イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

生きるための力

2007-02-03 00:31:44 | CM

最初に見たときは、R&Bユニットm-floのラッパーVERBALだったので、若者向けの自己啓発通信講座か何かのCMだろうと思っていました『Power for Living』。

その次に同じ時間帯で再び見たときは、ジャネット・リンさんのヴァージョンになっていて、これで「あぁ、キリスト教福音派の宗教団体のCMだったか」と納得が行きました。

ナレーションやメッセージの中には“宗教”のシュの字も出てこないし、主体はあくまでアーサー・デモス“財団”とアナウンスされていますが、リンさんが熱心な“それ系”の信者であることは銀盤の妖精とうたわれた現役時代から一貫しています。月河、彼女が微笑みながら転倒して銅メダルに終わった72年の札幌冬季五輪は地元でした。妖精人気が醒めやらなかった同年の初夏頃、地方紙が彼女の自宅訪問インタビュー記事を載せ、“そろそろ解禁してもいいだろう”的な恐る恐るな文脈で、彼女の熱い信仰語りについて触れていたのを思い出します。

当地でいまオンエアされているこのCMは、リンさん、VERBALの他、トレイ・ヒルマン北海道日本ハムファイターズ監督、音楽家久保田早紀改め久米小百合さんの4パターン。

信仰を持つことは自由だと思うし、宗教団体が本を出版してそのCMをTVで流すのも、全体主義国家じゃないんだから全然構わないと思います。特に勝負の世界に生きている人、芸術家や芸能を生業とする人が、信仰によって精神の基盤を得て良い結果や良質な作品、パフォーマンスを生み出せるというのも、月河は自分では経験がありませんが十分想像し得ることだし、観客、ファンとしても歓迎すべきでしょう。

VERBALは10~20代の若者向け、ヒルマン監督が北海道民全般向け、リンさんが団塊向けとしたら、月河の年代向けは久米小百合さんなのでしょうが、彼女のヴァージョンだけは、宗教のCMだということ自体は許容するとしても、かなり不愉快です。

久米さんは、久保田早紀として79年のデビュー曲『異邦人』が150万枚の大ヒットを記録した当時のことを、「まるで行き先のわからない暴走列車に乗ってしまったような混乱」「私は次第に自分自身を見失って行きました」「そしてあの日、私は神を信じたのです」「あの日がなければ、私はどこまで走って行ったのでしょう」とこのCMの中で振り返っています。

回想トークを始める前に「くぼたさき。いほうじん。」とバストアップで微量悲しそうな顔さえする。

当時はちょうどニューミュージックと総称される、ヴィジュアル汚い系のシンガーソングライターが幅を利かせていた頃でもあり、彼女がヒット曲番組に初登場した時の知的でノーブルな美貌にはさわやかな衝撃とカリスマ感があったものですが、このCMでは古いスチールの中からわざわざ不細工に撮れたのを選んだようなショットが挿入される。

そして「もう焦りや不安はありません。いま私は、自分で選んだ人生のボートを自分の手で漕いでいます」と、信仰を得てからの人生を全肯定。

『異邦人』は月河の学生時代にヒットした曲で、学生生活のいろんな場面、いろんなお店で流れていました。一聴、複雑なメロディーに聞こえるのに意外にシロウトにも唄いやすい曲でもあり、学生の財布で払える安いお店の、当時普及し始めた8トラのカラオケでよく唄いました。同年代には男女を問わず、いまだにカラオケに行くと唄っている人も多い。

学祭の準備、コーヒーパブでのアルバイト、早朝からの博物館実習など、当時の思い出の幾つかのシーンでは、常に脳内にこの曲が流れています。

音楽家であれ小説家であれ、創作活動を長く続けている人にとっては、昔の作品は“若書き”“未熟”で恥ずかしく思われることはあるかもしれない。「あんなものは出すんじゃなかった」と思うこともあるでしょう。

しかし、久米さんがいま現在どう思っていようが、久保田早紀として世に問うた『異邦人』は多くの人の心を捉え、多くの人にとっていまだ忘れ難い思い出の1ページになっているのです。

にもかかわらず、現在の信仰を宣伝せんがために“暴走列車”だの“自分を見失っていた”などの言葉でネガティヴに語るのは、曲を愛して忘れずにいてくれる人たちに非常に思いやりのない、失礼な態度だと思います。

CMは久米さんが現在手がけている宗教音楽を弾き語り、聴いている子供たちが涙ぐむ場面で終わりますが、ものを創る人ならば未熟な時期の作品と言えども、一生自分の子供のように愛し、リスペクトし続けてほしい。作品はすでにひとり立ちし、ファンという名の妻子、家族を持っているのです。作った人が作品を否定したら、家族は路頭に迷います。

“暴走列車”で“自分を見失っていた”のはヒット後のどさくさを指しているのであって、『異邦人』という作品、作ったこと自体を否定しているのではないというのであれば、せめて「くぼたさき。いほうじん。」と言うときのあのやるせない顔をやめてもらえないものでしょうか。

コメント
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