一家言 公務員の裁量と責任 『地方行政』2014年02月03日 第10454号
=====【引用ここから】=====
一方、近年ストリート・レベル・ビューロクラシー論が盛んに論じられている。この議論は警察官、福祉関係職員などの現場の公務員は、法令、首長の指示に忠実に従うべきで、自らの裁量で判断してはいけないのが建前であるが、具体的な現場では、弾力的な裁量的判断が要求されるという主張である。
~~~(中略)~~~
こうしたことは、現場の公務員に限らず、専門的知識が不可欠になっている現代行政一般にも言えることである。複雑化し情報が錯綜する行政の第一線では、担当者の裁量的判断が求められる。政治家が政策を決定し、公務員が忠実に実行するという建前は通用しないのである。
選挙された政治家の政策決定・政策実施責任と、公務員の裁量権の関係を整理することは大変難しい。ただ今後の方向性としては、公務員は法令あるいは政治家の指示を忠実に実行するだけという「観念的な政治主導」の建前をやめ、公務員には一定の裁量権の行使とそれに伴う責任があることを制度論として明確にすべきではないだろうか。許された裁量とはどのようなものか、どう行使すべきかをそれぞれの職場で十分に議論し研修させることが必要であろう。
行政の現実から遊離した抽象的な建前論は、結果的に「責任の真空地帯」を生じさせかねない。政治、行政責任が曖昧となっている今日、決定した人が責任を持つという当たり前のことを再度確認すべきであろう。(葦)
=====【引用ここまで】=====
なんだろう、この既視感。
裁量権の必要性については、具体的場面を例示して
「担当者の裁量的判断が求められる」
と強く主張する一方で、責任については、何ら具体的な責任のあり方が提示されていない。結びに「決定した人が責任を持つという当たり前のことを再度確認すべき」とは言っているが、じゃあその責任の中身はどういったものなのかと記事を読み返してみても何も書いてないのだ。「(裁量権を)どう行使すべきかをそれぞれの職場で十分に議論し研修させることが必要」なのではない。裁量権行使に伴いどのような責任が発生するかを明示することが必要なのである。
この論理展開は、自治労や日教組の主張によく見かけたパターンである。
「公共サービスや公教育の質の維持、向上を図るため、現場における権限の強化と賃金向上が必要である」と主張する一方、裁量権行使の結果に伴うべき責任のあり方は論じない。人事考課や勤務評定に反対し、制度の問題点は指摘するが、具体的な対案は出さない。こうした構造と、上記の記事はよく似ているように思える。
また、公務員が積極的に裁量を行使して住民生活の向上を図れという主張は、過去に私が批判してきた「スーパー公務員」論でも見受けられたものである。
○続・反「スーパー公務員」論 ~ 役に立ちたいなら起業せよ ~ - 若年寄の遺言
○反「スーパー公務員」論 - 若年寄の遺言
「杓子定規ではいけない」「現場の職員が裁量権を駆使して積極的に問題解決を図れ」
こうした主張に沿って成果を上げた「スーパー公務員」が賞賛される一方で、住民を振り回し、箱物の維持費を積み上げただけの「向こう見ずな公務員」は、何もお咎めを受けずに異動していくのがほとんど。「スーパー公務員」と「向こう見ずな公務員」は紙一重である。こうした「裁量権を積極的に行使しろ」という主張が先行し、責任論が並走しないから、「責任の真空地帯」を生み出しているのだ。
ちなみに、古代中国の鯀(こん)という人物は、主人から治水工事を命ぜられて9年間かけて事業を行ったが失敗した。その結果、追放され、処刑されてしまった。権限行使には責任が伴う。大きな権限を持つ者には大きな責任が伴う。当たり前の姿である。権限行使の結果の功罪を計ることが必要である。これが会計である。功罪を計るための具体的提言が無いまま、現場の公務員に裁量権行使を求めるのは極めて無責任な主張である。
また、裁量権の行使を称揚することで、憲法上の「法の下の平等」のうち、最も基本的で重要な「法適用の平等」が歪められてしまう。裁量権と言えば聞こえが良いが、本質は「場当たり的判断」ということだ。きめ細かな行政を希望するということは、その場その場の判断、現場担当者の気分一つで受給権の有無や受給金額が左右される状況を甘受しなければならないのだが、果たしてそれで良いのだろうか。
