プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

竹下浩二

2019-03-24 10:18:37 | 日記
1983年

愛称ヤンバル君にオープン戦第一戦(対阪神、3月6日)の先発指令が出た。テストを兼ねた紅白戦初先発は、3イニングをわずか1安打の無失点。「思い切り投げました。ブルペンの力は十分出せたと思います」と竹下が言えば、見守った関根監督は「球に勢いがある。まだ若さが出る(2四球)が、オープン第一線は竹下でいきます」ヤンバルとは、沖縄で発見された珍鳥ヤンバルクイナを略したもの。竹下は沖縄で野球人生をスタートさせていた。「甲子園に出るなら沖縄の方が楽だと思って、興南を選びました」実家は甲子園のすぐ隣、尼崎市だが、竹下ははるか遠く興南に進学した。いわゆる野球留学だが、これが楽ではなかった。「独りぼっちの下宿住まいでしょ、朝、昼は学校で食事するんですが、夜は全部外食。大阪と沖縄じゃ味がまるで違って、食べられないんです。毎晩布団に入って泣いていました」両親の反対を押し切っての進学だけに実家に帰るわけにいかない。最初の1週間は味のないジュース、コーラで過ごしたという。「1週間で7㌔も減りました」しかし、15歳の若者が3年間で学んだ独りぼっちの生活はプロ入り後大きくプラス。2年生ながら伸び伸びとキャンプを過ごし、今、早くも一軍切符をつかもうとしている。「いや、まだ早いですよ。去年だってファームで2回しか投げていないんですから」とテレる。球種は真っすぐとカーブしか持たない。そのカーブもこの日やっと曲がりだしたのだ。「はい、ぶきっちょなんですよ。今、フォークを練習していますが、うまくいかないですね」と正直だ。それでも、中学時代から竹下を見守ってきた高松スカウトはおほめの言葉だ。「真っすぐは速くなったし、カーブも十分曲がる。ブルペンではいまひとつだったが、打者が立てば曲がるんですよ。あのスピードの落差はおもしろい」最高145㌔の快速球を武器に、飛べないはずのヤンバルクイナが、2年目にして大きく羽ばたこうとしている。
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小川博

2019-03-24 09:59:51 | 日記
1961年

阪急ブレーブスは二十六日午後一時大阪梅田の航空ビル内レストランシルバーで法大小川博内野手(21)=1㍍74、72㌔、右投げ右打ち=の入団を、実父太蔵氏、戸倉監督、木地相談役、丸尾スカウトら立ち会いの上、岡野代表から正式発表した。小川選手は法政二在学中の三十二年夏の高校野球大会に出場。法大に進んでからは三十五年の春季リーグ戦に優勝。三十六年秋のリーグ戦にも優勝し、同時に打率四割一分七厘を記録して首位打者となり、ベスト・ナインに選ばれた。高校時代から大学とポジションは二塁手でとおし、軽妙な守備とシュアなバッティングを買われたもの。

小川選手の話 ノンプロからも誘われたが、どうしてもプロでやってみたかった。阪急を選んだのは品のいいチーム・カラーが小さいときから好きだった。早くプロのスピードに追いついて一試合でも多く出場できるように努力する。これまでアウト・コースの球は一応こなせるが、今後はイン・コースの球をマスターしたい。

岡野代表の話 小川君はすぐに使える二塁手だし、バッティングもシュアだから来シーズンの戦力になるものと期待している。丸尾スカウトの努力と、戸倉監督の先輩、後輩という線で獲得できた。これで一応新人補強の予定は終った。

戸倉監督の話 非常に守備はいいし、大物こそ打てないがシュアなバッティングをしている。高校からずっと二塁手をやってきたが今後は内野のどこでもこなせるようになればいいと思っている。うちでは二塁は相当競争がはげしいが、落ちることはないだろう。このはげしい競争を乗り切って来シーズン早々から出場のチャンスをつかんでもらいたい。
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原口哲也

