Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

シドナム(Sydenham )・カーパークのアートギャラリー

2024-11-10 01:42:44 | 日記

今日11月9日土曜日、娘の隣町のショッピングモールのカーパークでアートイクスビションがあるとのことで、みんなで行った。

広大な此のカーパークは此の日のために車は一台もいず、アートというのはカーパークの壁すべてにえがかれた以前ならグラフィティ(落書き)と呼ぶもの。

今ではいっぱしの芸術作品になっていて、例えばかの有名なバンクシーのグラフィティなど何百万ポンドで売り買いされている。ここのレンガの壁に描かれたものは盗めないと思うけど、壁や板などに描かれたものは盗難にあっている。

レンガの壁に描かれているが、その手前の柱にまで描かれているのがおもしろい。

現代抽象画そのもの。色合いが良くて好きな作品。

日本のアニメの影響大。

昔こんな男性の漫画なかったけ?

ゴッホの絵にカラスが乱舞しているのがありましたねぇ。

面白い帽子を被った鳥たち、お花は何でしょう?

ロシアのプーチンに似ているような?

大きな壁一面に描かれた電車の外側にグラフィティ、全くポルトガルの田舎電車やローマ郊外の電車を彷彿とさせる。

これはあまりにも雰囲気が異なって、まるで子どものおとぎ話の挿絵みたい。

素晴らしい絵、まるで写真みたい、それで影がすごい。

上2枚は続き絵。

最初3枚のカーパークの様子でも判るように、此の絵は巨大な壁全体に描かれていて、これぞプロのグラフィティ・アーティストだと思った。何度見てもすばらしい。

彫刻を白黒の写真で撮したような出来栄え。

漫画でもうまいものですね。

グッチの好きな日本人の女の子。

此のアイディアがすごい。

この絵は、此のイクスビッションの宣伝広告に出された絵で、大きな壁一面に描かれた漫画だという。

ピッザの一切れを引っ張っているネズミ、ピッザのチーズがこぼれてながーく尾を引いているのが残念ながらみせられない。

近寄ってみるとよくぞこれだけ細かく描いたものと感心する。

アイルランド・ダブリンのホッケープレヤー?

柱の隅っこに描かれた小さな絵、スケートボードの男の子

私には意味不明の漫画

結構面白い、色彩がいい。

漫画。でも上手に描いている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロンドンの11月

2024-11-08 05:37:58 | 日記

スヴォルバーから帰ってきて以来、青空を見ていない。毎日がどんよりと暗く、雨はふらないが日中でも電気をつけないと本が読めない。

これも10月27日に夏時間が終わり1時間時計を遅らせる冬時間になって以来、午後3-4時で夕方になる。

 

11月1日ジムの帰りにいつものポストアートギャラリーを通ったら、新しい飾りが出来ていた。これは11月に毎年ロンドンのホワイトホール前で、王室が勢揃いして行われるメモリアルサービスの一つで、リメンバランス・デイと呼ばれる戦没者の慰霊祭で、此の日は真っ赤なポピーの花飾りが記念碑に飾られる。

第一次大戦の戦場となったフランスからベルギーの野原や農地に、戦後一面の真っ赤なポピーが咲き、それ以来真っ赤なポピーの花を売るのが毎年の恒例になっている。

それで此のポストの上には当時のなくなった兵隊たちが被っていた戦闘帽とポピーの鮮やかな赤いポピーが飾られた。今も図書館は今も工事中で何時開館なのか見当もつかない。

我が家から歩いて10分以内の街路樹にまだ若い銀杏の木がある。通りがかりにあまりにきれいな黄色の中にまだ薄緑も混じっていて、思わず写真を撮りだしたらその木の植わっている前の家から、老婦人が出てきて、 素敵な木でしょう? 私はこれをMy Treeと呼んでいるのよ。 と可愛くて仕方ないように言った。これは中国原産だけど、日本には大木がいっぱい有って秋は此の並木道がすばらしい  とお互いに自慢しあい。

ショッピングに行く途中のお庭に此のすばらしい色の菊の花が咲いていた。毎日うっとおしい曇り空でここだけ、目が覚めるような色合い、思わず写真を撮った。

先週日曜日、オペラハウスでマチネーが3時からとチケットをよく見ないで出かけていった。オペラハウスの隣には此の観光客いっぱいのコヴェントガーデンがあり、もうクリスマスデコレーションが華やかにかざられている。

年々ここのデコレーションも大胆になっているような気がする。

横の小さな出店で此のきれいな電気のかさが売られていて、つい写真を撮った。

ほしいけど我が家でこれを飾るところはないだろう。残念。おまけにオペラは来週日曜日のマチネーだった。

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スヴォルバー(Svalbard) 帰国

2024-10-31 21:39:38 | 旅行

私とパトリックが帰国したあと、残った娘とジュードが訪れた Global Seed Vault (種子保存機関)2人の博士がここを管理しており、中には誰も入ることが出来ない。

ここは1984年ノルウエーの農産物の種を冷凍保存するために作られた場所で、過去の炭鉱跡を利用して、永久保存していてノルウエー遺伝子バンクが管理している。

2001年国際協定により、食料と農業に関する種子の遺伝子を保存するための機関として、カナダやグリーンランドにも設立された。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

