被災者に配慮して、いろんな行事が中止、延期になっている。卒業式、入学式、退職者の送別会、新人の歓迎会、コンサートやスポーツ大会、お花見などを自粛しよう、という風潮がある。
しかし、こうした世間の流れに賛同はできない。自粛したところで何になるというのか?
行事の中止理由が、
「気持ちが沈んで、お祭りをする気分にならない。」
であれば、いくらか理解できる。しかし、
「被災地に悪いのではないか」
「近隣も中止してるから」
等、そういったことであれば中止する必要なかろうと思う。中止したところで、被災地に何か良い影響が出るわけではない。義援金を募るためのいい機会と捉えれば、イベントも決して悪いものではない。それに、娯楽がなければ息が詰まってしまう。
被災地以外では、出来るだけ今までと同じような生活を過ごし、余裕が生じた中で、義援金や支援物資を送ろうという気持ちのある人が送るべきだ。復興までまだまだ時間がかかる。短距離走ではない。無理は続かない。
「あれも自粛しよう、これも中止しよう。」
という風潮は、
「これをしたら不謹慎と非難されるかもしれないから、全部中止しておくのが無難だろう」
という萎縮へとすぐに変化する。これは怖いことだ。
個人の自由な経済活動こそが、復興の原資を生み出す。食料、建築資材、募金するためのポケットマネー等、復興に必要なものは全て市場で生み出される。市場における自由な活動にとって、萎縮は大きな脅威だ。萎縮からは何も生まれない。市場における個人が萎縮してしまっては、復興のための原資も、失業した被災者を新たに雇用する場も生まれない。
「ライバルの原料メーカーが被災して、生産がストップした。わが社にとって、今はチャンス!少々値を上げても、売れるはずだ。増産して荒稼ぎするぞ!」
という山師的な業者の商魂が、(この思惑を公言して良いかどうかは、別の話になるが)復興のためのエンジンとなる。「不謹慎だ、自粛しろ」という声は、何も生み出さない。
また、上記のような「自粛しよう」という風潮に並行して、「団結しよう」という風潮も広まっている。被災者への支援を全国民が一丸となって行うため、党派的な対立を乗り越え、思想的な批判を抑えて団結しようというものだ。
この意見には、ものすごい違和感を覚える。
会社や自衛隊、消防団、○○省、スポーツチームといった組織や団体は、共通の目的の下、統一して動く。組織のトップが「一丸となって団結し、この難局を乗り越えよう」と旗を振るのは当然。上意下達は組織のルールだ。しかし、日本国民というのは組織ではない。決して、1つのチームではない。共通した目的を持っているわけではない。
「被災地復興は、日本国民全員の共通した願いだろう!」
と怒る人がいるかもしれない。しかし、一口に地震の被害といっても、原発から30km以内の人、津波で家が流された人、家はあるが崩れかけている人、避難所にまだ食料や燃料・医薬品が十分に届かない人、離島で支援を待つ人、自宅にいるが停電や断水が続く人、計画停電の地域にいる人、液状化現象で家が傾いた人、船が流され生計を立てる手段を失った人など、必要とする支援の質・量は様々だ。
望ましい支援の仕方、対象、順序は、人によって色々な考えがあるだろう。Aに支援をすることで、Bへの支援が後回しになってしまうこともあるだろう。団結を訴え、支援・配分方法を決めた政府への批判が抑制されると、後回しにされたBの不満は募るばかり。下手をすれば、忘れられ、取り残されてしまうかもしれない。
規模や緊急性の差こそあれ、政府による支援・復興事業というものは、政府が普段やっている利害調整や資源の再配分そのものだ。批判を控える必要は全くない。団結を訴えることで、少数者の声がかき消されてしまうことを、私は心配する。
また、企業やボランティア団体といった民間部門が入っていけるところは、出来るだけ民間に任せた方が良いという点についても、普段と同じだ。優先度を付け、順序を決めて配分するという作業は、小回りのきかない中央政府には向いていない。団結の規模が大きくなればなるほど、小回りはきかなくなり、軌道修正は難しくなろう。
復興のために全国民の団結を訴える空気の醸成は、どさくさに紛れて
「被災地支援のため消費税率アップ!復興税の導入を!党派を超えて成立を!」
いったことにもなりかねない。いや、なりつつある。
自粛、団結を訴える風潮は、復興・支援を大義名分として政府が打ち出す施策への批判を押さえ込んでしまう。
被災地の復興を戦後復興に重ね合わせて語る人がいるが、自粛・団結を訴える風潮が行き過ぎると、戦後復興を通り越して、戦前の
「欲しがりません勝つまでは」
「ムダヅカヒ セズ コクサイヲ カヒマセウ」
な全体主義を呼び覚ましてしまうのではなかろうか。
しかし、こうした世間の流れに賛同はできない。自粛したところで何になるというのか?