2019-03-21 04:45:57 | 日記
1986年

「原口の器は大きいよ。あとはその大きな器にふさわしい中身だね」というのは西二軍投手コーチ。なるほど、うまいことをいうものだ。原口の器の大きさは、その独特の球質にもうかがわれる。速球が、右打者の場合、内角はシュート回転、外角はスライドして、まことに打ちにくい。こういう球をシンでとらえるには相当の技術がいる。そう、第二の東尾なのだ。球質が素直では、揺さぶり型の投手にはなりにくい。その点、原口は大いに有望なのだ。この原口、肩、ヒジを高校時代に故障、プロでの将来性に疑問符をつけるスカウトが多かったが、西武は敢然と指名した。「私たちの仕事は、プロで活躍できる逸材を取ること。高校時代どうこうは関係ない」こう語るのは浦田チーフスカウト。故障があったって、治してから素質を開花させればいいじゃないか。スカウティングは長期的展望に立つべし、これが西武の基本方針なのだ。原口は、シーズンの3分の2は治療に専念。投げ始めてからまだ3ヶ月だ。「投げることがこんなに楽しいとは、思ってもみなかったですよ、ホント」と原口はうれしそうに語ってくれた。西武の試合を見に行くと、原口はいつもバットの片付け役。そんな辛い日々を送ったあとのピッチング解禁。そりゃ、うれしいはずだ。さて第二の東尾、球質以外ではどんな特長を持っているだろうか。まず、ヒジの使い方がうまい。つまり、ヒジの使い方がうまい。つまり、ヒジが柔らかいのだ。だから、腕がムチのようにしなり、打者の手元で伸びるボールが投げられる。ただ、このムチのようなシナリのフォームにビシッと決まるときはいいが、腕が棒のようになると、打ちごろの球になってしまう。「その点、まだまだ完全とはいえないんだな。それに、あんまり東尾、東尾っていわないでよ。東尾だって若いときは攻撃的なピッチャー。初めからかわすんじゃなく、攻めて打ち取る投球をしなくちゃ」というのも日野二軍監督。原口は今シーズン終盤に2試合だけ、投げた。「感触はいいです。やはり、打者がいて初めて野球なんですねえ」と原口。故障ー筋力トレーニング→投球練習を経て、やっとたどりついた実戦のマウンド。その気持ち、わかる、わかる。「速球、カーブ、シュート、スライダー、持ち球全部を投げましたよ」西コーチによれば、いくら怒鳴られても平気な平左の図太い神経の持ち主。大きな器に立派な中身を、早く盛ってほしいものだ。
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長南恒夫

2019-03-21 03:59:54 | 日記
1961年

長南投手といっても知る人は少ない。珠玉のような素質を持ちながら、中央球界に遠い無名のチームに育ち、埋もれてきたからだ。長南が生れたのは千葉県の館山市、東京湾に臨む船形という漁師町だ。長南は館山市が生んだ二人目のプロ野球選手である。もっとも先輩は松竹ロビンスに入り、一年半ばかりで煙のごとく球界から消えてしまったので、彼が大成すれば館山の生んだ最初のプロ野球選手と呼称してもよいだろう。では地元館山は長南ブームにわいているだろうか、いや、そこは静かな波の音がきこえるだけだ。たまりかねた近所の人が「後援会を作ろう」と申し入れたが「いや、まだ激励会で結構です」と長南が受けつけなかった。地味で堅実な彼らしい話である。長南と無名チームとの結びつきはまず安房水産入学とともにはじまる。安房水産は県大会の二回戦でいつも敗退する弱小チーム、もっともここで彼の左腕がさえ、三年生のときは四回戦まで進んだ、四回戦で佐原一高に敗れたわけだが、そのとき長南が投げあった相手が城之内(巨人)だった。「安房水産在学中、千葉商付属とやって三振18とったことがあります。もっともこれもスクイズで1点入れられてまけてしまった・・・」高校を出た長南が入社したのは永幸工場。これは川口市の鋳物工場で従業員二百人のいわゆる中小企業、ただ社長の中瀬さんが大の野球狂で部員二十人の野球部があった。「試合をしても1対0とか2対1で勝ったり、負けたりしているチームなんです。でも野球をする環境では最高じゃなかったかな。家族的で和気あいあいとしていましたからね」この永幸工場というのは小粒でもピリッとしたチームだった。長南のワンマン・チームで同じ埼玉県の日通などは長南の好投でずいぶん苦しめられたものである。だから日通も長南に「ウチにこないか」とずいぶんさそった。だが長南が去ればチームはガタガタになる。だがその野球部もことしいっぱいで廃止という時がきた。後援者の中瀬社長の健康がすぐれないからだ。そして長南も鈴木監督(元東映)の線で巨人、中日の手をふり切って東映入りとなったのである。「ヒノキ舞台で投げたのは日通の補強選手で後楽園に出たのが一回きりです。でもどんな大観衆の前でもユニホームを着ればシャンとしてあがらないでしょう」無口でおとなしい長南もここだけは大きな声でハッキリいった。酒はビールをコップに一杯、煙草は日に二、三本、いかにもボクトツな好青年といった印象だ。得意はカーブ、1㍍78の長身からビュンビュンとほおるこれからの成長株である。