6日目の朝まだ暗い9時、夜中に雪が降ったため外は真っ白になっていた。

ホテルの裏にまた新しいホテルを建設中らしい。早朝8時から仕事開始。

ホテル前の衣類とお土産の店。未だ開いていない。

裏山はきれいに雪化粧

飛行機は2時半発、バスが12時15分に迎えに来るから、みんなで初雪の中を歩き回った。

此の上の山は雪崩予防の為の作られた柵。

フィヨルドの向こうの山も完全に雪化粧。あと8日後にはマイナス10度になるとの予報。

此の街の2本のメインロードを外れると、寂しい道路になる。

12時15分バスは時間通りに来て、街を一廻りして、客を乗せたあと、

街から10KMの空港へ向かった。

SAS (スカンジナヴィア航空)は一日2便、空港のランウエーは一本だけ。

飛行機が飛び立って数分後、スヴォルバーの街が見えた。 娘に写真とメールを送りあなた達が歩いているところが見えたよ と書いたら、Really?(ほんとに?)と返事が来た。

早朝7時の便はオスロまで一直線に飛ぶが、午後2時半の便は北極圏内では一番大きな都市、トロムソに降りて2時間後にオスローに向かう。

此のトロムソは2013年の北欧キャンパー旅行のとき行ったことがあるが、特に忘れられないのが此の街の地下にはトンネルが縦横に走り、地下にラウンドアバウトがあること。これが見たくてトンネルの入口を探して右往左往して、人にきいたところ どこに行くのか と聞かれて いやーラウンドアバウトを見に と答えて変な人達と思われただろうと、二人で笑ったことが思い出された。

トロムソまでの乗客は空いていて、私は3人がけの椅子に一人で座っていたが、、ここからオスローまでは満席になった。

オスローで2時間のトランジットの飛行機が1時間遅れて、ヒースロー空港に着いたのは10時半過ぎ、荷物を引き取って空港を出たのは11時過ぎ、パトリックの会社の運転手が迎えに来ていて、我が家まで送ってくれた。家に付いたのが12時15分m、スヴォルバーのホテルから我が家まで12時間かかった。実際飛行時間は少ないけれどあちこちで待つ時間が多すぎ、夜中の2時半までかかって写真をダウンロードした。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スヴォルバー(Svalbard)5日目

2024-10-30 00:04:07 | 旅行

水曜日此の日はローカルガイドに連れられて、郊外のツンドラウオーキングに行った。朝9時に車に乗って途中でスペインのバルセローナからのカップルを拾った。

此の日は小雨の降る暗くて寒い日で、特に感激することもなかったけれど、私達が地球温暖化の片棒をかずいているのかを考えさせられた。

此の湿地帯は凍っていて、ガイドは一人ひとりにアイゼンを渡して、氷の上もすべらず歩けた。

途中の木箱のなかにガンが設置されていて、これは白熊が出たときのための用心にとツアーの人たちに警鐘するためなのだそう。ノルウエー人のガイドはリュックにライフルを背負っていた。

夏には此の凍った土地にもワタスゲが生える。

此の写真は2007年ノルウエー北部で撮したもの。

これはツンドラ内の夏と冬の水の測定のため設置されていて、グリーンランドとカナダの北部にも同じものが設置されているとのこと。雨が多いのは夏よりも冬のほうだとのことで、夏に水が少ないとツンドラ内の植物が育たなくて、生態系に異常が出る。

わずかに生えていたグリーンのモス。これはレインディア(カモシカ)の食料になるものだろう。

此の写真は2007年ノルウエーの最北端で撮したもので、岩にしがみついて咲いている、ここでも夏には花が咲くらしく絵葉書が売られていた。

写真がボケてしまったが、叢に小さなきのこが生えていた。

風が冷たく寒い日で、完全武装のジュード。

ただ一軒だけ建っていた小屋でお茶をいただいた。小屋の外にはイヌソリまたはスノーモビルが引くそりが有った。

結構大きな小屋で、周りのベンチに沢山のカモシカの毛皮が置いてあり、中で眠れるようになっていた。

此の地図は19世紀に作られたもので、北極を回ってアジアへ行こうとした人たちが氷に閉ざされて動けなくなり、氷の圧力で壊れた船の材料を使って、今ここに座っているような小屋を作って一冬過ごしたそうだ。スヴォルバーは赤丸で囲んだ。

此の島にはレインディアーはいなかったが、戦後1000頭くらいをノルウエーから移住させた。それで今では25000頭くらいに増えているそうだ。レインディアは赤みの肉で脂肪が少ないため、冬眠前の白くまは多くのレインディアを殺さないと太れないとのこと。

上2枚の写真は2007年のノルウエー北部のもの、レインディアも蚊がアタックするのが嫌で森から道路に出てくる。それで交通渋滞が起きる。夏は毛皮が変わるときで、汚く見える。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スヴォルバー(Svalbard)4日目

2024-10-29 02:49:23 | 独り言

今日はこの旅のハイライト、娘が一番行きたがっていた氷河を見るツアーに参加した。

朝8時15分、ホテルの近くにバスが来て乗せてくれたらもう殆ど満員だった。町外れの港で、カトマランの観光船が待っていた。中は3階に別れていて、どこでも座って良し。船酔いする私と娘はバスに乗る直前に酔い止め薬を飲んだ。

 

上の地図でご覧になれば判ると思うが、真ん中の下の赤い点が私達の港、ここもフィヨルドの一つでここから左上に向かって船は進む。どこもフィヨルドだから波は静かでほとんど鏡のような水面を進んでいく。

まだ8時半過ぎ、街は夜明けも来ていない。

東の山の向こうに朝日が上るのかやや明るくなってきた。

私が此の島を知ったのは、今から数年前、日本で大学教授をしていたイギリス人の友達が、此の島を訪れすばらしい山の写真を送ってくれた。それで写真を撮りにに行きたいものだと思っていたところで、娘がホリデーに行くという。すべてをおんぶにだっこで一切のプランもせずに付いて行って、此の島が世界の気候変動に要の研究場所であることを知った。