行政が全ての住民の幸福を保障することはできない。できないことを無理にしようとするから、どこかにしわ寄せがいく。行政に実現不可能な「住民全ての幸福」を求め、これを実現するための権限を行政に持たせたことで、裁量権を有する職員に振り回され、あるいはそこに癒着・汚職が生じるのである。
行政は杓子定規である。行政は法律や条例で決められたことを決められた通りにしか執行しない。住民は、これを当たり前のことと理解し、行政の杓子定規ではどうにもならないことは自分達でどうにかする。この姿勢に立てば、現場の職員にアンバランスな裁量権を求める必要はない。あれも行政、これも行政で処理して欲しいという住民の思いが、結果として住民の負担になるのである。あれも行政、これも行政で処理して欲しいという住民の思いに応えることは出来ないのに、応えようと無理をするから、行政は肥大化し行き詰るのである。
ルールを事前に作り、これに沿って処理をする。処理方法を変えるのであれば、その場その場でルールを曲げるのではなく、所定の手続きに則ってルールを変更する。ルールを変えて良いのは、責任を持った者だけである。
『ヒューマン・アクション』L.v.ミーゼス著 村田稔雄訳 342頁
======【引用ここから】======
もし公務員たちの最高の長(それが主権者である国民であろうと、至上権をもつ独裁者であろうと問題でない)が、公務員たちに自由裁量を許すとすれば、彼らのために自己の至上権を放棄することになるであろう。これらの公務員は、無責任な役人となり、その権力は国民ないし独裁者の権力を上回り、彼らの長が要望していることではなく、自己の好きなことをするであろう。このような結果を防ぎ、公務員たちを長の意思に従わせるためには、あらゆる点について業務処理を定めた詳細な指示を与えておく必要がある。それによって、公務員は、これらの規則を厳守して、すべての業務を扱うことが義務となる。具体的問題のもっとも適切な解決と思われる方法へ、行為を適応させる自由は、これらの規則によって制限される。彼らは官僚、すなわち、あらゆる場面に所定の非弾力的な規則を守らなければならない人々である。
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一方、近年ストリート・レベル・ビューロクラシー論が盛んに論じられている。この議論は警察官、福祉関係職員などの現場の公務員は、法令、首長の指示に忠実に従うべきで、自らの裁量で判断してはいけないのが建前であるが、具体的な現場では、弾力的な裁量的判断が要求されるという主張である。
~~~(中略)~~~
こうしたことは、現場の公務員に限らず、専門的知識が不可欠になっている現代行政一般にも言えることである。複雑化し情報が錯綜する行政の第一線では、担当者の裁量的判断が求められる。政治家が政策を決定し、公務員が忠実に実行するという建前は通用しないのである。
選挙された政治家の政策決定・政策実施責任と、公務員の裁量権の関係を整理することは大変難しい。ただ今後の方向性としては、公務員は法令あるいは政治家の指示を忠実に実行するだけという「観念的な政治主導」の建前をやめ、公務員には一定の裁量権の行使とそれに伴う責任があることを制度論として明確にすべきではないだろうか。許された裁量とはどのようなものか、どう行使すべきかをそれぞれの職場で十分に議論し研修させることが必要であろう。
行政の現実から遊離した抽象的な建前論は、結果的に「責任の真空地帯」を生じさせかねない。政治、行政責任が曖昧となっている今日、決定した人が責任を持つという当たり前のことを再度確認すべきであろう。(葦)
=====【引用ここまで】=====
なんだろう、この既視感。
裁量権の必要性については、具体的場面を例示して
「担当者の裁量的判断が求められる」
と強く主張する一方で、責任については、何ら具体的な責任のあり方が提示されていない。結びに「決定した人が責任を持つという当たり前のことを再度確認すべき」とは言っているが、じゃあその責任の中身はどういったものなのかと記事を読み返してみても何も書いてないのだ。「(裁量権を)どう行使すべきかをそれぞれの職場で十分に議論し研修させることが必要」なのではない。裁量権行使に伴いどのような責任が発生するかを明示することが必要なのである。