宮沢スカウトの話 体力もあり左投手としてはコントロールもよく、スピードも申し分ない。尾崎君とおなじく来シーズンは十分活躍してくれると思う。長南君の加入で数少ないうちの左投手陣も強化された。これで理想的なピッチング・スタッフができあがったと思う。

永幸工場 鈴木監督 長南君は素直でおとなしい性質の好青年だ。フォームも素直でいいし、球も速い。それに左腕だがコントロールも乱れない。ただこのままプロで通用するかどうかはやはり春のキャンプの修練にかかると思う。たとえばシュートがこれもいったん身につけたものを全部バラバラにしてやり直さなくてはだめだ。それに投球が単調だから投球のコツを修得しなければならない。また球が軽いのでもっと体重をつけた方がいいと思う。
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池辺巌

2019-03-21 03:22:42 | 日記
1961年

中心の池辺投手は体格にめぐまれ、投げれば投げるほどよくなる本格派だ。とくに外角低目を突く速球は重くて威力があり、ときにタイミングを崩すゆるいアウドロが同じコースに決まるし、内角にも入る。

注目の池辺投手はもうすっかり出来上がっている。彼がレギュラーバッティングで登板するとさすがに各選手も遅れ気味。体重が3キロふえたせいか、持ち前の快速球に一段のすごみを加えてきたようだ。またシュートの切れもよく、外角の速球がこれでさらに威力を増してこよう。一試合平均の被安打3.6、三振11、四球3、自責点0.8、防御率0.790という成績が示すとおりA級の力投派だ。ただ彼の欠点は立ち上がりいつもよくないことだ。力みすぎるためだが初回で勝負が決まることの多い甲子園では十分注意せねばなるまい。十九戦無敗、九州のホープだ。

投手はことしの春の選抜大会でも騒がれた池辺が健在。こんどの長崎県大会、西九州大会で28イニング投げ、自責点2、与えた安打16。速球とシュートをおもにしてときおり投げるカーブも鋭さを加えてきた。ただ、あまりコーナーをねらいすぎてかコントロールにもう一つかける。
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福島明弘

2019-03-18 22:15:13 | 日記
1985年

福島投手は、右投げ右打ちでストレート、カーブ、スライダーを持つ、142㌔の速球派。浦和大谷場中時代は全国大会出場の経験を持つ。身長182㌢、80㌔。川口市で両親と三人暮らし。
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竹中惇

