若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

外国人参政権推進派の国民観・国籍観

2010年02月10日 | 政治
日本国憲法には
「選挙権は日本国民固有の権利」
というルールが書いてある。一方で
「国民の定義は法律で規定する」
というルールも書いてある。
通常は
「国民の定義を定める法律とは国籍法であり、日本国民とは国籍法に定める日本国籍保持者のことだ」
と読むのが一般的な理解だ。

そして、外国人参政権に反対する者の多くは
「選挙権は日本国民固有の権利だから、外国籍の者に付与することは憲法違反だ」
という主張を展開する。


他方、外国人参政権推進派の中には、次のような主張をする者もいる。

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 外国人に参政権を与える法的根拠
15条は公務員を選定する権利が国民固有と規定するが、10条で国民の定義は(別途に)法律で規定するとしており、どの法律で規定するかを憲法内で規定していない。現在の下位法である国籍法との結びつきの必然性を「検討」して、新しい別の法律で国民を再定義するアプローチがあります。
これについて、「憲法前文、1条に照らせば、憲法の国民主権の「国民」は、日本国民すなわち我が国の国籍を有するものを意味することは明らかだ」という考え方があります。
しかし憲法の中に明白な記述が無い以上、国民の定義は、集団的自衛権における憲法解釈と同様に、小泉元首相の郵政民営化解散のような国民的合意があれば、政治的に解釈の変更を行う事が可能であろうと考えます。


「憲法には『国民の定義は法律で定める』と書いてあるが、『国民の定義は国籍法で定める』とは書いていない。国籍法である必要はない。だから、別の法律で選挙権における国民の要件を再定義して何が悪い?国籍法とは別の法律で『選挙権行使における国民とは、日本国籍保持者及び永住外国人とする』と定めれば良いのだ。」

・・・という主張である。
この部分を見る限り、解釈としてはとりあえず成り立つ。

ただ、永住外国人を「国民」に含めるように解釈すると、新たな問題が出てくる。選挙権が国民固有の権利として奪うことができないものとされているのに、その前提たる「国民」が永住許可における政府の裁量で左右されるようになるのだ。

外国人の日本での滞在は、あくまでも行政が発する許可に基づく。許可には条件が付きものだ。その条件としては、
「犯罪を犯さないこと」
「更新手続きを定期的に行うこと」
「身分証を必ず携帯すること」
「再入国手続き無しに出国すれば永住許可は失効する」
等が考えられる。そして、定められた条件に反した場合、永住許可を失って国外退去処分や再入国の拒否となる。退去先は当然ながら国籍国となるし、国籍国はその者の入国を拒むことはできない。

どのような思想信条を持っていようとも、国民固有の権利たる選挙権を国民から奪うことはできない。しかし、永住外国人に対しては、立法・行政の裁量を用いることによって永住許可を取り消すことができる。推進派の主張のように永住外国人を「国民」に含めてしまうと、政府の裁量で「国民」に含まれていた者が「国民」でなくなるということが起きる。結果として選挙権を奪うことができてしまう。

永住許可を取り消すのと比べて、国籍を剥奪して国外退去させるのははるかに難しい。二重国籍であればともかく、単一国籍の者から国籍を剥奪するのは無国籍を防止する国際法上の原則に抵触するし、国外退去させるにも退去先がない。国籍を剥奪して無国籍者を作り出し、他国に押し付けてみたところで、他国はその者を受け入れる義務がない。

このように、永住許可に比べて国籍は国際法の関係もあって法的安定性が高い。永住許可に関する事項にはその国の立法府の自由裁量が大きく認められているのに対し、国籍は国際法上の縛りがあって永住許可よりも安定している。国民の要件としては、政府の裁量がはたらく余地のより少ない方を採用すべきである。


さて。

引き続き、外国人参政権推進派の国籍観を見てみよう。

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 外国人に参政権を与える法的根拠
始めに民(人民)があり、民が集まって国ができると考えます。民主主義の本質とは、そういうものではないでしょうか。次に、政府とは何かを考えます。民が集まって代表を選び、その代表者が集まって行政を行う組織を政府と考えます。政府の基本ルールとなるのが、日本国憲法です。ゆえに、どこで生まれた民であれ、日本という場所を好み、そこに永住したいと願う民が、自分の生活を向上させる為に、あるいは生活の向上に積極的に参加したいと願う民を、国籍という後付の規範によって排除する事は間違いであり、国民の定義を憲法や法律に求めるのは、本末転倒と考えています。

 「まず国民があって、次に国家が存在する」
→「国家が後付の規範で国民の要件を定めるのは本末転倒」
→「そこに滞在する者が国民であり、国籍の有無は関係ない」

この理屈で行くと、合法か違法かを問わず、滞在期間も問わず、その時点でそこに滞在する全ての人をその国の国民であるとみなさなければならないことになる。なぜならば、滞在が合法か違法かを分ける法律、国民であるために一定の滞在期間を要求する法律というのは、後付の規範であるのだから。

そうすると・・・

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 永住外国人の地方参政権付与に賛成する
私は永住外国人に地方参政権を付与すべきであると考えています。但し、私の意見は、以下に述べる条件を前提とします。
まず、永住外国人の定義を変更します。現在の定義は、wikiではこのような説明となっています。これを以下のように変更します。すまわち、「日本国に、合法かつ適正な滞在許可(ビザ)を連続して保持しながら、国内に居住している期間が累計で7年間に達している外国人」です。


この考え方は、国家の定めた後付の規範で一定の外国人を「国民」として扱い、そうでない外国人を「国民」から排除するものだ。このブログ主自身の価値観で言えば「間違い」ということになるはずだ。永住許可や滞在許可は、後付の規範という意味では国籍と変わらないし、政府の裁量の余地が大きい永住許可・滞在許可の方が後付の規範という色合いが濃い。

なぜ国籍を基準とせず、より政府の裁量の余地が大きい永住許可・滞在許可を基準としようとするのか。始まりは、ごくごく単純な誤解にある。

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 国籍の意味と選挙権
「参政権がほしければ、帰化すれば良い」という意見もありました。私は、国籍というのは、その人の心の中における文化(民族)のルーツを表すものであり、その人の出自だと思います。在日韓国人は、生まれた時から日本にいても、心の中の出自が韓国民族なのであれば、それはそのままで良いではありませんか。そういう人に「帰化」を迫るという事は、あたかも宗教おいて改宗を迫るようなものです。「参政権がほしければ、帰化すれば良い」というのは、いわば帰化を「踏み絵」に利用しようとする、大変レベルの低い議論です。

日本国籍を持つ者の中には、大和民族もいるだろうし、アイヌ民族もいるだろう。ラテン系の者もいるだろうし、朝鮮民族もいるだろう。国籍は多様な文化的背景を持った民族を包摂するものだ。ある国の国籍を持っているということと、特定の民族的出自とは結び付かない。在日韓国人が日本国籍を取得したら韓国系日本国民となるだけで、民族的出自には何ら影響しない。

「国籍とはその人の文化・民族のルーツを表すもの」というのは、個人的な思い込みに過ぎない。このような考え方では多民族国家を正しく理解することはできない。国籍とは「個人と国家との間の法的紐帯」と定義される法制度だ。国籍という法的なものと、出自という文化的なものとは全くの別物だ。

外国人参政権を認めようという議論は、国籍と民族的出自の混同という単純な誤解から出発して議論を組み立てているからおかしくなるのだ。
コメント
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