若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

白河の清きに魚の棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき

2011年04月18日 | 政治
被災者に配慮して、いろんな行事が中止、延期になっている。卒業式、入学式、退職者の送別会、新人の歓迎会、コンサートやスポーツ大会、お花見などを自粛しよう、という風潮がある。

しかし、こうした世間の流れに賛同はできない。自粛したところで何になるというのか?

行事の中止理由が、
「気持ちが沈んで、お祭りをする気分にならない。」
であれば、いくらか理解できる。しかし、
「被災地に悪いのではないか」
「近隣も中止してるから」
等、そういったことであれば中止する必要なかろうと思う。中止したところで、被災地に何か良い影響が出るわけではない。義援金を募るためのいい機会と捉えれば、イベントも決して悪いものではない。それに、娯楽がなければ息が詰まってしまう。

被災地以外では、出来るだけ今までと同じような生活を過ごし、余裕が生じた中で、義援金や支援物資を送ろうという気持ちのある人が送るべきだ。復興までまだまだ時間がかかる。短距離走ではない。無理は続かない。

「あれも自粛しよう、これも中止しよう。」
という風潮は、
「これをしたら不謹慎と非難されるかもしれないから、全部中止しておくのが無難だろう」
という萎縮へとすぐに変化する。これは怖いことだ。

個人の自由な経済活動こそが、復興の原資を生み出す。食料、建築資材、募金するためのポケットマネー等、復興に必要なものは全て市場で生み出される。市場における自由な活動にとって、萎縮は大きな脅威だ。萎縮からは何も生まれない。市場における個人が萎縮してしまっては、復興のための原資も、失業した被災者を新たに雇用する場も生まれない。

「ライバルの原料メーカーが被災して、生産がストップした。わが社にとって、今はチャンス!少々値を上げても、売れるはずだ。増産して荒稼ぎするぞ!」
という山師的な業者の商魂が、(この思惑を公言して良いかどうかは、別の話になるが)復興のためのエンジンとなる。「不謹慎だ、自粛しろ」という声は、何も生み出さない。


また、上記のような「自粛しよう」という風潮に並行して、「団結しよう」という風潮も広まっている。被災者への支援を全国民が一丸となって行うため、党派的な対立を乗り越え、思想的な批判を抑えて団結しようというものだ。

この意見には、ものすごい違和感を覚える。

会社や自衛隊、消防団、○○省、スポーツチームといった組織や団体は、共通の目的の下、統一して動く。組織のトップが「一丸となって団結し、この難局を乗り越えよう」と旗を振るのは当然。上意下達は組織のルールだ。しかし、日本国民というのは組織ではない。決して、1つのチームではない。共通した目的を持っているわけではない。

「被災地復興は、日本国民全員の共通した願いだろう!」

と怒る人がいるかもしれない。しかし、一口に地震の被害といっても、原発から30km以内の人、津波で家が流された人、家はあるが崩れかけている人、避難所にまだ食料や燃料・医薬品が十分に届かない人、離島で支援を待つ人、自宅にいるが停電や断水が続く人、計画停電の地域にいる人、液状化現象で家が傾いた人、船が流され生計を立てる手段を失った人など、必要とする支援の質・量は様々だ。

望ましい支援の仕方、対象、順序は、人によって色々な考えがあるだろう。Aに支援をすることで、Bへの支援が後回しになってしまうこともあるだろう。団結を訴え、支援・配分方法を決めた政府への批判が抑制されると、後回しにされたBの不満は募るばかり。下手をすれば、忘れられ、取り残されてしまうかもしれない。

規模や緊急性の差こそあれ、政府による支援・復興事業というものは、政府が普段やっている利害調整や資源の再配分そのものだ。批判を控える必要は全くない。団結を訴えることで、少数者の声がかき消されてしまうことを、私は心配する。

また、企業やボランティア団体といった民間部門が入っていけるところは、出来るだけ民間に任せた方が良いという点についても、普段と同じだ。優先度を付け、順序を決めて配分するという作業は、小回りのきかない中央政府には向いていない。団結の規模が大きくなればなるほど、小回りはきかなくなり、軌道修正は難しくなろう。