2019-03-18 21:48:30 | 日記
1962年

名古屋を出た東海道線が、山あいの美濃路を抜けて岐阜まであとひと息のところ、木曽川の清流を間近にすると尾張一ノ宮だ。ここが竹中の出生地。この一ノ宮を中心とする一帯は尾州織物で全国的に名高い。しかし、竹中の両親は、一ノ宮市松降(マツフリ)通りで歯科医を開業していた。竹中は、現在身長1㍍83、73㌔という堂々たる体格の持ち主。中日高田代表、濃人監督がその人並みはずれた体格に目をつけ、体のわりに俊敏、ベース一周13秒台という逸材をとらえたのはケイ眼だが、ここで今日の竹中を語る前に、彼の過去をかんたんにふりかえってみよう。なぜならそれは、竹中という男についての最良の説明だからだ。一ノ宮北部中学ー一ノ宮高と内野手をやっていた竹中が、はっきり投手として踏み切ったのは高校三年生のときだった。兄の敬(タカシ)さんは、同じ野球部で投手をやっていたこともある。しかし、それ以上に決定的とした事実は、彼の肉体的変化だった。二年から三年にかけてなんと10㌢も身長がのびた。もちろんこうなればチーム一の長身である。どうしても投手をやりたかった竹中は監督の北川氏(現旭ヶ丘高)にはっきりいった。「投手をやりたいんですが・・・」夏の大会一週間前であった。わずか一週間の練習。この大会で準々決勝の津島商工に破れるまで彼は四試合すべてに登板した。この年津島商工は名門中京商をもくだして初の甲子園出場を果している。竹中は翌三十三年、投手として期待されながら日大に入った。リーグ戦初登板は一年秋の駒大一回戦。しかし、二年までは鳴かず飛ばず。三年目の春、日大12回目の優勝に最高殊勲選手となって一躍名をあげた。「東都にひさびさの本格派投手出現」とさわがれたのはこのころである。ところがこのあとに右ひじの故障という不運に見舞われた。このためすでに二年のころから竹中の打力を認め「内野手に使おう」と思ったこともある香椎監督は、思い切って外野手として竹中を使ってみた。高校時代から定評のあったバッティングは長打一発もあって本物だった。今春は、害や主としてみごとベストナインに選ばれている。打力の開眼が文字通りケガの巧名だったともいえるが、竹中は中学ー高校ー大学と進みながら投と打の二筋道にその責を果したことになろう。プロの世界に向かって新しいスタート台に立つ竹中に、日大の恩師香椎監督はこういいきかせている。「プロに入ったら自分でやらなければだめだ。チャンスは作ってくれない。自分で作るのだ」と。また父親の稔氏(56)はこういう。「恥ずかしいことはやってくれるな」と。竹中はこのことばをキモに銘じているそうだ。「監督さんにいわれたんです。ことしのトレーニングが大事だって、これはかならず実行しますよ」最初が大事だということをだれよりも知っており、練習していれば調子がいいという竹中。投手としての武器は投げおろしの速球を主に、フォーク・ボールとカーブだ。ウドの大木ではない、バネのある体を生かして「内野手なら、三塁をやりたい」ともいう。だが、プロで打者でいくか、投手でいくかは、わからない。そして当の竹中はそんなことはどうでもよいという表情でこういった。「江藤さんのようなタイプ、いいですね。もちろん目標はレギュラーですよ」
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石田雅彦

2019-03-17 23:17:09 | 日記
1985年

川越工の左のエース石田雅彦投手(三年)が幸手を相手に七回まで毎回全員の13奪三振をマーク。好調ぶりを見せた。背番号は9をつけているが左腕から投げおろす速球と大きなカーブは威力があり、文句なくエース格。「2ストライクからはいつでも三振を狙っています」と2ケタ三振奪取にも、当然といった表情だった。
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竹下浩二