この論理展開は、自治労や日教組の主張によく見かけたパターンである。
「公共サービスや公教育の質の維持、向上を図るため、現場における権限の強化と賃金向上が必要である」と主張する一方、裁量権行使の結果に伴うべき責任のあり方は論じない。人事考課や勤務評定に反対し、制度の問題点は指摘するが、具体的な対案は出さない。こうした構造と、上記の記事はよく似ているように思える。
また、公務員が積極的に裁量を行使して住民生活の向上を図れという主張は、過去に私が批判してきた「スーパー公務員」論でも見受けられたものである。
○続・反「スーパー公務員」論 ~ 役に立ちたいなら起業せよ ~ - 若年寄の遺言
○反「スーパー公務員」論 - 若年寄の遺言
「杓子定規ではいけない」「現場の職員が裁量権を駆使して積極的に問題解決を図れ」
こうした主張に沿って成果を上げた「スーパー公務員」が賞賛される一方で、住民を振り回し、箱物の維持費を積み上げただけの「向こう見ずな公務員」は、何もお咎めを受けずに異動していくのがほとんど。「スーパー公務員」と「向こう見ずな公務員」は紙一重である。こうした「裁量権を積極的に行使しろ」という主張が先行し、責任論が並走しないから、「責任の真空地帯」を生み出しているのだ。
ちなみに、古代中国の鯀(こん)という人物は、主人から治水工事を命ぜられて9年間かけて事業を行ったが失敗した。その結果、追放され、処刑されてしまった。権限行使には責任が伴う。大きな権限を持つ者には大きな責任が伴う。当たり前の姿である。権限行使の結果の功罪を計ることが必要である。これが会計である。功罪を計るための具体的提言が無いまま、現場の公務員に裁量権行使を求めるのは極めて無責任な主張である。
また、裁量権の行使を称揚することで、憲法上の「法の下の平等」のうち、最も基本的で重要な「法適用の平等」が歪められてしまう。裁量権と言えば聞こえが良いが、本質は「場当たり的判断」ということだ。きめ細かな行政を希望するということは、その場その場の判断、現場担当者の気分一つで受給権の有無や受給金額が左右される状況を甘受しなければならないのだが、果たしてそれで良いのだろうか。
行政が全ての住民の幸福を保障することはできない。できないことを無理にしようとするから、どこかにしわ寄せがいく。行政に実現不可能な「住民全ての幸福」を求め、これを実現するための権限を行政に持たせたことで、裁量権を有する職員に振り回され、あるいはそこに癒着・汚職が生じるのである。
行政は杓子定規である。行政は法律や条例で決められたことを決められた通りにしか執行しない。住民は、これを当たり前のことと理解し、行政の杓子定規ではどうにもならないことは自分達でどうにかする。この姿勢に立てば、現場の職員にアンバランスな裁量権を求める必要はない。あれも行政、これも行政で処理して欲しいという住民の思いが、結果として住民の負担になるのである。あれも行政、これも行政で処理して欲しいという住民の思いに応えることは出来ないのに、応えようと無理をするから、行政は肥大化し行き詰るのである。
ルールを事前に作り、これに沿って処理をする。処理方法を変えるのであれば、その場その場でルールを曲げるのではなく、所定の手続きに則ってルールを変更する。ルールを変えて良いのは、責任を持った者だけである。
『ヒューマン・アクション』L.v.ミーゼス著 村田稔雄訳 342頁
======【引用ここから】======
もし公務員たちの最高の長(それが主権者である国民であろうと、至上権をもつ独裁者であろうと問題でない)が、公務員たちに自由裁量を許すとすれば、彼らのために自己の至上権を放棄することになるであろう。これらの公務員は、無責任な役人となり、その権力は国民ないし独裁者の権力を上回り、彼らの長が要望していることではなく、自己の好きなことをするであろう。このような結果を防ぎ、公務員たちを長の意思に従わせるためには、あらゆる点について業務処理を定めた詳細な指示を与えておく必要がある。それによって、公務員は、これらの規則を厳守して、すべての業務を扱うことが義務となる。具体的問題のもっとも適切な解決と思われる方法へ、行為を適応させる自由は、これらの規則によって制限される。彼らは官僚、すなわち、あらゆる場面に所定の非弾力的な規則を守らなければならない人々である。
======【引用ここまで】======