三重県の実家に帰っていた岩本は、「すぐ出てこい。まだお前はプレー出来る」と本堂監督に呼び出されたからだ。二軍監督時代、イースタン・リーグで巨人と試合をしながら、本堂監督は小柄だが、ホームラン王になったこともある俊敏な岩本のプレーにほれ込んでいた。東京はちょうど内野強化に乗り出していた時で、岩本にとっては渡りに船だったわけ。八月二十七日現在、岩本は本塁打1をふくめ2割9分7厘(37打数11安打)と監督の期待にこたえるハッスルぶりをみせている。「ボクは巨人に二年いてプロの苦しさはよく味わいました。こうして東京でプレー出来るのはみんな本堂さんのお陰です。一生忘れませんヨ。努力してチャンスには力いっぱいがん張らなきゃ・・」岩本は本堂監督の温情にこたえようと精進を続けている。
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浜崎正人

2017-08-06 20:18:59 | 日記
1965年

阪急の秋季練習で、もっとも伸びた若手はという質問に対し西本監督は浜崎と答えた。トレーニングを始めたころは、「大石、金本らの成長を期待している」と話していたが、キャンプを打ち上げた時には浜崎が金本と大石を抜いていたのだ。浜崎はレギュラー・バッティングの投手になるときまって打者をキリキリ舞いさせた。切れのよいシュートを外角に決め、スピードもあるので一軍の打者でも打ちあぐんだ。その浜崎が進境を買われてブレーブス・カーニバルの紅白戦で先発した。しかし本番になるとやはり違う。衆樹にベルトあたりの好球を投げて左中間に打ち込まれ、住吉にもカーブを左翼スタンドへたたき込まれた。「もう少し考えて投げるようにならなければならない。それに走者を置いてからのピッチングが甘い」期待をかけていただけに、西本監督の採点は辛かったが、浜崎にとってこの紅白戦の痛手はいいクスリになったことだろう。
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高田博久

2017-08-06 17:34:29 | 日記
1985年

24歳、昭和36年、7月16日 173㌢、68㌔、右右
千葉商高ー青学大ー日本楽器
出身・千葉県 父・福治(48)=会社員=、母・久子(52)、妹・まり子(20)=交通巡視員
千葉商では3年夏の県大会準々決勝戦で延長16回市立銚子の銚子(法大ー大洋)にサヨナラ本塁打を浴びて敗退。青学大では投手陣の柱で活躍したが、優勝の経験はない。
好きな球団・巨人、ヤクルト・大洋
上背はないが、下手からのストレートは伸びがあり力強い。スライダー、カーブ、シンカーと持ち球も豊富だが、コーナーに散らしてかわす投法より力で押すタイプ。
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服部裕昭

2017-08-06 11:11:49 | 日記
1989年

プロ入り初登板が先発となった左腕・服部だったが、3回で降板し「せっかくのチャンスだったのに・・・」と肩を落とした。千葉・浦安高から入団して四年目。「ボールの球離れが遅い分、打者は打ちづらい」(上田投手コーチ)という利点を生かし、左肩の軟骨除去手術などのアクシデントを克服して頑張ってきた。この日の先発は、前日のゲーム中に言い渡されたそうだが、「調子は悪くなかったけど、やっぱり甘い球は禁物ですね」と反省していた。今季は八月に一度だけ一軍に登録されながら、出番のないままファームへ降格。それだけに「今後は筋力を強化しながら、次の登板では落ち着いて投げたい」と若者らしくキッパリ。
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迫田七郎

2017-08-06 10:53:14 | 日記
1964年

「ピッチャーはやっぱり先発しなきゃウソですネ。プレーボールの前にマウンドにあがってウォーム・アップする気持は、何ともいえません。張り合いが違います」と鼻息の荒いのが東京のひねくれ球投手の迫田。若手選手の試練の場といわれる秋のオープン戦ではしばしば起用されて大いに腕を上げている。東京のオープン第一戦は去る三十一日、足利の対大洋戦だったが、この第一戦に迫田は先発ピッチャーで登板した。ことしの迫田は公式戦には12試合(0勝1敗)に出場しているが、いずれもリリーフで先発は一度もなく、この試合が一軍戦での初めての先発。五回までは沈む球とスライダーが低目にうまくきまって、打たれたヒットはつまり気味にたたいた松原の二塁右を抜くヒットと、近藤和の渋い右前ヒットだけで、一年生とは思えぬプレートさばきを見せ、ベンチの期待にこたえた。六回にはいって近藤昭に右前へ合わされ二盗、桑田も歩かせた一死一、二塁で松原に中前快打されはしたが、西田の好返球に救われ、六回まで投げて23打者を4安打に押え堂々勝利投手になった。迫田は、「先発は2、3日前からいわれてたんで張り切ってたし、どれだけ自分が投げられるか楽しみにしてたんです」と一軍戦での初勝利にニキビ面をほころばしていたが、初勝利以上に本人は技術面の収穫を大喜びしている。ことしの迫田は前半の研修時代、イースタンで大活躍した。ひねくれ球を駆使して、12勝4敗の防御率1・36は、金田二世と、評判の高かった半沢(国鉄)の9勝4敗を上回り、内容的にも高くて文字通りイースタンのエースだった。ところが公式戦では8勝した半沢にみごとに逆転負け。というのも、フォームに欠陥があったからだ。だからこの日は、「左の腰の振りを小さくしてステップもやや開き気味に直したんです。シーズン中よりは、ずっと楽なフォームになって伸び伸び投げられるようになりました」と秋季練習の成果にびっくりしていた。一日、平(福島県)での大洋戦にも投げて通算9イニングで自責点1が目下の成績。この分だと来シーズンは開幕からローテーション入りは確実とみていいだろう。迫田は、「今シーズンは八月十日に過労で1週間ばかり休んだのがたたって、出る幕がとうとうなくなった。だから来シーズンはバテないように今のうちにスタミナをつけておきたい。同じイースタンで投げ勝った半沢に負けたくないから・・・」と頼もしいことをいっている。小山、坂井、妻島に続くピッチャーに成長するかどうか、とにかく楽しみな2年目が来そうだ。
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迫田七郎