2019-03-17 21:22:31 | 日記
1986年

竹下も実はルーキーだった57年、一軍ベンチ入りしたこともあった。立場としては、中山や相川と同じだったのだが、そのチャンスを生かせずしぼんでしまった。足首のケガなどもあったが、一軍での登板は59年の7試合だけ。そして、今季、いつしか5年目を迎えていたー。「エースで甲子園に出たくてボクは沖縄まで行ったんですよ。そして、思い通りに甲子園に出られたし、プロのスカウトの目にも止まった。ここまでやってきたのに、いまつぶれたら何のために野球をやったのかわかりません。絶対やりますよ」(竹下)ここまで書いてくれば、忘れていた人も、ああ、あの竹下か、と思い出してくれるだろう。そう、兵庫県(つまり甲子園のおひざ元)からわざわざ沖縄の興南高に野球留学、狙い通りに56年夏、甲子園出場を果したあの竹下である。甲子園では皮肉にもいまチームメイトの松本(秋田経大付)に投げ負けたのだが、当時はかなり話題になった選手。それが5年後にはただの人?いやいや、まだまだ竹下に可能性は残されている。「一軍の投手ワクには十分入れる素質は持っている。打者のタイミングをはずすテクニックを、若いくせに身につけているからね。これは大きいよ」というのは辻二軍バッテリーコーチ。それなのになぜ、即一軍とならないのか?ハルさんの見るところ、竹下の場合、どうも、足首のケガにいつまでもこだわって、そこから抜け出せないでいる。足首が弱いんだったら、それをカバーする方法を考えなくっちゃ。「鈴木さん、ボクだって、風呂に入れば、足首を回したり、リハビリ強化に努めてるんスよ」と竹下は口をとがらせたが、私にいわせれば、歩く姿勢から直した方がいい。絶えずヒザの内側に力を入れて、歩くことだ。これだとケガ防止、瞬発力養成、足首強化と一石三鳥の効果がある。江尻二軍監督は「竹下は体の重さがすべて外側にかかる歩き方をしている」というのだから、なおさら、この歩行をすすめたい。私は不調になると、この内側の筋肉を意識して使うことによって調子を取り戻したことがあった。ウソだと思うならやってみなさい。ハルさんはウソはいいません。竹下は「故障後はヒザがマウンドにつかなくなった。その分上体だけの投球になっているんです」と自己分析したが、要するにかばっているのだ。竹下クン、勇気を出して、思い切っていこうぜ!

竹下浩二

野球をはじめたきっかけ 小学2年のとき兄がしていたので
思い出 甲子園出場が決まったとき56年(夏)
プロ野球選手でなかったら プロレスラー
恩師 興南高・比屋根監督
ライバル 投手全員
血液型 B型
好きな女性のタイプ 明るい女性
休日の過ごし方 ぶらぶらしている
セールスポイント スライダー
いま一番の反省点は? ケガが多いこと
将来の夢 大きな一軒家に住みたい
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小畑正治

2019-03-17 18:38:26 | 日記
1958年

南海の先発投手小畑は新しくナックルを投げ、スライダー、シュートと球種はあるが直球にスピードがなく、また球も高くあがって立上りに打たれ一挙に5点を奪われた。投手も打たれはしたが、内野守備の岡本の失策が破たんのきっかけとなった、カーブ、ナックルなどの変化球を使う余裕もなくつぶしてしまった。コントロールの欠陥だ。
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坂上惇

2019-03-17 18:28:53 | 日記
1956年

今季初登板の坂上は進境を伝えられていただけに高橋の貧攻もさることながらなかなかの出来、全力投球からの直曲球がよくきまり懸念されたコントロールの乱れもなく、内角にくいこむシュートをきめ球に好投、かてて加えてこの坂上は五回二死安打の保坂と四球の八田を一、二塁におき、宮崎の外角球をハッシと打つと球は逆風をつっ切る中越えの大三塁打、保坂、八田はあいついでホームイン、勝敗のめどをつけた。
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池辺巌

