痛ましく、おぞましい二ユースが
不吉な予兆のように届いた。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を
死に至らしめて100万円の報酬を
受け取った医師2名の逮捕である。
先頃から「命の選別」という言葉をどう
解釈するか、優生思想であるか否か
というつまらない話が飛びかっている
まさにその最中である。
悪魔が笑っている。
実行犯は元厚労省技官の医師であり、
もう一人は医師免許を経歴詐称で取得
したということも調べ中とのこと。
ネットで契約し報酬を先に受け取って
実行した。
死ぬことの自由を主張する者たちは
それを権利という。
だが、今回の方法は別だ、論外だという
だろうし、あるいはだからこそ法整備が
必要なのだというのだろう。
北朝鮮がミサイルを打ち上げ、政府が
ソレ、と憲法改正をぶち上げ、非武装、
専守防衛を捨てたように、いっきに軍隊と
名称変更せよ、急げよと勢いをつける。
それとよく似た話で、物事を単純化して
誤魔化す手法である。
高齢化社会へ突き進む今、経済力を維持
していくためには命の選択は一つの方法
として必要なのだという思考回路の原点は
どこにあるのか。
経済力は命の選別で解決するわけではなく
選別した先にあるのは喪失の連鎖である。
産むではなく削る方法。削るならば、他にも
削らねばならないものは山ほどある。
優先順位どころか、膿の溜まった現実から
目を背けて、最も弱き者へ矛先をむける
最低な発想である。
経済と金融論に詳しいという大西氏が
高齢者の画一的延命のために医療費を
費やし若者の生活を犠牲にしていいのか、
と叫ぶと自分たちの未来のための政策を
言ってくれていると賛同する若者もいる。
しかし、大西氏はすでに若者ではないし
若者もいずれ若くはなくなることについて
想像力を働かせているだろうか。
命の選択カードを所持することを義務化
して臓器移植のように選別すればいいと
いう意見もあるが、それも同じである。
人は死の時を選べない、一寸先は闇と同じ、
宣告されてもその瞬間は神のみぞ知るなのだ。
身内の臨終のその時を待たねばならなかった
経験のある人はよく知っているだろう。
その瞬間まで人は生きている。
死が隣に忍んでいても、棒のように立って
見下ろしていようと、本人はまだ生きている。
死んで喜ばれるより、その死を惜まれる存在
でありたいのが本音ではないか。
死を待たれるのは寂しいことだ。
誰もみな等しく、自ら生まれたわけではなく
命は与えられ、恵まれたものである。
生命与奪の権利も放棄も人間には与えられて
いない。命のスタートを恵まれて誕生しただけだ。
人が権利だなんだと決める領域以前のことだ。
自死したがる人、自死してしまった人、
それは幸福ではないと思ったからだ。
生きている喜びを感じたいのに、
そうならなかったという思いに苛んでのことだ。
喜びと希望がほんの少しでもあれば、人は生きて
いくのだ。自ら死を望んだりしない。
それはALSで呼吸器を付けなければならなく
なってもだ。寝たきりを不幸だと思うのは
本人では無いはずだ。
そう決めつけるのは周囲なのだ。
事件後、れいわ新選組の舩後議員は
改めてメッセージを出された。
「『安楽死を認めて欲しい』『苦しみながら
生かされるのは本当につらいと思う』と
いうような反応が出ていますが(中略)
強い懸念を抱いております。なぜなら、
こうした考え方が、難病患者や重度障害者
に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を
生きづらくさせる社会的圧力を形成して
いくことを危惧するからです。」
舩後さんは苦しみの末に、自分の経験を
伝えれば他の人に役に立つと気づき、
自分の姿を公に晒し発信していくことを
選んだ。それを使命としてきた。
舩後さんを特別だという人もいるが
そうではない。
有名無名に限らず、当事者の周囲で介助
している人が助けているだけではなく、
自らも助けられ教えられていることに
気づいていく。そういうケースは多い。
それは差別された側が必ずしも被害者
ではなく差別するものを救済する存在
であることと同じである。
差別はいけないというが、難病の障がい
者の命や、人の手を借りないと生活が
できなくなった高齢者の命を、自分の命
とは違うもののように線を引くこともまた
差別だと気づいていないのでは無いか。
大西氏は「政治による命の線引き」政治の
役割だと思うとスラっと口にしている。
舩後議員はれいわの総会後に大西氏を
「高学歴の人にありがちな傲り」が見え、
残念であったと語っている。
弱者に寄り添うという言い方も手垢が
ついてしまって使いたくなくなったが、
弱者も元気な人も頑張らない人も同じ
一線にいる社会を目指す党という初心
からすれば、大西氏の発言は傲慢と