2017-08-06 10:53:14 | 日記
1964年

「ピッチャーはやっぱり先発しなきゃウソですネ。プレーボールの前にマウンドにあがってウォーム・アップする気持は、何ともいえません。張り合いが違います」と鼻息の荒いのが東京のひねくれ球投手の迫田。若手選手の試練の場といわれる秋のオープン戦ではしばしば起用されて大いに腕を上げている。東京のオープン第一戦は去る三十一日、足利の対大洋戦だったが、この第一戦に迫田は先発ピッチャーで登板した。ことしの迫田は公式戦には12試合(0勝1敗)に出場しているが、いずれもリリーフで先発は一度もなく、この試合が一軍戦での初めての先発。五回までは沈む球とスライダーが低目にうまくきまって、打たれたヒットはつまり気味にたたいた松原の二塁右を抜くヒットと、近藤和の渋い右前ヒットだけで、一年生とは思えぬプレートさばきを見せ、ベンチの期待にこたえた。六回にはいって近藤昭に右前へ合わされ二盗、桑田も歩かせた一死一、二塁で松原に中前快打されはしたが、西田の好返球に救われ、六回まで投げて23打者を4安打に押え堂々勝利投手になった。迫田は、「先発は2、3日前からいわれてたんで張り切ってたし、どれだけ自分が投げられるか楽しみにしてたんです」と一軍戦での初勝利にニキビ面をほころばしていたが、初勝利以上に本人は技術面の収穫を大喜びしている。ことしの迫田は前半の研修時代、イースタンで大活躍した。ひねくれ球を駆使して、12勝4敗の防御率1・36は、金田二世と、評判の高かった半沢(国鉄)の9勝4敗を上回り、内容的にも高くて文字通りイースタンのエースだった。ところが公式戦では8勝した半沢にみごとに逆転負け。というのも、フォームに欠陥があったからだ。だからこの日は、「左の腰の振りを小さくしてステップもやや開き気味に直したんです。シーズン中よりは、ずっと楽なフォームになって伸び伸び投げられるようになりました」と秋季練習の成果にびっくりしていた。一日、平(福島県)での大洋戦にも投げて通算9イニングで自責点1が目下の成績。この分だと来シーズンは開幕からローテーション入りは確実とみていいだろう。迫田は、「今シーズンは八月十日に過労で1週間ばかり休んだのがたたって、出る幕がとうとうなくなった。だから来シーズンはバテないように今のうちにスタミナをつけておきたい。同じイースタンで投げ勝った半沢に負けたくないから・・・」と頼もしいことをいっている。小山、坂井、妻島に続くピッチャーに成長するかどうか、とにかく楽しみな2年目が来そうだ。
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原口哲也

2017-08-06 10:21:35 | 日記
1988年

「何も考えずに投げました。清原の本塁打でいけるかも、と思っていました」。開幕以来単調だった投手のローテーションにかげりが見え始めた 折も折、西武に待望の孝行息子が生まれた。「清原」と西武のスターを呼び捨てしたが、原口は清原と同期。ドラフト三位で61年に地元熊谷商から入団。2年間はファームや米国留学で鍛えられ、今年六月十二日にやっと一軍登録。以後六試合に9回と1/3を中継ぎ、敗戦処理で投げてきた。この間の成績は被安打6、奪三振3、与四死球2で自責点1。森監督も「機会があれば長いイニングを投げさせたい」と合格点をつけていた。3万7000人の観客の見守る中、一回二死一、二塁でのリリーフは厳しい試練だったがよく耐えた。二回の一死二、三塁では佐々木、門田の主軸を凡退させてリズムをつかんだ。「よかった」というカーブと速球をまじえて、最長の8回と1/3を投げてうれしい1勝。「次は先発だね」という質問に「いや」と頭をかしげるしぐさに、やっとはい上がってきた若手のナイーブさがうかがえた。181㌢、75㌔、右投げ。
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迫田七郎

2017-08-06 10:11:49 | 日記
1962年 高校時代

三年計画の仕上げの年だけにナインの闘志も高まっている。非力をカバーするために頭上でグラブ、ボールをひねる迫田投手は変則モーションだが威力を持っている。一部には腕で目がかくれ、安定しないのではという見方もあるが、戦績はりっぱ。春いらい八試合の奪三振七十九。一試合平均九個以上の三振を奪っている。投手力にくらべて打撃は弱く、好打者としてあげられるのは脇元ぐらいのもの。下位が弱いのが欠点だ。不思議に試合をすてぬねばりと大会になると地力を発揮するチームだ。守備は遊撃の岩下がぬけてやや不安が残っている。
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