上の地図の左下、ピラミデン(Pyramiden )はロシアの炭鉱町だった。1910年スエーデンがここを開発し1927年ロシアに売却、一時は人口1000人にも上る街として栄え、学校や温室まで有ったという。

 

日本の炭鉱も1900年末期には閉鎖されたがここでも石炭の価格が下落したことや、飛行機事故などで多くの人命を失ったことで1998年炭鉱閉鎖、此の街はゴーストタウンになった。

ピラミデンの東側に広大な氷河がある。観光フェリーはその近くまで行ったが、もちろん上陸はできない。ここの氷河も一体いつまで残るものやら。科学者たちが大いに研究課題にしているであろう。

氷河近くの海は氷が張って時々大きな氷が流れてくる。今はまだ気温0度だけれどマイナス20℃位になったら此のフィヨルドにフェリーがはいってこれるだろうか?

船の進むに従って壊れた小さな氷が海水の表面の氷の上を滑っていく面白い現象をみた。

船のデッキですばらしい氷河と山々の写真を取りまくり、全身凍りついた。

お昼にパンと温かいスープが供され、寒さにかじんだ手を温めていかに空腹だったことかを知った。ディケンㇲのオリバーのように Can I have More? と言えたらどんなに良かったかと笑いあった。

夕方4時近く港へ帰ってきたら、クルーズシップが停まっていた。パトリックによればクルーズシップが一番環境を破壊する。地球温暖化を促進するという。

 

此の写真は2007年ノルウエーのブリックスダルの氷河で氷の中が神秘的なブルーだった。そして2013年の夏にも同じ氷河を見に行ったら、氷河は後退して高い崖の上に細々と遭ってものすごくがっかりした。もう今では氷河があるかどうかも判らない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スヴォルバー(Svalbard) 3日目

2024-10-27 20:29:40 | 旅行

昨夜ホテルの斜め向かいにあるトラベル・インフォメーションで犬ぞりの予約をしてきた。此のインフォメーション・ センターも玄関で靴を脱いで、皮のスリッパが置いてあって履き替えなければならない。

朝9時ホテルの近くに車が迎えに来て、犬たちが居る郊外まで連れて行ってくれた。

9時では朝焼けが少しだけ出ているが、あたり一面はまだ夜明けには1時間はありそう。

街の至る所にスノーモービルが並んで雪が降るのを待っている。

遠くから明かりがこうこうとついているところが見え、近寄ってここが犬ぞりの場所だと知った。

ハスキー犬でもいろいろな色の犬が居ると初めて知った。ここでは147匹の犬を飼っている。今の時期観光客は少なくて此の犬たちに出番はあまりないが、クリスマス時期が一番忙しいそうだ。

雪がない此の時期はイヌソリならぬ犬カートで8匹の犬が此のカートを引っ張る。道路は泥だらけでぬかるみが多く、わたしたち全員が帽子からつなぎの服、靴、手袋まで全部着替えさせられた。

まずは犬との交流をというわけで、抱きついてくる犬は泥だらけ、服を替えてよかった。

カートに8匹の犬を繋いでいるときの他の犬たちが姦しい。皆ヤキモチなのかものすごい大合唱で吠えまくり、最後は全部が遠吠え。

走っているときには泥ハネが多くてカメラもだせない。後ろからついてくるパトリックが御者のカートを停車した時に写せた。

帰り道もひどい泥ハネで、犬たちが泥水にまみれて、まるでハイエナみたいに汚れた毛皮で見るも悲惨。それで小屋の前に付いた時に彼らを洗ってあげるのかときいたら、そのまま小屋に入れておくのだそう。そのうちに雪が降り出すと犬たちは雪の上で寝転んで毛の掃除をするそうだ。ここでは全身を震わせて水をはじくだけ。

着替えをする前に案内人のアダムが子犬の居る犬小屋へ連れて行ってくれた。

 

一つの小屋はまだ生まれたばかりで小屋から出てこない。4匹生まれたそうで、あと2匹の妊婦はまだ生まれていなかった。

着替えして、手や顔を洗って置いてあるのはおしぼりサイズのタオル。ここでは紙で手を拭くとゴミが公害になる。レストランなどのトイレでもタオルが置いてあった。

それにしても上下水道が完備していなければ、北極からして公害にまみれる。本当ならば飛行機もクルーズシップも地球温暖化の原因になるだろう。

そして此の島は今後ますます観光客が押し寄せてくる。

私が知らなかっただけでなく、此の島を知っている人たちはあまりいないと思う。

昨夜から読み出した児童文学の黄金の羅針盤 ライラの冒険 フィリップ・ブルマン著ではオックスフォードの大学研究者と11歳の女の子ライラの冒険ファンタジーで、この本でもスバールバルと翻訳された此の島がでてくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スヴォルバー(Svalbard) 2日目

2024-10-27 03:05:54 | 旅行

日曜日の朝、私は残っていた2個のおにぎりをおかゆにして食べた。娘たちはインスタントラーメンを持ってきていたのでそれを食べたという。

この街には大きなスーパーマーケットがあるが日曜日は午後の3時からしか開かない。

朝日が登るのは10時半とかだが街の周囲は高い山になっているから太陽が見えないだけで、9時過ぎるとあたりは明るくなってくる。

街は緩やかな坂道になっていて、フィヨルドの海辺の方の下り坂にウルトラモダンな博物館が有った。ここでもまず最初にコートを脱いでハンガーに掛け、靴も脱いで棚に置き、リュックはロッカーに入れて鍵を掛ける。