言われても弁解の余地はないだろう。
(れいわは山本太郎が一人で立ち上げ
そこへ大西氏が参議院選候補者として
加わったのが経緯だから立党の初心が
共有されていなくても、まああり得る
ことだ、残念だが)
若者の未来を思うならば、今ある腐敗
政治を叩きのめすべく一致団結する
のが先である。それを棚上げし、中間層
の票を獲得する政策が必須などという
考えを巡らせたのは焦りだろう。
焦っているのは国民も同じである。
明日の保証のない社会にすでに陥って
いるのだから。
その危機に乗じて最もたやすいのが
身近な敵を作り憎悪という情熱をそこ
へ向けさせることである。
策略家はそう考えるだろう。
しかし、舩後議員の目指す「生きたいと
思える社会」は、誰かを排除して自分が
生き残る方法では手に入らないのだ。
安楽死の権利を望む人へ、時間の許す
かぎりを楽しんで生きたいという気持ち
にさせる社会を作るのは容易ではない。
ただ、恵まれた命の使い方としてまっとう
ではないだろうか。まっとうでなければ
政治を志す資格はないと思う。
最も人間性から逸脱することが殺生である。
殺生は世の中に満ち溢れ、私たちは多くの
命を食んで自らの生命を養っている。
殺生の役割を担う職業を生業にする者は
喜んでそれを行なっているわけではない。
育てた命をトラックに乗せて別れるとき
別れの辛さ切なさがないわけではない。
それらを飲み込み、再び命の誕生を喜び
あい、愛しみ、別れる。感謝と慈しみなしに
できることではない。
ショーケースの中の赤い肉片の塊しか
見ない消費者には解らないことだが。
親を看取り、子を育て、喜んだり悲しんだり
しながら時が過ぎ、また子の世話になる
時がくる。この恵みの連鎖を法で断ち切る
のは、人間存在の根本をゆるがすことに
つながる。
れいわの混乱から考えてきたことを
書いてみたが、政治に物申すというより
古伝に学んだ命のありかたを元に考えた
ことを述べた。
「線引き」など、神に唾する愚かものの
言葉だと思う。
大西氏の言動に落胆したし、それに
賛同する人々が少なからずいることも
危惧している。
れいわ新選組は出来立ての党だが、
それはわたしたち有権者がすべきことを
山本太郎という逸材がやってのけて
くれたから始まったのだ。
それを忘れてはいない。
この国で誰もしなかったことをやろうと
している勇気ある者に、必ず大きな手が
差し伸べられると、心のどこかで
信じている。
不吉な予兆のように届いた。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を
死に至らしめて100万円の報酬を
受け取った医師2名の逮捕である。
先頃から「命の選別」という言葉をどう
解釈するか、優生思想であるか否か
というつまらない話が飛びかっている
まさにその最中である。
悪魔が笑っている。
実行犯は元厚労省技官の医師であり、
もう一人は医師免許を経歴詐称で取得
したということも調べ中とのこと。
ネットで契約し報酬を先に受け取って
実行した。
死ぬことの自由を主張する者たちは
それを権利という。
だが、今回の方法は別だ、論外だという
だろうし、あるいはだからこそ法整備が
必要なのだというのだろう。
北朝鮮がミサイルを打ち上げ、政府が
ソレ、と憲法改正をぶち上げ、非武装、
専守防衛を捨てたように、いっきに軍隊と
名称変更せよ、急げよと勢いをつける。
それとよく似た話で、物事を単純化して
誤魔化す手法である。
高齢化社会へ突き進む今、経済力を維持
していくためには命の選択は一つの方法
として必要なのだという思考回路の原点は
どこにあるのか。
経済力は命の選別で解決するわけではなく
選別した先にあるのは喪失の連鎖である。
産むではなく削る方法。削るならば、他にも
削らねばならないものは山ほどある。
優先順位どころか、膿の溜まった現実から
目を背けて、最も弱き者へ矛先をむける
最低な発想である。
経済と金融論に詳しいという大西氏が
高齢者の画一的延命のために医療費を
費やし若者の生活を犠牲にしていいのか、
と叫ぶと自分たちの未来のための政策を
言ってくれていると賛同する若者もいる。
しかし、大西氏はすでに若者ではないし
若者もいずれ若くはなくなることについて
想像力を働かせているだろうか。
命の選択カードを所持することを義務化
して臓器移植のように選別すればいいと
いう意見もあるが、それも同じである。
人は死の時を選べない、一寸先は闇と同じ、
宣告されてもその瞬間は神のみぞ知るなのだ。
身内の臨終のその時を待たねばならなかった
経験のある人はよく知っているだろう。
その瞬間まで人は生きている。
死が隣に忍んでいても、棒のように立って
見下ろしていようと、本人はまだ生きている。
死んで喜ばれるより、その死を惜まれる存在
でありたいのが本音ではないか。
