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想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

月を詠む、明恵上人

2010-02-09 12:00:00 | 
(1月に撮った月)

花鳥風月、風雅を詠むのが歌の世界‥‥。
と思いきや、それは俗人の考えにすぎない。風雅に遊ぶのは俗世のこと。
西行も明恵上人も歌詠む心について書き遺されているが、遊戯(あそび)を戒める
気持ちが強く、歌が風雅に流れるのを嫌っておられた。

月を愛で、月を詠むのを粋なんて言ってるのは俗っぽいんである。
そんなこといっても俗世に生きてるんだもの、抹香臭い世界にいるわけじゃあるまいしと
言われるかもしれないが、それでは理想が低すぎるというものである。
歌を詠むというからにはその高みをのぞいてみてごらん~、である。
それに俗世で俗っぽいって言われる日にゃそれは低のつく俗である場合が多いんだな、これが。

歌に限らず、花も茶も書も、すべて古えの人が道とその下につけたのはなぜだろう。
道であるよ、道。つまり理想を追求しているわけで、高みがあるわけで、先の先があるわけで。
先っぽの方へずーっと進んで名人になると、たまに「神業」とか「生まれ変わり」とか
言われるようになる。
人の「私事」を捨てきったところに降りてくるように、顕われる形。その瞬間を待って
歳月を惜しみなく費やすのである。
そしてそのうち、待っていることも忘れてしまう頃にほんとうの月が見えてくる。
明恵上人は闇の中に月の光ありと語っている。(闇夜のほうが美しいと)

歌もなにも、神仏と切り離せないのであるよ、俗っぽい世界に生きていればこその理想。
すべての事象のなかに心を見いだす、その心を照らすものがなければ、自己完結で
言い換えると自己満足なんだから塵である。
理想もなけりゃ、この塵溜の世間にどうして息していられるかってことざんす。

そこいくと、現代人のリソウ、低くなってなんでも買えると思ってるんだからバカらしいなあ。
山ん中で月みていると、高山寺で月観ていた明恵上人を思い出したとこでした。
塵にも五分の魂。


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