この街でいちばん大事なものがこのスノーモービル、これが旧式なものかは判らなかった。

上の写真はクジラの背骨。

 

スヴォルバーは氷河で切り刻まれた小島の集まりで、この島はグリーンランドから別れてできたものだそうな。大西洋から英国とアイルランドの横を通ってノルウエーから北に流れる海流は北極海に注ぐ。此の海流は暖流でロンドンは北海道と緯度がほとんど同じだが北海道ほどに寒くはならない。

ここスヴォルバーも北極に近いながらも、此の日の気温は0度。ものすごく寒いと思って厚着をしていったら、汗で下着がびしょびしょになった。

夏にはあらゆる海鳥がここで繁殖する。

此の島で昔からいる生き物はポーラベア(白熊)で戦後の乱獲でその数は激減し、今では保護動物になっている。此の街にも冬には1-2頭が餌を求めて現れ、警察が麻酔銃で捕獲して山へ離すそうだ。

昨今のクジラ捕獲反対が大きく叫ばれているが、ノルウエーはクジラを食べる。これらはクジラの厚い脂肪層で、私も子供の頃は大いに食べたことがある。ベジタリアンのジュードとヴィガンの娘は此の写真を見ただけで、嫌がっていた。

ここはミュージアムのお土産コーナー、ノルウエーはすべてが高い。

此のスヴォルバーは北極点に行き着く最後の寄着地である。此の島は少しづつ動いているという。

現地の人たちの家屋で、炭鉱夫たちは1970年ごろから、タイランドへ行って、花嫁をもらってきたので、タイ人やインドネシア人たちが多いらしい。でも数日の滞在ではあまり見かけなかった。

 

博物館を出たあと、コーヒーショップへ行った。ここももちろん玄関で靴を脱いで入らねばならぬ。ハスキーが2匹いて大人しくとってもきれいな犬だ。

スポーツ店には冬服コートのたぐいと、ピストル、ガンが売られている。これらは現地の人たちが山や海辺で働く時に、白熊の襲撃に備えるためらしい。

此の巨大なスーパーマーケットはあらゆる品がノルウエー本土から輸送されてくる。したがってほとんど全部が値段が高い。

スーパーの入口のガン禁止のマーク

ノルウエーはヨーロッパ中でも一番豊かな国で、生活水準も高く、物価が高いのも頷ける。ここのスーパーの品物を見て回って本当にそれを実感した。

今昼は此のレストランで昼食を、私とパトリックはビーフバーガーとチップス。娘たちはサラダとチップス。本当にヴィガンには食べるものがない。

此の写真は私とパトリックが帰国したあと、金曜日にジュードと娘は日曜早朝まで居るとのことで、世界で一番北方の寿司ショップで食べたと報告してきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スヴォルバー(Svalbard) へ

2024-10-26 06:41:25 | 旅行

10月19日土曜日の朝、娘一家と私は6時起床、7時にはパトリックの会社の契約の運転手が迎えに来た。パトリックはオーストリア出張で昨夜10時に帰宅したばかり。

早朝のロンドン市内はまだ睡眠中か道路が空いていて、バタシーブリッジもすいすい通り過ぎたのに、あとヒースロー空港に1.4マイルというところでものすごい渋滞に遭って、10時半の飛行機に間に合うだろうか心配になった。

いくつかの赤信号とラウンドアバウトが近くて車がほとんど前進しない。それでも運転手のマークは慣れたもの、慌てず騒がず、9時過ぎヒースロー空港着。

無事10時半に飛行機はオスローへ向けて離陸した。私達バラバラに飛行機の予約をしていたから娘とジュードは一緒、私は3人がけの真ん中に両側知らない人ばかり。パトリックもどこか離れて座ったよう。

オスローの空港内はがらんとしていて、スヴォルバーへは私達だけかとおもったが。 昨夜作ってバックに入れてきたおにぎり10個、朝食に2個食べ、娘はご飯に混ぜた野菜ふりかけには魚の匂いがするから食べないという。孫のジュードもいつもは大喜びのくせにいらないという。

結局オスローの空港で、パトリックと私が昼食におにぎり2個づつ食べて残りは持っていくことに。娘とジュードは空港内のお店でなにか買って食べていたらしい。ノルウエーは物価高、特に空港内はTAXフリーだって外界より高いのに。

オスローからスヴォルバーまで3時間、飛行機は100人近く乗客がいた。私は全然下調べもしないでいったから、そんな北極に近い島に行きたい人がどれだけいるだろうと思っていたので割と多い乗客に驚いた。

過去2回ノルウエーをキャンパーで周り、ノルウエー最北端のノールキャップの近くの村は20戸くらいの寂しい漁村だった。こんな寒いところでどうやって生活していけるのだろうと思っていたから、スヴォルバーも貧しい小さな村くらいにしか思っても見なかった。

オスロー4時発、スヴォルバー夕方7時着。空港内ではポーラベア(白熊)がお出迎え。気温はマイナス1度、道路は凍っている。小さな空港の外に大きなバスが2台止まっていた。

ホテルの名前を行ったらあのバスに乗りなさいと英語で言ってくれた。

バスの中では先に出た人たちで一杯、私達4人別々に座ったが、バスの運転手が荷物を積み終わったあと乗車料金はクレジットカードで払うとのこと。この旅一度も現金のノルウエー・クローナーを払うことがなかった。

スヴォルバーホテルのレセプションはレストラン続きの一階で入口で靴を脱がなければならない。おまけに私達が予約したところは2-3軒離れたワインバーの2階でクッキングができる。