死を待たれるのは寂しいことだ。
誰もみな等しく、自ら生まれたわけではなく
命は与えられ、恵まれたものである。
生命与奪の権利も放棄も人間には与えられて
いない。命のスタートを恵まれて誕生しただけだ。
人が権利だなんだと決める領域以前のことだ。
自死したがる人、自死してしまった人、
それは幸福ではないと思ったからだ。
生きている喜びを感じたいのに、
そうならなかったという思いに苛んでのことだ。
喜びと希望がほんの少しでもあれば、人は生きて
いくのだ。自ら死を望んだりしない。
それはALSで呼吸器を付けなければならなく
なってもだ。寝たきりを不幸だと思うのは
本人では無いはずだ。
そう決めつけるのは周囲なのだ。
事件後、れいわ新選組の舩後議員は
改めてメッセージを出された。
「『安楽死を認めて欲しい』『苦しみながら
生かされるのは本当につらいと思う』と
いうような反応が出ていますが(中略)
強い懸念を抱いております。なぜなら、
こうした考え方が、難病患者や重度障害者
に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を
生きづらくさせる社会的圧力を形成して
いくことを危惧するからです。」
舩後さんは苦しみの末に、自分の経験を
伝えれば他の人に役に立つと気づき、
自分の姿を公に晒し発信していくことを
選んだ。それを使命としてきた。
舩後さんを特別だという人もいるが
そうではない。
有名無名に限らず、当事者の周囲で介助
している人が助けているだけではなく、
自らも助けられ教えられていることに
気づいていく。そういうケースは多い。
それは差別された側が必ずしも被害者
ではなく差別するものを救済する存在
であることと同じである。
差別はいけないというが、難病の障がい
者の命や、人の手を借りないと生活が
できなくなった高齢者の命を、自分の命
とは違うもののように線を引くこともまた
差別だと気づいていないのでは無いか。
大西氏は「政治による命の線引き」政治の
役割だと思うとスラっと口にしている。
舩後議員はれいわの総会後に大西氏を
「高学歴の人にありがちな傲り」が見え、
残念であったと語っている。
弱者に寄り添うという言い方も手垢が
ついてしまって使いたくなくなったが、
弱者も元気な人も頑張らない人も同じ
一線にいる社会を目指す党という初心
からすれば、大西氏の発言は傲慢と
言われても弁解の余地はないだろう。
(れいわは山本太郎が一人で立ち上げ
そこへ大西氏が参議院選候補者として
加わったのが経緯だから立党の初心が
共有されていなくても、まああり得る
ことだ、残念だが)
若者の未来を思うならば、今ある腐敗
政治を叩きのめすべく一致団結する
のが先である。それを棚上げし、中間層
の票を獲得する政策が必須などという
考えを巡らせたのは焦りだろう。
焦っているのは国民も同じである。
明日の保証のない社会にすでに陥って
いるのだから。
その危機に乗じて最もたやすいのが
身近な敵を作り憎悪という情熱をそこ
へ向けさせることである。
策略家はそう考えるだろう。
しかし、舩後議員の目指す「生きたいと
思える社会」は、誰かを排除して自分が
生き残る方法では手に入らないのだ。
安楽死の権利を望む人へ、時間の許す
かぎりを楽しんで生きたいという気持ち
にさせる社会を作るのは容易ではない。
ただ、恵まれた命の使い方としてまっとう
ではないだろうか。まっとうでなければ
政治を志す資格はないと思う。
最も人間性から逸脱することが殺生である。
殺生は世の中に満ち溢れ、私たちは多くの
命を食んで自らの生命を養っている。
殺生の役割を担う職業を生業にする者は
喜んでそれを行なっているわけではない。
育てた命をトラックに乗せて別れるとき
別れの辛さ切なさがないわけではない。
それらを飲み込み、再び命の誕生を喜び
あい、愛しみ、別れる。感謝と慈しみなしに
できることではない。
ショーケースの中の赤い肉片の塊しか
見ない消費者には解らないことだが。
親を看取り、子を育て、喜んだり悲しんだり
しながら時が過ぎ、また子の世話になる
時がくる。この恵みの連鎖を法で断ち切る
のは、人間存在の根本をゆるがすことに
つながる。
れいわの混乱から考えてきたことを
書いてみたが、政治に物申すというより
古伝に学んだ命のありかたを元に考えた
ことを述べた。
「線引き」など、神に唾する愚かものの
言葉だと思う。
大西氏の言動に落胆したし、それに
賛同する人々が少なからずいることも
危惧している。
れいわ新選組は出来立ての党だが、
それはわたしたち有権者がすべきことを
山本太郎という逸材がやってのけて
くれたから始まったのだ。
それを忘れてはいない。
この国で誰もしなかったことをやろうと
している勇気ある者に、必ず大きな手が
差し伸べられると、心のどこかで
信じている。