2019-03-17 18:15:37 | 日記
1962年

松山キャンプにはいってから二週間になる。見るものがすべて珍しいときも過ぎた。しかしプロのスピードの違う点はつくづくわかった。きのう(十九日)の紅白戦で山内さんにホームランされたが、あのときも自分としてはスピードも乗っていたし調子は悪くなかった。それでいてあっという間にスタンドにたたかれたのだからやはりすごい。しかしそれは僕の負担にはならない。山内さん、田宮さん、榎本さん、葛城さんは日本でも一流の打者なんだ。その打者の人たちに打たれるのはもともとという気がする。それでも自分が投げて打たれたときああ僕はこんなプロのスピードの世界にいるんだというプロ野球選手としての自覚がフッとわいてくる。ピッチングは神宮でも少しはやっていたので自分としては順調なペースで仕上がっていると思う。杉下コーチからもいわれたが、重心を前にのせて腕の振りを鋭くすると、以前よりスピードが乗るような気がする。といっても別に高校時代のフォームとは変わっていないつもりだ。今の段階では一つ一つコーチにいわれたことを実行していくこと。それとことし入団した人はすべてライバルだということで自分を磨いていくつもりだ。きょう(二十日)は休養日、両親のもとに元気でやっているという手紙を書こうかな。一度電話で話したきりだから・・・。そうそう、ゴハンもおいしいし食欲おう盛。一生懸命がんばっていますと最後に書いて両親を安心させよう。
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田鎖博美

2019-03-17 18:01:41 | 日記
1984年

本来なら、打撃投手を務めているような男ではない。イースタンでバリバリ投げ、あわよくば一軍の投手にという大器のはずだった。田鎖博美。55年、盛岡工からドラフト2位で入団。高校3年生から投手に転向したが、鈴木(近鉄)二世といわれら左腕の本格派だった。ところが、プロに入って伸び悩み、「ことしこそは・・・」と誓ったものの、キャンプ終了後に左肩を痛めてしまった。「痛めてから、投げ方をスリークォーターに変えてみたんですよ。上から投げ続けると、痛くなってくるんで・・・。いまは、スリークォーターでやっていこうと思っています」フォームを変えてコントロールがついてきた。イースタンではまだ出番が少ないが、田鎖は一軍の打撃投手をやりながら耐えている。
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角田満

2019-03-17 17:49:15 | 日記
1991年

今年5年目になる角田満投手(浦和実業出)が8月14日の近鉄戦で、プロ初デビューを飾りました。9回に、4番手としてマウンドに上り、先頭の金村には四球を許したものの、石井、光山、新井の強打者をピシャリと抑えたのです。試合後、角田投手は「頭がボオッとして何が何だか分からなかった。今でも緊張していますよ」とヒザをガクガクさせていましたが、もう顔面はクシャクシャでした。角田投手といえば、チーム№1の大食漢で「アイツがどれだけ食べるか見てみたい」とナインもその、潜在能力がどれほどなのか知らないほどです。若手の何人かと食事後スナックに行った際も、一人で全員のつまみを食べ尽してしまった上に、「お代わり」と手を差し出すのは、日常茶飯事のことです。結局、このピッチングの直後、肩、ヒジの状態が今ひとつということでファームに逆戻りしてしまいましたが、焦ることはありません。「もう少し、スピードをつけないと、上では通用しない」と本人も課題をわかっており、今度一軍に上ってくる時には、猛牛や獅子を持前の胃袋でペロリと平らげてくれる、ピッチャーに成長していることでしょう。
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田中学

2019-03-17 17:16:59 | 日記
1984年

ルーキー・田中学が13日の対大洋戦に先発。5回を投げ、被安打2、自責点3の出来。初回デッドボール、フォアボールでランナーを出し、内野ゴロの間に1点を許してしまったことで、投球が少々雑になった観があった。得意のシュートにいまひとつ切れがなく、打者にとってのボウ球になってしまった。デッドボールを出したことでやや弱気になったと思われるが、「痛いのは打者じゃない、自分なんだ」というぐらいの気持ちでいかなきゃね。「力からして、あんなもんじゃない。都市対抗の大舞台を踏んでいるし、すぐ立ち直ってくれますよ。心配なんかしていません、信頼してます!」と須田マネはキッパリ。ただいま発展途上人!次の登板が、マナブの真価を発揮するときだ。
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