玄関の入ったところで靴を脱ぎ、皆ソックスかスリッパ(持ってきた人は)で2階に上がる。娘一家も私も2ベッドルームに広いリビングキチンと、大きなきれいなバスルーム。

部屋は暖房が効いてて暑いくらい。何しろ寒い国だからと厚着をしてズボン下まで履いているくらいだから。自宅ではベッドルームに暖房は一切せず、この暑さでは眠れない。とうとう窓を開けて寝ることにした。

この街はもともと炭鉱夫のために作られたもので、今でこそ観光が主になりつつあるが、立派な大学が有って科学者や環境研究者がここで地球の自然を研究している。

ここは学生寮、さすが雪道でも自転車で走っている。今のところ必要ないがいたるところにスノーモービルが駐車してある。そして目に付く車の殆どが日本車なのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう10月も半ば過ぎ

2024-10-16 22:10:23 | 日記

2月初めから週3回ベッケンナムのスポーツクラブで、ジムに通っている。ランニングマシーンで早歩き10-15分、ウオーキングマシーンで10分、ローイングマシーンで10分、腕のマシーン各種、40-50分やって帰宅、そして朝食。

このジムに2月ごろには若い黒人男女で、異様な肥満体が来ていたが、途中から女性の方がいなくなった。男性は週2回は目につくが、あまりに太り過ぎで一人で歩けない。両腕に杖を付いてやっとゆっくり動いている。私より以前から来ているらしいのに、一向に痩せないし歩くのも早くならない。それでも上半身の機械を主にがんばっている。

今まででただ一回だけとっても驚くことが有った。10台ほど並んでいるランニングマシーンに大きな黒人男性が走っていた。その彼の周辺が汗でびしょびしょに濡れていて気持ち悪いったらない。多分1時間位は走っていたらしく、私が30分以上で他のマシーンを触っている時にやっと終わった。遠く離れていたからあとの掃除をしっかりしたかは判らなかったけど、あのマシーンの近くには近寄りたくないと思った。

このジムの隣が図書館で、毎週水曜日午後から編みものクラブが集まっていたが、9月から図書館は改築のため閉まっている。それで9月に最終で見かけたノアの箱舟依来もうないと思ってたら、

 

10月初めからこんなかわいいメルヘン調の編み物作品が展示されている。皆さんどこで集まって編んでいるのかわからない。

ここを通って帰るのが楽しみで、次が待たれる。

 

裏庭のクッキング・アップルに今年始めて、マグパイ(尾長)がたくさんやってきてりんごをつつくようになった。小さいのは目につかないのか大きいのばっかり狙って穴を開ける。それで全部取ってしまいお隣に上げたりクッキングして冷凍したり忙しい。

英国では毎年10月過ぎると、年金者には冬季燃料費としてエキストラのお金が支給される。ポールが生きている頃は2020年まで一人100ポンド二人で200ポンドが支給されていた。一人で住んでいる人は200ポンドだった。それで2020年の冬には私も200ポンドが支給された。そして2022年10月には500ポンド(約10万円)がもらえるようになった。昨年も同じ、ところが今年の選挙で労働党になって、この燃料費は廃止になった。国の年金だけで暮らしている人たちでは、この燃料費はありがたいだろう。一定以下の収入しかない年金者にはなにかの助けがあるらしい。

私が今一番心配しているのが、無料の交通費(フリーダムパスと言う)、電車、バス、朝9時半以降は全額無料、地下鉄もヒースロー空港までは無料だからありがたい。ところがこのチケットが来年3月31日で切れる。労働党がどれだけ節約するかによってこの無料チケットがなくなるかもしれない。英国の交通費はヨーロッパでも一番高いと言われている。これが有料になったら年金者で一体どれだけの人たちが出歩かなくなるか?すると病気の人達が増えNHS を圧迫するようになる。

ところで来週1週間は英国中の学校が休暇に入る。それで娘一家が今季旅行に行くことにしたのがノルウエーの北の島スヴォルバー(Svolvaer)、ここはノルウエーの北端と北極点を結ぶ中間点にある。私も同行することにした。平均気温マイナス5度。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大英博物館のシルクロード展

2024-10-07 01:13:57 | 日記

土曜日の朝11時にこの博物館で友達と会う約束、もうすでにたくさんの人達が来ていて、特に中国人の団体が多くなってきている感じがした。

もう何10回もここには来ているのに博物館玄関の上を見たことがなかった。

ギリシャのパンテノンをモデルにしているのだろうか?

まだ1週間を過ぎたばかり、会場はたくさんの英国人で、彼らは展示品の前の説明文を見逃しまいとしているのか、動かない。私は隙間を見つけると割り込んで説明文と展示品をスマホで撮して次のところへ。あの様子では皆数時間をこの博物館で費やすのだろう。

まず最初の説明文が、奈良。紀元後710年から84年の平城京の説明。

中国、韓国を経て仏教が日本に到着した。

日本人ならではおなじみの掛け軸、説明文など誰も動かず見えなかった。

韓国の金の首飾りと勾玉。紀元300年から500年間の韓国皇室シーラ(Silla)の墳墓から発掘された。

韓国皇室シーラの墳墓から発掘されたもの。

 

中国タン(Tang)(AD 618-907)は当時世界1の規模を誇る国で、人口百万人に達し、地中海沿岸からの輸入品やアート、ファッション、音楽、やあらゆる物品が輸入され、外国の宗教も許容された。

タンの国は当時国際色豊かであらゆる人種がいた。この陶器の人物像はヨーロッパ人、旅商人、そして黒人奴隷は南方商人から売買されたものであろう。

 