行事の中止理由が、
「気持ちが沈んで、お祭りをする気分にならない。」
であれば、いくらか理解できる。しかし、
「被災地に悪いのではないか」
「近隣も中止してるから」
等、そういったことであれば中止する必要なかろうと思う。中止したところで、被災地に何か良い影響が出るわけではない。義援金を募るためのいい機会と捉えれば、イベントも決して悪いものではない。それに、娯楽がなければ息が詰まってしまう。
被災地以外では、出来るだけ今までと同じような生活を過ごし、余裕が生じた中で、義援金や支援物資を送ろうという気持ちのある人が送るべきだ。復興までまだまだ時間がかかる。短距離走ではない。無理は続かない。
「あれも自粛しよう、これも中止しよう。」
という風潮は、
「これをしたら不謹慎と非難されるかもしれないから、全部中止しておくのが無難だろう」
という萎縮へとすぐに変化する。これは怖いことだ。
個人の自由な経済活動こそが、復興の原資を生み出す。食料、建築資材、募金するためのポケットマネー等、復興に必要なものは全て市場で生み出される。市場における自由な活動にとって、萎縮は大きな脅威だ。萎縮からは何も生まれない。市場における個人が萎縮してしまっては、復興のための原資も、失業した被災者を新たに雇用する場も生まれない。
「ライバルの原料メーカーが被災して、生産がストップした。わが社にとって、今はチャンス!少々値を上げても、売れるはずだ。増産して荒稼ぎするぞ!」
という山師的な業者の商魂が、(この思惑を公言して良いかどうかは、別の話になるが)復興のためのエンジンとなる。「不謹慎だ、自粛しろ」という声は、何も生み出さない。
また、上記のような「自粛しよう」という風潮に並行して、「団結しよう」という風潮も広まっている。被災者への支援を全国民が一丸となって行うため、党派的な対立を乗り越え、思想的な批判を抑えて団結しようというものだ。
この意見には、ものすごい違和感を覚える。
会社や自衛隊、消防団、○○省、スポーツチームといった組織や団体は、共通の目的の下、統一して動く。組織のトップが「一丸となって団結し、この難局を乗り越えよう」と旗を振るのは当然。上意下達は組織のルールだ。しかし、日本国民というのは組織ではない。決して、1つのチームではない。共通した目的を持っているわけではない。
「被災地復興は、日本国民全員の共通した願いだろう!」
と怒る人がいるかもしれない。しかし、一口に地震の被害といっても、原発から30km以内の人、津波で家が流された人、家はあるが崩れかけている人、避難所にまだ食料や燃料・医薬品が十分に届かない人、離島で支援を待つ人、自宅にいるが停電や断水が続く人、計画停電の地域にいる人、液状化現象で家が傾いた人、船が流され生計を立てる手段を失った人など、必要とする支援の質・量は様々だ。
望ましい支援の仕方、対象、順序は、人によって色々な考えがあるだろう。Aに支援をすることで、Bへの支援が後回しになってしまうこともあるだろう。団結を訴え、支援・配分方法を決めた政府への批判が抑制されると、後回しにされたBの不満は募るばかり。下手をすれば、忘れられ、取り残されてしまうかもしれない。
規模や緊急性の差こそあれ、政府による支援・復興事業というものは、政府が普段やっている利害調整や資源の再配分そのものだ。批判を控える必要は全くない。団結を訴えることで、少数者の声がかき消されてしまうことを、私は心配する。
また、企業やボランティア団体といった民間部門が入っていけるところは、出来るだけ民間に任せた方が良いという点についても、普段と同じだ。優先度を付け、順序を決めて配分するという作業は、小回りのきかない中央政府には向いていない。団結の規模が大きくなればなるほど、小回りはきかなくなり、軌道修正は難しくなろう。
復興のために全国民の団結を訴える空気の醸成は、どさくさに紛れて
「被災地支援のため消費税率アップ!復興税の導入を!党派を超えて成立を!」
いったことにもなりかねない。いや、なりつつある。
自粛、団結を訴える風潮は、復興・支援を大義名分として政府が打ち出す施策への批判を押さえ込んでしまう。
被災地の復興を戦後復興に重ね合わせて語る人がいるが、自粛・団結を訴える風潮が行き過ぎると、戦後復興を通り越して、戦前の
「欲しがりません勝つまでは」
「ムダヅカヒ セズ コクサイヲ カヒマセウ」
な全体主義を呼び覚ましてしまうのではなかろうか。