塵、人のことだ。不要品の無機物のゴミのことではなく、人。
仏は三千世界に漂う塵と人を云い教えた。それを実感すると
なるほど自分は小さいわい、と納得し、安心したものだった。
塵とわかったからといって考えないわけでも食べないわけでも
ない。このごろ自分が塵であることを忘れかけて生意気なこと
をつぶやいたりしてみて、少々うんざりして、なぜにこんなに
うんざりと重たいかと湯船に浸かるたびに思うであった。
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前の日、一日中降り続いて夕暮れに10センチほどの積雪だった
からたいしたことはないと高をくくっていたら夜のあいだじゅう
降り続いた。20センチを超えると少々不安になり、さて除雪車
は来ないし、さては融けるまで閉じ込められるかなと思ったり
1時間に数回は雪の高さを気にするようになる。
一方で、水気を多く含んだこの日の雪が青く光っているのに
見とれたりしている。
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山のなかで暮らしていると自然に圧倒されて、ハイハイと空に
従い風に怯え、合間にはしゃいだり跳ねたりしつつ、総合的に
攻撃性というよりも受容する力や耐える力の方がついてくる。
謙虚になるというほど出来てはいず、怯えるのほうが近いわけ
だが。どっぷりと自然に包み込まれていると、塵であることを
思い出してきたわけなのだった。
考えてみると、日夜ツイッター上で野田ブタがどうの東電の
バカ野郎がどうのと言っている者同士が自分も含めて野田ブタと
どのくらいの差があるというのか、人間は世界中で悪なきものを
まき散らしながら命を長らえていて、それがみな数珠つなぎに
なっているのを、上から見下ろしたらさぞかし塵塵と汚いこと
だろうなあと想像した。
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前の週に降った雪は柔らかく、ちょっと降ってみましたよ位の、
雪女がシナを作って挨拶しているんだろうと笑っていた。
ところが今度は、オレだオレだと旦那の雪男とその息子の悪ガキ
がどんなもんだいと太鼓(なぜか雷太鼓)を叩きまくって暴れて
どかーんどかーんと降りやまず、雨だったはずが大雪になって
はた迷惑なことこのうえない状態になったんである。
そんなことを想像しながら、塵であるわたくしをかえりみた。
野田ブタは正真正銘のブタ野郎でどじょうなんぞと嘘ぶいて本音は
欲たかりで食い意地の張った塵の中でも最悪の塵には違いない。
ああいうふうな輩が何度もこの国の人々を、ただの塵である人々を
自分の食い扶持のために踏みにじってきたという歴史。
そのことを雪男の悪ガキの目線から眺めてみると、緊迫して苦しい
胸の中に少しづつ隙き間ができて、ざわざわが去っていく。
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我が我がと思う心は、心というよりも末しょう神経の反射と脳みそ
が勝手に作り出した感情。正しい感情なら良いではないかという
反論はさておき、正しいか否かではなく感情か否かが問題で、
感情で物事は見えないのだ。
私情を根底に隠しながら仕事をすれば、おのずと自分の利を貪る
道を取ることになる。外道である。
情を静めて事に当たることができなければ公僕は務まらないし
代議士など務まらない。誰の金で食わせてもらっているか忘れて
エラそうな顔をして着るもの履物、髪形、食べる物などに気を取られ
実際にはどんどん下びた顔つきになる。
日夜そういう顔をテレビや新聞で見せられて、働く意欲も減退する
というものではなかろうか。
勤勉だと言われ続けた日本人、今はハッピーマンデーでおでかけ
三昧があたりまえになって今年は文句を言う人が続出なんだと。
それというのも考えてみれば頼んだわけでなし、観光業者と結託
し、外資に媚びるしか能のない官僚の思いつきで、後先考えない
から暦が文化であり、文化を失えば民族のアイデンティティーは
損なわれるということすら考慮できないのかしないのか、しない
方なのだろうけれど、とにかく勤勉さは消え失せつつある。
野田ブタが映った瞬間、声が聴こえる寸前にチャンネルを変える
そういう塵諸氏諸君と仲間のわたくしは、そう、小さい人間だ。
だが、同じ塵でも、公私を分けること、己の分をわきまえること、
嘘はつかないくらいの人の道は守っている。
野田ブタは人でなしで、こっちはかろうじてまだ人の道からは
堕ちていない。名も知らぬ仲間たちもみな人だ、美しい人々だ。
それが小さい差か、大きな差か、それは野田ブタも私も夫々が
死に際にははっきりと覚ることだろう。
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雪はその感情を冷まし、純真な理由なき喜びを与えてくれる。
純真な畏れも教えてくれる。
夕刻にカメがやってきてユンボを出動させ道を作ってくれたので
ほっと安堵していたら、村役場の除雪車のおっさんがやあやあやあ
と手ぬぐいをかざして振り回して合図していた。
遅れたすまんかったなあと。
視界に広がる白の風景を見ていると、ざわざわとした気持ちが
静まり、ざわついた理由をしばし忘れる。しばしのことだが、
次に思い出したときは、しょせん塵の思考だ、と切り捨てて
体勢を持ち直すことができる、それがこの場所の効能である。
この門を出て雪道の坂をいくつも昇り下りして峠を越え村の
灯りを眺めながら高速道路の入り口へと走っているうちに、
胸のなかのざわつきがまた始まる。
311がまた廻ってくるというのに、失うものを数える日ばかり
続いて、悲しみの量子があちらこちら残像のように塊り、
声に出さない嘆きが道々を被っている。
行き場のない人魂が彷徨って、呼びかけてくる。
塵を愛しめよ。