1900年中国ダンハン(Dunhuang)から7万巻に上る経典、や絵画、布地などが発見された。私はこれこそ井上靖が書いた敦煌に違いないと思っている。モゴア(Mogoa)岩窟寺での発掘で、発見物の殆どは大英博物館に保存された。

上5枚の壁画はサマルカンドの貴族の館から見つかったもので紀元660年頃といわれている。絵には韓国人の姿が描かれている。全体の壁画には中国人やインド人も見られる。

この絵は上の壁画を元にして復元を試みたもの。壁の青は高価なラピス(Lapis)を粉にしてぬってある。

この室内の壁画は紀元79年火山灰により埋められたポンペイの屋敷内の壁画によく似ている。

これはアフガニスタンのバーミヤン仏像で、1500年ほど前に彫られたもので、ユネスコに登録されていたが、2001年タリバンによって破壊された。

イスラム(回教)がアフガニスタンまで広がるまでは仏教がアジア全体に信じられていた。

これ以降細々したものが多く、英国に影響を及ぼした芸術や手工芸品まで数限りない展示品が有ったが、1時間半でつかれきって出てしまった。

博物館の入口は塀の外まで長い行列。皆がシルクロードを見に行くわけはないが,早く行って良かった。来年2月までやっているからまたゆっくり来てみたい。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋のロンドン

2024-10-05 04:46:02 | 日記

9月16日から22日までインディアン・サマーというのか久しぶりに晴れた。その土曜日、娘がロンドンでヴィーガン寿司を食べに行くから来ないかとのお誘い。

ロンドンオックスフォード・ストリートの近く、レストランはグルーっとお店に囲まれた中庭で、きいたことも見たこともないような変わったところ。

いかにもマグロの刺身みたいなのも魚でないとなったら一体何で出来ているものやら。全部で80個の寿司と飲み物2杯で100ポンド(約2万円)最近のイギリスのレストランの値段としては格安と娘夫婦もジュードも大喜び。寿司に目のないジュードなど大人と同じだけ食べる。ヴィーガン寿司と言っても何が違うかわからないし結構美味しかった。これも日本の寿司を食べたことがない私たちだからかもしれない。

ストリートの鉄柵に飾られたお花が素敵、このあたり高級住宅地らしい。

土曜日のメイフェアーはたくさんの人、特に入ったメルカート・メイフェアは昔の教会の中をフードコートの様にしてあって、あらゆる食べ物のお店が有って、私達はここでアイスクリームだけ買って外に出て食べた。

お天気が良くてヴィクトリア駅まで歩こうと決めた。

レンガの建物も素敵だけれど、此の水のオブジェが面白い。

 

こんな飾りも街の真ん中に有った。

グリーンパークはバッキンガム宮殿の後ろで、此の日天気が良いからあちこちで日向ぼっこの人たちが楽しんでいた。

 

この夕帰宅したら大きな箱が届いていた。娘の学校の若い先生で、奥さんが日本人。オーストラリアに移民するので日本の本を捨てられないと困っていたらしい。娘が私の母ならと言ったので、こんな重い本を郵便で送ってきた。

彼らは翌日日曜日にオーストラリアへ向かったとのこと。若くて前途悠々羨ましい。

それ以来スティーブン・キングの本から読み始めて、毎日が忙しい。

裏庭のクッキング・アップルがたくさんなって、大きな林檎が落ちてくるからとうとうクッキングすることにした。

りんごは皮をむいて細かく切って、鍋いっぱいを水も入れず弱火でゆっくり煮る。

するとりんごが溶けてかさも少し減ってくる。

砂糖と干しブドウやカラントを入れて

出来上がり。甘酸っぱい食後のデザートになるが、アップルパイの中身にしてもいい。

 

窓辺においたサボテンに毎朝大きく蜘蛛の巣が張って、その巣を取るのも気持ち悪い。とうとう蜘蛛を退治する(殺すのではない)というスプレーを買った。

前庭に出してサボテンの間をしっかりとスプレーしたところ、真っ黒の大きな蜘蛛が怒り狂って出てきた。棒でつついたら庭の隅の排水口へ逃げていった。

それ以来この窓辺には蜘蛛の巣はなく毎日ながめて、あの蜘蛛は今頃どうしているだろうかと気にはしている。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

輪島の洪水

2024-09-22 20:28:57 | 思い出

昨日から奥能登での大雨と洪水のニュースが絶え間なくながれている。お正月の地震に引き続き、こうまで天は人間に苦難を押し付けるのだろうか。

私が小学校6年生(1955年)で、輪島へ流れ込む河原田川の上流に住んでいたとき、やっぱり未曾有の大洪水が発生した。

父は河原田駐在所の警察官で、兄は2歳上の中学2年生。弟は小学4年生。河原田川は幅広い山間の平野の真ん中を流れ、夏の間中、村の子供達が集まって泳いだり魚とりに夢中になる幅10メーター未満の優しい川だった。

ある日前日から降り続いた激しい雨で、川の両側の畑や田圃はどんどん浸水し始め、私達が学校へ行く途中の川渕はあと20センチくらいで道路に水が溢れそうだった。

河原田小学校は此の川がうねって流れる河原に建てられた木造平屋の学校で各学年1クラスづつだったのを覚えているが、下級生は戦後の団塊世代、クラスも増えていたのかもしれない。

登校して授業が始まる前に体育館に緊急集合とのことで全員集まった頃には水は体育館の下を激しく流れ込んでいた。村の消防団員が駆けつけ山と学校に綱を張り私たち一人一人を背負って、山道に連れていってくれた。