復興のために全国民の団結を訴える空気の醸成は、どさくさに紛れて
「被災地支援のため消費税率アップ!復興税の導入を!党派を超えて成立を!」
いったことにもなりかねない。いや、なりつつある。
自粛、団結を訴える風潮は、復興・支援を大義名分として政府が打ち出す施策への批判を押さえ込んでしまう。

被災地の復興を戦後復興に重ね合わせて語る人がいるが、自粛・団結を訴える風潮が行き過ぎると、戦後復興を通り越して、戦前の
「欲しがりません勝つまでは」
「ムダヅカヒ セズ コクサイヲ カヒマセウ」
な全体主義を呼び覚ましてしまうのではなかろうか。

代議制の趣旨が、そのまま代議制の限界

2011年04月18日 | 政治
○福岡県 行橋市長選挙
★2010年2月28日
当16,825 八並康一(70)市長・再選=無現
 16,746 田中純(63)貿易会社社長=無新
★2006年3月5日
当17,804 八並康一(66)市長・再選=無現=自民・民主・公明・社民推薦
 14,215 田中純(59)貿易会社社長=無新
★2002年3月3日
当17,153 八並康一(62)前市助役=無新
 16,369 田中純(55)貿易会社社長=無新
  4,182 豊瀬尉(52)前市議会議長=無新
★1998年3月1日
当18,693 柏木武美(66)市長・3選=無現=自民・民主・社民推薦
 16,206 田中純(51)貿易会社社長=無新
★1994年2月27日
当18,725柏木武美(62)市長・再選=無現=社会・新生・民社・さきがけ・自民支部推薦
 17,248 田中純(47)貿易会社社長=無新
★1990年3月18日
当13、026 柏木武美(58)生コンクリート会社会長=無新
 11、162 田中純(43)元大蔵事務官=無新
 11、119 白石健次郎(64)元福岡県評議長=無新=社会推薦
★1988年6月5日
当10、886 堀助男(72)市長・4選=無現
  7、723 進弘旨郎(47)会社員=無新
  6、490 田中純(41)元大蔵事務官=無新
  5、532 倉石春政(65)前市議=無新
  5、365 高橋忠隆(67)前市議=無新

※過去の選挙結果については、
ザ・選挙/行橋市長選挙(福岡県) 各党相乗りの現職に出馬7度目の元大蔵官僚が挑む
 からデータを拝借。


見よ、この華麗な履歴を。
1988年から行橋市長選に連続で出馬しては落選し続けた男。
田中純、である。

そんな人が、今回は福岡県議会議員選挙に打って出た。

結果は・・・



★2011年4月10日 福岡県議会議員選挙 行橋市選挙区
当14,332 田中純(64)会社役員=無新
 11,835 岡田博利(63)保険代理業=無現



七転び八起き、落選王の汚名返上である。



さて。

日本は、間接民主制・代議制を採用している。その理由を大雑把に言うと
「国民が全ての政治的問題に関心があるわけではないし、全ての問題を考え議論する時間も能力もないし、そもそも全国民が集まって議論をする場を設けることは物理的に不可能。だから、代表者を選出し、彼らに政治的問題を考えさせ、議論させよう。」
というものだ。

このことは同時に、代議制の限界を示している。

人は、生計を維持することにリソースのほとんどを割かれる。
米農家は田の水あてや稲の生育に、自分が持つ関心・時間・能力の多くを注ぐであろう。
工場長は部品の調達や出荷状況・製品の売れ行きに意識が向くであろう。
こうした生計維持と並行して、親の病気や子供の進学といった、プライベートなあれこれにも気を配らなければならない。

そんな中で、選挙の為に候補者の政策・思想・活動・議案への賛否・来歴などを調べて比べるというのは、無理に近い。そんなことをする時間も能力もない。

まさに
「デモクラシーというものは、腐敗した少数の権力者を任命する代わりに、無能な多数者が選挙によって無能な人を選出すること(バーナード・ショー)」
である。

それなりに政治に関心があって、ビラや集会・親戚の話など地元情報も入る環境にあり、職場はそういう情報が飛び交い、暇さえあればパソコンに張り付いてる私でも、今回の田中純・岡田博利の両者の政策の違いはよく分からなかった。現職について、過去の議案への賛否を調べることもできなかった。

今回、福岡県議会議員選挙と同時に実施された福岡県知事選挙に至っては、もはや候補者の名前すら思い出せないという体たらく。

間接民主制では、正確な情報に基づいて能力のある人を選び出すのは難しい。
間接民主制の効用は
「何かの拍子で現職が落選してしまうことがあり、このことで独裁を防ぐことができる」
という1点しかない。
教科書で語られる民主制の歴史的意義というのは、どうも誇張され過ぎている。(普通選挙制に至っては、貧者による無責任な略奪でしかないというのに。)

選ぶ側に時間的・能力的な余裕はない。能力のある人が選ばれるとは限らない。能力のない者にお金や権限を預けてはいけない。だから、政治の世界、代議士の世界で決められてしまう事柄は、極力少ない方が良い。

自由主義と社会主義の分水嶺を考える

2011年04月18日 | 政治
リバタリアンに
「日銀に貨幣の独占発行権を認め続けるべきか?」
「電力会社の地域独占を認め続けるべきか?」
と尋ねたら、口を揃えて「No!!」と答えるだろう。

貨幣発行にしろ電力供給にしろ、いつかは政府の規制を廃して自由化を進めていかなければいけない。これは、多くのリバタリアンに共通した認識である(はず)。

ところが、
「直ちに規制や特権を撤廃して、完全に自由化するのは難しい」
と、現状をやむなく追認した上で
「今年は、日銀にどんな施策を採らせるべきか?」
「明日、どのような方法で東電に電力を配分させるのが良いか?」
と尋ねると、途端に意見が分かれる。

自衛隊違憲論者に宛てて
「自衛隊が違憲だとして、現にある自衛隊をいかにコントロールするのか?」
と質問した場合に似ている。
「そもそも、そんな組織は存在してはならない」
という本来の思想的立場が、
「存在する組織をいかにコントロールして使っていくか」
という問いに噛み合わないのだ。首尾一貫した回答を出しようがない。


「政府機関や、政府に特権を与えられた団体を、(現状では廃止が難しいので)いかに民主制の過程を通じてコントロールし、経済や電力供給の問題を解決するか?」


あなたなら、どう答える?


特権が認められたままでは、デフレも電力不足も解決しないだろう。インタゲも国債引受も金本位制も、計画停電も電力税も電気料値上げも、政府によって作られた特権を(渋々ながら)前提としている。このままでは不均衡は是正されないだろう。あちらを立てればこちらが立たず、を延々と繰り返すことになる。

私は、解決策を知らない。ただ、政府機関や、政府に特権を認められた団体は、大きな裁量を持っている。この裁量権を制限出来れば、弊害はいくらか減るであろう、と漠然と考えている。

日銀は目標の独立性と手段の独立性を与えられている。
東京電力は停電の計画を立てることができ、しかも当日に撤回できる。
政府が作り出した大きな裁量権を前にして、個人は為す術がない。日銀の場当たり的な為替介入、東電の無計画な計画停電、これらに個人は振り回されるだけで、そこから逃れる術はない。こうした特権的組織の裁量を制限できれば、いくらかは振り回される幅が小さくなるのではないか、という消極的な回答しか今の私には思いつかない。

政府によって作られた特別な介入・管理・独占権をいつかは廃止すべきと考えるのが、自由主義者。この特権を将来にわたって存続・拡張・強化させるべきと考えるのが、社会主義者。特権を将来的にどうすべきと考えるかが、自由主義者と社会主義者を分ける基準の1つとなるだろう。

現行の特権を(渋々であれ)前提とした上で、日銀や東電が今日とるべき手段を考えるのは、その人の主義・思想とはあまり関係ない。
「日銀の持つ特権を認め続けるのは社会主義的政策である」
なら納得いくが、その特権を認め続けるか否かの議論無しの
デフレ放置は究極の社会主義的政策である
という主張には、理がない。単なるレッテル貼りだ。