プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

木村勉

2023-11-03 23:05:50 | 日記
1956年


大阪で経営していたキャバレーをたたみ、新しく合宿入りし、今後は野球一本槍で馬力をつくす。

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島田幸雄

2023-11-03 23:04:40 | 日記
1958年
新人では島田は脚がおそいが、シャープなバッティングを買っている。球団では第二の近藤を予定している。島田の生家は神戸港の網元、元球団重役の安院氏が社長をしている大都新聞と取引があるところから話が進んでいた。

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福島孝二

2023-11-03 23:02:29 | 日記
1979年
昭和49年の夏に地区決勝戦で日大一高に敗れた。ノンプロをへて板前修行中だったが「一度プロで腕前をためしたい」とテストでとびこんだガッツある男。


1983年


「もう二軍でボヤボヤしているトシ(27歳)ではない。一度は一軍のマウンドに立ちたい。勝負をかけますよ」「一軍級」と首脳陣が目を見張る落差の大きいカーブをひっさげ、一軍にチャレンジする。

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光井正和

2023-11-03 22:59:46 | 日記
1980年
羽田以来久々に入団した大型内野手。大商大1年生時代、明治神宮大会の対関東学院大戦で村上監督に「打たせて下さい」と猛烈に売り込み、代打で初出場ながら初ホーマーを放ち、ナインの度肝を抜いた。また、関西六大学リーグの対立命館大戦で西京極球場のバックスクリーン上段を直撃するプロ顔負けの特大ホームランを放ち、脚光を浴びるようになった。大学時代の通算本塁打は9本。ベース1周が14秒3とナインの中でもトップクラスの俊足。西本監督はじっくり鍛えて「将来チームの中心打者に育てたい」と期待している。「打つことに関しては自信を持っている。山本浩二さん(広島)のような三拍子そろった選手になることが目標」

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金博昭

2023-11-03 21:58:41 | 日記
1967年
昭和十四年生まれの二十八歳。これから激しいプロの世界に飛び込むにはふけ過ぎている。しかしこれは一般論。彼の俊敏な、そして闘志あるプレーを見るとき、だれもが感嘆する。プレーニング・マネジャーの観念を逸脱した若々しいそのプレーぶりに。金はいう。「僕は人生に何度も落第した。理想を追い過ぎたんですね。それから得たことは、とにかく瞬間を大事に生きようということだったんです」この人生観が金の人となる…。帝都育英高を一年で中退。日大二高は再び一年から。卒業後明大に進学したが、まあ一年間でイヤになり、日大に編入。ここも二年と続かなかった。「自意識過剰というのでしょうね。野球をやっていても、勉強をやっていても、みんな自分のためにやっているのではなく、他に動かされているようにみえた。与えられたコースをなんとなく渡り歩いているような」三十六年九月、ブラブラ遊んでいた金を拾ったのは立正佼成会・光田氏(旧姓・鈴木)。このときも金は、入信することに抵抗を覚え、合宿入りしたその夜に逃げ出そうと思ったそうだが、同氏の「とにかく二、三日がまんしてみろ」というアドバイスで居残った。落後者が水を得た魚のように生き返ったのはそれからだ。野球に人生をかける金の前向きな姿勢。やる気のないものは去れ、金の精神野球が立正佼成会をリードしてきたといっても決して過言ではないだろう。ことしの三月、ある雪の日だった。グラウンド内を素足で走るなら十周、外ならクツをはいて二十周。ほとんど素足で走った。大方の選手がノルマを達成せずにダウンした中で、金だけは実に五十四周したという。こんなエピソードはザラにある。三大大会の成績が3割4分7厘。目を引くのは十八試合中無安打はわずか二試合。四球1と少ないのは瞬間にかける金が好球必打に徹していたからなのだろう。二十八歳でプロ入りすることについて金は「これから新しい仕事をやれといったって出来るわけがない」なんの抵抗もないという。だから発表の席で田村スカウトが「普通の新人と違うから、アパートにでもはいったら」といってくれたが「イヤ、僕は新人ですから合宿入りします」と断った。二十九歳の新人王を期待しても間違いではない。167㌢、67㌔、左投げ、左打ち。


中日・田村スカウト 年齢など関係なく取ろうと思った選手だ。ユニホームを着た金をみて、年齢を当てる人はだれ一人としていないだろう。パンチのあるバッティング、肩、足も衰えてはいない。プロに徹した考え方もいい。プレーニング・マネジャーとして苦労しながら実績を残した選手なので、精神的にも強い。ウチは江島(平安)もはいり、外野の層が厚くなったが、努力しだいでは、すぐ第一線に出てくるだろう。