家の近くの子供達がひとかたまりになって、それぞれの自宅方面の山道をたどったが、あちこち山から流れる支流が激流のため橋が流されて、自分達の在所へたどり着けない。此のときは鉄橋も流されて、電車も不通。

午後山から切り出した材木2本でやっと簡単な橋を作って我が家へたどり着けた。

帰ってみると父は風邪が悪化して高熱を出して寝ていて、こんな大事に役にたたない。家の左脇に高さ3-4メーターくらいの小さな滝?のような流れが有ったが、此のときは水は激しく落下し、我が家の床下に流れ込んでくる。

母は長靴と父の雨合羽で床への流れを止めるべく、大きな石を運んだり大活躍していた。私は玄関に出て家の前の道路下から谷間の向こうの村までが広大な川になって巨木が流れていくのをあれよあれよと見ていると、父が頭のタオルがぬるくなったと怒る。

学校から各自家へ帰る頃には雨はやんでいたが、山に降った水が満杯で川もどこも耐えきれなかったようだ。此の河原田村は学校が完全に流されたのと、村の田畑は土ごと流されてしまっただけで、各自の住宅地には被害がなかったが、川下の輪島の街は大洪水。

街の真ん中を流れる川で輪島の街は海まで平野に出来た街だった。

此の日の午後父の解熱剤をもらいに兄は鉄道の線路を伝って輪島の医者まで往復したが、20数年前、兄にその時のことをきいても覚えていなかった。

輪島の街がどのようにして復興したか、まだ自分の身の回りしか興味のなかった私は全然覚えていない。

今回の2重災害、みんなが頑張って早く復興してほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パーキンソン病 チャリティウオーク

2024-09-15 05:20:13 | 日記

今日9月14日は最近では珍しく1日中太陽が出て、雨が一度も降らなかった。気温はあまり高くなく日中温度が20度くらい、チャリティウオークにはうってつけの日和だった。

パトリックの一番下の弟はまだ45,6歳で今春パーキンソンと診断された。今日はパーキンソン病の原因解明と治癒を目的とするParkinson'sUK の研究費用募金のチャリティウオークで、彼らの両親は北アイルランドからやってきて参加。

日頃疎遠のパトリックのお姉さんもやってきて、以前ジョギング中に転んで腰を痛めた父親と一緒に6マイル(9.6KM)を歩いた。

 

今朝9時過ぎの電車でヴィクトリア駅に行き、電車乗り換えて、バタシーパーク(Battersea Park)の駅で下車。バタシーパークは200エーカのヴィクトリア時代に作られた公園で、道の両側に延々と続く巨大なプラタナスの並木がすばらしい。

天気が良い日の公園は散歩する人やジョギングする人達で活気があり、大きな池の縁ではアヒルに餌をやっている子供も楽しんでいる。

此の日の参加者は1000人近く、ほとんどの人たちが近親者や友人にパーキンソンを患った人たちがいる(らしい?)というのは歩いている人たちの背中やリュックにおじいさん、父親、おばあさん、友達など張り紙がしてあって。彼らが誰のために歩いているかがわかる。

出発前に皆集まって準備体操、

距離は1.5マイル(2.4km)と6マイル(9.6KM)があり、子ども連れや足の弱い人は1.5マイルを、私はもちろん6マイルを選んだ。

 こんな小さな子供も元気に歩いている。1.5マイルは公園内を2周り?

6マイルは公園を1周したあとテームズ川の川縁を橋下3橋通り抜けて、ワンズワース・ブリッジ(Wandsworth Bridge)で橋をわたって川向うの高級住宅地、チェルシーを通り抜けて、アルバート・ブリッジ(Albert Bridge)から公園へ戻るというもの。

川の両側は新しいビルが立ち並び、全く外国へ来たみたい。

途中にパーキンソン病の症状についての張り紙がしてあった。

川縁では向かって歩いてくるグループもほとんどがチャリティウオークの人たちで、心臓病のチャリテイ‐、癲癇(Epilepcy Society) 灯台(Light house)のチャリティーなど多分10種類くらい違うチャリテーの人たちに会った。

ここはワンズワース橋の上から来た方向を撮したもの。

此のビルの下の川縁を歩いて来たが、川の反対に来て初めてその偉大さ、奇妙さがわかる。まるでメカノを組立てたみたい。

川縁にこんな子どもの遊び場、此の男の子は一人で遊んでいた。

川向うの新しいフラットらしい、こんなに新しいフラットや住宅がどんどん建っていても、此の国は住宅難であえいでいる。

このあたりチェルシーの高級住宅地。

ウルトラモダンなフラットの横に古そうな教会。

巨大な工場を改築して高級フラットにでもするらしい。

道端で道案内の二人、I love your hat (貴女の帽子が素敵よ)と言ってくれ ティシャツとマッチするでしょ? 

此のアルバート・ブリッジを渡るとすぐバタシーパークが見えている。

約2時間で6マイルを歩いてきた。此の日のために私の近隣コミュニテイにスポンサーを呼びかけ、4人の人たちと日本人の友だち一人がスポンサーをしてくれた。(トータル70ポンド)

パトリックの弟は自分が患っている身ながら美人の奥さんと二人の小さな娘の4人で6マイルを完歩して10、000ポンド(2百万円)のお金を集めた。今日の最高金額だった。彼とすればなんとかして完治したい一心だろう。パトリックのお金持ちの友達がたくさんスポンサーしてくれたらしい。

午後3時パトリックの家に集まった11人は、私の娘が行かないでクッキングしてくれたおかげで、夕方までのんびり昼夜兼の食事で楽しんだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月の我が家

