(before 3.11 夏の庭)
週末には注文したバラの培養土が届くので新しい苗木を
植える。花がつかない弱った木には液肥をあげ春に乗り
遅れないように今のうちに勢いをつける手伝いをする。
植えたり育てたり、読んだり、目を瞑ったり、山の時間は
ゆったりと、そして濃密に流れる。
山での時間。
ここには義務やノルマといったネバナラナイは無いので
主体的に喜んで働く。何かを成し遂げようとして動いて
いるわけではなくて自然に動きたくなるからだ。
ヘッセは子どもの頃から親しんだ庭を造る愉しみを作家と
して成功した後に庭つきの家を手に入れることから始め、
終生、庭を持ち、植物だけでなく昆虫や鳥、庭をとりまく
自然のすべてを愛し友として生きた人だ。
その中で庭の労役を常とすることについて、苦役となる
ほどやってはいけないと悟ったと記しているのが興味深い。
農夫の辛さを知ってしまうほど庭仕事に打ち込み、自分には
向かないと知ったと書いている。収穫の喜びだけを強調して
書く偽善的な自然愛好家とは異なるところだ。
庭仕事を生業にしていなくとも趣味と呼ぶ以上に大きな
価値を自らのなかに置いて暮らしている者にとっては
荒れ果てる庭を放置するのは忍びないことである。
仕事やつきあいや諸々の事情を優先すると庭はいつのまにか
荒れて自然に戻っていく。
手をかけて育てた花木を害虫から守り、繁殖する強い雑草
が風通しを妨げることから守ろうとすると働かねばならない。
あ~キレイねと観光植物園を眺める喜びと別の種類の充実感が
労役を伴った庭の景色にはある。
そこでは庭と自分がいつのまにか一体になれるからだろう。
たまさか訪れた場所では望めないことだ。ともに過ごした歳月
というものが人とだけでなく、もの言わぬ樹々との間にもある。
ひとつまみのタネの時分から見知り、双葉が出たと喜んで、
蕾がかわいいと見つめ、雨に打たれるのを心配し、水をやり、
長じていくのを見守る。
花を見たいばかりに土を豊かにすることも学び、落葉の効用を
知り、木の種類を覚え、木の名前を知る。ある頃から木を
眺める目に尊敬のまなざしが加わる。
そして、人は木になれず、木からとても遠いことを知る。
そして、そして、木の悲しみもまた、知ってしまった。
『ある木が語る。
「私の中にはひとつの核、ひとつの火花、ひとつの思想が
隠されている。私は永遠の生命の一部だ。
永遠の母が私を相手に行った試みと成果は二つとないものだ。
私の姿形と私の木目模様は二つとないものだ。
私の梢の葉のこの上もなくかすかなたわむれや、私の樹皮の
ごく小さな傷痕も唯一無二のものだ。
私の使命は、この明確な一回かぎりのものの中に永遠なものを
形づくり、示すことだ」
(ヘルマン・ヘッセ 「庭仕事の愉しみ」から〈木〉(1918)
v・ミヒェルス編 岡田朝雄訳 1996草思社刊)
私たちは自然という言葉をふだん都合よく使っている。
だが自然に囲まれて生きながら、そのぜんたいを感知して
などいないし、できない。できないことを自覚する者は少なく
大方が驕った口調で自然は…と言う。
ぜんたいを感じる、それがどんな夢よりもすばらしいか、
森にいるといつも思う。
できないことをわかってからというもの聞く耳をそば立て
何にむけるということもなく、ただ一つになれるようにと
願う気持ちだけをかすかに残して。
(写真はすべて夏の風景です)
週末には注文したバラの培養土が届くので新しい苗木を
植える。花がつかない弱った木には液肥をあげ春に乗り
遅れないように今のうちに勢いをつける手伝いをする。
植えたり育てたり、読んだり、目を瞑ったり、山の時間は
ゆったりと、そして濃密に流れる。
山での時間。
ここには義務やノルマといったネバナラナイは無いので
主体的に喜んで働く。何かを成し遂げようとして動いて
いるわけではなくて自然に動きたくなるからだ。
ヘッセは子どもの頃から親しんだ庭を造る愉しみを作家と
して成功した後に庭つきの家を手に入れることから始め、
終生、庭を持ち、植物だけでなく昆虫や鳥、庭をとりまく
自然のすべてを愛し友として生きた人だ。
その中で庭の労役を常とすることについて、苦役となる
ほどやってはいけないと悟ったと記しているのが興味深い。
農夫の辛さを知ってしまうほど庭仕事に打ち込み、自分には
向かないと知ったと書いている。収穫の喜びだけを強調して
書く偽善的な自然愛好家とは異なるところだ。
庭仕事を生業にしていなくとも趣味と呼ぶ以上に大きな
価値を自らのなかに置いて暮らしている者にとっては
荒れ果てる庭を放置するのは忍びないことである。
仕事やつきあいや諸々の事情を優先すると庭はいつのまにか
荒れて自然に戻っていく。
手をかけて育てた花木を害虫から守り、繁殖する強い雑草
が風通しを妨げることから守ろうとすると働かねばならない。
あ~キレイねと観光植物園を眺める喜びと別の種類の充実感が
労役を伴った庭の景色にはある。
そこでは庭と自分がいつのまにか一体になれるからだろう。
たまさか訪れた場所では望めないことだ。ともに過ごした歳月
というものが人とだけでなく、もの言わぬ樹々との間にもある。
ひとつまみのタネの時分から見知り、双葉が出たと喜んで、
蕾がかわいいと見つめ、雨に打たれるのを心配し、水をやり、
長じていくのを見守る。
花を見たいばかりに土を豊かにすることも学び、落葉の効用を
知り、木の種類を覚え、木の名前を知る。ある頃から木を
眺める目に尊敬のまなざしが加わる。
そして、人は木になれず、木からとても遠いことを知る。
そして、そして、木の悲しみもまた、知ってしまった。
『ある木が語る。
「私の中にはひとつの核、ひとつの火花、ひとつの思想が
隠されている。私は永遠の生命の一部だ。
永遠の母が私を相手に行った試みと成果は二つとないものだ。
私の姿形と私の木目模様は二つとないものだ。
私の梢の葉のこの上もなくかすかなたわむれや、私の樹皮の
ごく小さな傷痕も唯一無二のものだ。
私の使命は、この明確な一回かぎりのものの中に永遠なものを
形づくり、示すことだ」
(ヘルマン・ヘッセ 「庭仕事の愉しみ」から〈木〉(1918)
v・ミヒェルス編 岡田朝雄訳 1996草思社刊)
私たちは自然という言葉をふだん都合よく使っている。
だが自然に囲まれて生きながら、そのぜんたいを感知して
などいないし、できない。できないことを自覚する者は少なく
大方が驕った口調で自然は…と言う。
ぜんたいを感じる、それがどんな夢よりもすばらしいか、
森にいるといつも思う。
できないことをわかってからというもの聞く耳をそば立て
何にむけるということもなく、ただ一つになれるようにと
願う気持ちだけをかすかに残して。
(写真はすべて夏の風景です)