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植村秀明

2023-11-03 21:39:27 | 日記
1967年
広島カープ木庭スカウトは、さきのドラフト会議で交渉権を獲得した奈良・郡山商の植村秀明投手(18)の獲得交渉のため十九日午後・植村宅(奈良県北葛城郡王子町久度2-24-10)を訪れ、第二回の交渉を行った結果、入団をほぼ確実とした。木庭スカウトが植村宅を訪れたのは午後六時半。植村側からは本人、父親政治さん(51)、長兄侃司(24)次兄正義氏(22)とおじの森基安氏(49)、いとこの植村純好氏(40)の六人が同席した。広島の出した条件は契約金八百万円、年棒百六十万円(ともに推定)を提示したもようだが、植村側は、即答を避け、後日返事することにした。植村家ではこのあと会談に出た五人(本人を除く)が意見を出し合い、また親類とも協議して態度を決定するが、この一時間二十分ほどの会談は終始なごやかに運ばれており、また、本人も「プロ入り」の意志を表明しているところから、二十五日以降に行われる第三回の交渉で広島入りが確定するものとみられる。


木庭スカウトの話 きょうは条件を提示した。これは最高に近いものだ。すぐに返事をもらうのは無理なので、二十五日以降に第三回の交渉を持つつもりです。ゆっくり考えてもらい納得した上で入団してもらいたいからです。プロ入りの意志は聞いたから、きてくれるものと思っています。


父親政治さんの話 木庭さんから考える余裕を与えていただき感謝しています。

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入江道生

2023-11-03 21:14:20 | 日記
1973年
6位指名の入江道生内野手(22)=179㌢、75㌔、右投げ右打ち、九州産業交通=が熊本市内プラザホテルで、野崎スカウト立ち会いのもと入団の契約書にサインした。入江内野手は博多工から新潟県青海町の電気化学を経て九州産業交通に入社。ノンプロで活躍。主として二塁を守っていたが、三塁、遊撃もこなす。肩、足がよく近い将来、内野の一角に加わる素材と期待されている。

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上林成行

2023-11-02 22:54:40 | 日記
1973年
ノンプロのドラフト男がその異名にピリオドを打った。近鉄に三位で指名された倉レ岡山の上林成行投手(24)=国府高-法大中退。179㌢、78㌔、右投げ右打ち=。四十二年、南海六位指名を皮切りに四十三年、広島九位、昨年は太平洋が四位にランクした文字通りドラフトの常連。幸か不幸か、今年は、倉レ野球部の解散が決まり、晴れて?プロのユニホームを着ることになった。が、上林君、なぜか、うかぬ顔である。「ハイ、そうなんですよ。会社から好きなようにしろとは、いわれていますが…」日本列島をスッポリ包んだ突然の石油危機…。ビニロン、人絹、ポリエステルの大手、倉レに影響がないわけではなかった。二十四日、うすうす感じてはいた。最悪の事態がやってきたという。「上層部から、野球部を解散すると、話があった。そのときの説明では、今度の石油危機は、直接関係ないということでした。でも、ないわけがないですよね。ショックでした」岡山工場加工技術部実験室が上林君の所属。新製品の開発から、テスト、受注先のクレームに対処する試験室でもある。原料の石油危機に敏感な反応を示す知識は、十分すぎるほどに持ち合わせていた。前後してのドラフト指名…。「腕の内で、考えてはいたが、プロ入りの決心は、つけていなかった」そうだ。文句なしの一流企業、働きやすい職場だけに、上林君のショックは、大きかったのだろう。「正直いって、プロに行く自信はなかった」と、これまでの経過を振り返る。上林君のいう自信は、自分の能力ではなく、プロ野球のいいかげんな姿勢にあったようだ。愛知県国府高時代の四十二年、南海がドラフト六位に指名。とても、プロ野球など、考える時期ではなかった。時習館高に次いでの「進学高」だけに、上林君も目標の進学に力を注いだ時代だ。受験に失敗した四十三年は、人並み?の浪人。ところが、ろくにボールも握らない上林君を広島が九位とはいえ指名してきた。「いったい、どういうつもりなのか」とプロに対する不信が沸いてきた。練習どころではない浪人生活。戸惑いと不信以外の何ものでもなかったという。四十四年、ひとまず、法大に合格したが、「家庭の事情」から中退のコースをたどった。そのとき、温かい手を差し伸べてくれた先輩によって、倉レ岡山への道が開けた。一生骨を埋めるつもりで入社したものの、六位の素質は、岡山のマウンドに立って開花していった。四十七年の都市対抗、産業対抗、中国大会、大阪大会…。もはや、押しも押されぬエースに成長していた。すかさず、太平洋がねらい撃ちの四位指名。それでも上林君は、プロへ行く気はなかった。このままいけば、倉レにとどまるはずだったが、好むと好まざるにかからわず、評価を高めるプロ野球。そこへ突然の解散が、重なって、ついて、プロへの気持ちに、固まってきた。「中学のときにオヤジを亡くしています。オフクロには心配のかけ通しなので、親孝行もしなければ…」とあって、二十九日、近鉄・中島スカウトに会った。受験失敗から浪人、プロへの不信感、野球部解散と、あまりにも苦い心を揺さぶる出来事が続いてきた。「でも、僕はまだ二十四歳。人の一生は、いろいろなことがありますよね。今度のことも僕は、飛躍する一つの転機という解釈をしているんです。近鉄の条件が納得出来れば、プロのユニホームを着ることになるでしょう」ドラフト男といわれた上林君の歩みには、ハプニングがついてまわった。が、その一つ一つに、ぶち当りながら、乗り越えてきた上林君、いま、同僚の声援に包まれて、チャンスをつかもうとしている。

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