2024-09-10 19:53:57 | 日記

今日久しぶりに2駅向こうのジムへ行ってきた。昨日も駅まで行ったのだが、電車は10分遅れと電光掲示板に出ていて20分経ってもこない。

もう一度確認しに行ったら、キャンセルになっていた。対向プラットフォームにも結構な人が待っていたのに皆帰っていった。見ればそちらもキャンセルになっていた。ロンドン方面で列車のなにか不都合があったらしい。

大体此の1月から2駅向こうの水泳とジムに行くことになってから、一週間に3回は朝出かけているがまともの時間に電車が来たのは、3回に1回くらい、バスはあてにはならないが電車もこれだから本当に困る。今朝も8分遅れ、帰りは5分遅れだった。

此の所毎日曇り空で、雨が多く、気温も15-20度前後。寒い風の中駅で長い間待って電車が来ないときの怒りのやり場がない。

8月のオリンピック中に飾ってあったベッケンナムの編み物グループの婦人達は、9月からまた新しい編み物展示をして楽しませてくれている。

ノアの方舟。本当によく出来ているとおもう。 動物たちは2頭、2匹づつ。ヒゲのノアとその奥さんもいて、方舟の下は波がうちよせている。

こんな街角のアートギャラリー、素晴らしいと思いませんか?

日曜日、いつも行く駅の巨大なリンゴの木にたくさんの実がなっている。毎年行って採ってくるのだが今年は例年より早い気がする。何しろ我が家のクッキング・アップルは両手で1個位の大きな実がボロボロ落ちて収穫時期を知らせてくれる。

此のりんごは駅のプラットフォームへ入る前の階段のところから取れるので、駅へ行く人達が色々声をかけてゆく。皆あのりんごを無駄にしないで良かったねととっても好意的。欲しい人には2個くらい上げてとっても喜んでくれる。

此のりんごの周りは鉄柵とブラックベリーのヤブで、誰も中にはいって取ることが出来ない。もう8年くらい前いつものスーパーで、果物を取る袋の付いた道具を買った。

通りがかりの人がかならずどこで買ったのかをきいてくるすぐれもの。

此の駅にはまだ2箇所に真っ赤な林檎がなっているところがあり、来週日曜日、パトリックが来て取ってくれる。

愛読のヒゲ爺さんのブログによれば此の花ブラウン・アイ・スージーというのだそうで、植えたことはないがいつの間にか庭に芽が出て、一本が巨大な株に成長し、長く楽しませてくれる。

黄色はひときわ目立つ色で、今日このごろの鬱陶しい天気でも元気がもらえる花だ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

へ‐ドリアン・ウオール踏破ーカーライルからロンドンへ

2024-09-05 18:50:43 | 日記

朝6時ころには目を覚まし、スーツケースに泥だらけのブーツもズボンも収め、着て帰るものは最後の一枚づつ、何しろティシャツ8枚、スパッツ8枚、パンティ8枚、ソックス9枚、フリース2枚、その他タオル類などほとんどすべて汚れ物。

バスは7時35分、それを逃すと10時50分のロンドン行きに間に合わない。隣の部屋にあのカップルが寝ているので静かに荷物をおろした。 B&Bでは朝食が出るが早朝のため、サンドイッチを作ってあげると言って、朝7時に持ってきてくれた。

バスが来る5分前バス停に立つとすぐ、待ってましたとばかり雨が降ってきた。バスが来なかったらどうしようと心配無用、ロンドンの我が家近くのバスとは違うようだ。

早朝でも乗客は6-7人、昨日歩いたコースを逆に突っ走る。7時間かかって歩いた道を1時間でカーライルのバス停に着いた。

駅までの石畳をスーツケースを引っ張ってリュックを担いで歩く。嬉しいことに此のとき雨はやんでいた。

駅のすぐ近く、ハドリアヌス皇帝の像。此の街の若者で此の皇帝が此の街を作ったなんて知ってるだろうか?と思った。

それにしても此の寒い北国で、ローマ人たちがミニスカートみたいな制服でよくぞ耐えられたと感心する。

8時半には駅について荷物を預けてショッピングにと思っていたが、ショッピングセンターがここから遠いことに気づいて諦めた。それで良かったのは、しばらくすると激しい雨が降り続き、駅のプラスチック製の屋根では、あまりの激しさに轟音となって、駅のアナウンスが聞こえない。

気温は13度,ティシャツの上からフリースとウオータープルーフのジャケットを着て寒さに震えていた。駅では寒風が吹き抜ける。電車に乗ってロンドンへつく3時間も此の衣類を脱ぐことがなかったのに、ロンドンブリッジへの地下鉄の中では暑くてがまん。

ロンドンブリッジから20分の我が家への駅までに上2枚を脱いで、ティシャツが汗みずくになっていた。

ニューカースルの街を歩いている時にスカイプしてきた友達はフランス在住、此のときはロンドンの娘宅へ来ていて、開口一番 いい天気が続いて楽しかったでしょう。

ロンドンは雨もふらず毎日晴天だったらしい。

帰るなり衣類を洗濯機2杯分洗って、最後に泥だらけのブーツを洗濯機で洗った。とってもきれいになり満足。

翌朝今までのように、顔を洗うと一緒に体重測定。あれほど長期にわたり歩いてきたから5-10kgは減っているかと楽しみにしていたがなんと・・・・!!!

100グラムも減っていなくて、出発時と全然変わらなかった。!!!!

これもイングリッシュ・ブレックファーストのせい、カロリーが高いから空腹も覚えず、お昼も殆ど食べないで歩いてきた結果がこれ。

イギリス人の中年以降肥満体が多いのもあの朝食のせいだと思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする