プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

マリオ

2021-01-11 12:59:06 | 日記

1996年
「二十日間も実戦で投げていなかったし、東京ドームのマウンドも初めて。不安もあったが、あのアウトで自信がついた」八回以降は、前評判通りの素晴らしい内容だった。制球が良く、変化球も切れるうえに、「真っすぐが素直じゃない」(江藤)。その代表が八回の正田への投球。140㌔そこそこの速球を微妙に変化させて、ファウル二つでカウントを稼ぐと、3球目に得意のフォーク。見逃せば完全なボールだが、バットは止まらなかった。四者連続の三振はすべてフォークが決め球。長嶋監督が「あれは振るよ。ストライクゾーンから落ちるから」と言う通りの絶妙のコントロールだった。堀内コーチは「ガルベスが剛ならマリオは柔。カウントを取る球と三振させる球が違う。目を見張る球があるわけじゃないけど、野球をよく知っている」と評価する。タフな精神力と巧みな投球術。巨人が待ち焦がれた抑えの切り札になり得ることを、マリオはデビュー戦で証明してみせた。

 

フォーク、フォークで押してきたマリオが変身。この日は、最後のミューレンこそフォークで三振に仕留めたが、それ以外は直球やスライダー、シンカーで2回無失点に抑えた。村田真は「パターンを変えた投球もしっくりいった」。

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島田章弘

2021-01-10 16:29:36 | 日記

1985年


ルーキー島田章がマウンドを降りたのは、九回の無死一塁で宇野を歩かせた場面だった。救援の中西に会釈してベンチへ向かう。その姿を追う内野陣の目つきが、傍らの吉田監督には「スマン」とわびているように映った。二度目の先発で七回まで無安打無失点。なのに、報いてやれなかった。「みんな、いつもと違う目つきでした」と吉田監督。岡田のサヨナラ本塁打はこうしたチーム一丸を背景に生まれた。「実に良く投げていた。こういう試合を落とせば、きっとあとにひびく」と岡田は思った、という。九回の一死一塁。郭の初球、内角シュート気味の球は、九度目の五万八千大観衆の声援につつまれて左翼フェンスを越えた。初体験のサヨナラアーチだった。それにしても、島田章のひたむきな投球には目をみはらせられる。先発は前日いわれたそうだが、立ち上がりは緊張のあまり最悪。しかし、二回からきっちり軌道修正できたところにねうちがある。一回、中日の先頭島田に四球を与える。冒頭と内野ゴロで二、三進。上体が突っぱったままで、体重が乗ってこない。これでは武器のきれのいい速球は無理。ところが、谷沢を0-2から浅い中飛に抑えた。捕手の木戸から「走者は気にするな」といわれ、いくぶん気分がほぐれたのだろう。真ん中高めの危ないコースだったが、本来の速球だった。米田投手コーチは「甘い球はずいぶんあった。でも、力があるのでうち取れたのだ」と分析。その最初の例が谷沢といえた。八回、投手の郭に真ん中高め直球を左中間へ二塁打。「ストライクを取ろうと、スーと投げた」失投。早くから気付いていた、という大記録の夢は途絶えた。箕島高時代、完全試合の経験はあるが、そうそう巡ってはこない好機。でも「どうってことないです」米田コーチが「実戦で力以上のものを出すタイプ」と話す肝っ玉ルーキーは、次の登板に初勝利を目指す。

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ボレス

2021-01-03 14:44:38 | 日記

1970年

平和台にまた球音が戻ってきた。シャワーを浴び、さっぱりとした顔で黒人ボレスは肩をゆすって歩く。はえそろった太く長いもみあげに、まだしずくが浮いている。いまアメリカではやっているんだそうだ。「白い花が咲いたので、また日本にやってきたのさ」五カ月ぶりに、ついこの間、帰ってきたばかりだ。「君の聞きたいことはわかるよ。本当にトレーニングをやってきたのか?肩の故障は?さっき新しいボス(稲尾)に聞かれたばかりだ。人が思いたいように思えばいいが、オレはOKだヨ」悪い表現を使えば、出かせぎの外人である。日本へきてもう何年になるのに、ガンとして自分を開花させることをこばんでいる。日本人の感覚からすれば、かつて西本監督に「オレと話をしたければ英語を勉強してこい」といったスペンサーより、やはり「日本でボクは故郷をみつけた」といって自主トレから参加しているロバーツや、バットと同じぐらい長い時間ハシを握ってサシミと取り組んでいる大洋のセルフ君の方がどうしても好ましくうつるのである。「そりゃオレだって日本は好きさ。でも、故郷のオークランドは心から愛している。ビッグD(スペンサー)は生意気だったが、ヤツは本当のプロフェッショナルだった。プロは故郷は別として、土地にも人にも愛着を持っちゃいけないんだ。オレが日本を故郷と思い、日本人になろうとすれば、きっと仕事がダメになると思うネ。たとえば、もしボスが好きになれば、仕事以外でボスに使ってもらえるよう考えはじめるからだ」ボレスにとって、プロ野球における日本人的感覚がどうにも不思議で仕方がない。なぜ、ひとりランニングで人からおくれたことをボスから詰問されるのかわからない。彼にしてみればキャンプとは、人にみせるためのものではなく、ギャラをもらう場でもないのである。「オレの金もうけはオレがやるさ。だれも頼んだって手伝ってくれやしない」彼は、アメリカから届いたこん包を飄々としてほどいた。バットを一本抜き出して「ヒロ(広野)君がきっと喜ぶだろうと思って」すかさず代金はとりあげたが、英語が通じるたったひとりの親友への人の金もうけを手伝うという最大級の好意だったのだ。彼が好んで歩く大濠公園には、西日が落ち水鳥がのどかに浮いていた。「故郷にもこれと同じヤツがいる。ただ白い花が咲いていないだけだ。この一月に、オレは自分のレストランを建てたんだ…」黒いいかつい顔にふっとよぎる故郷への切ない哀愁。東風(こち)吹かば、においおこせよ梅の花…の惜別の情に比べれば、なんとも大変な菅原道真だが、渡り鳥ボレスがやってくる季節、博多の春は本物である。

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