イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

官房長はベースで参加

2008-12-12 21:09:53 | 夜ドラマ

戦隊シリーズ例年の関連商品の中で、毎年楽しみなアイテムのひとつに“キャラクターソング”というものがあります。放送クールの後半にアルバムもしくはミニアルバムとしてリリースされることが多い。

月河はそこは大体グッと我慢して、最終話放送直後にこちらも毎年出る、OPEDテーマや劇中歌・挿入歌もまとめた“全曲集”でゲットすることにしていますが、キャラソンだけ早く覚えたい小さなお友達、素顔のメンバー勢揃いのジャケ写も目当てな中ぐらい~大きなお友達はその限りでないはずで、そこらはフトコロ具合と家族会議次第で決めればよろしいのです。

ようするに主要人物を演じる俳優・女優さんが、演じている人物目線で作詞・作曲された曲を、人物(の心理)になりきって歌う、という楽曲群

ホットなヒーローならホットでアップテンポな曲を元気一杯、クールで知的なヒーローならクールな曲をテクノやハウス調のアレンジで、ちょっぴり大人セクシーなヒロインならそれなりにアダルティな曲を、語尾を溜息っぽくしたりして聞かせてくれるわけです。

対象年齢層がより高めの仮面ライダーシリーズだと、キャラ内面の造型ももっと複雑ですから、屈折を抱えて戦っているヒーローが“本音を吐露する”ような曲になることもあるし、物語途中から参戦した2ndヒーローが“ビフォーアフター”を俯瞰するような曲を歌うかと思えば、凶暴な、あるいは奸智にたけた敵役キャラ主語で“こんなオレだけどこんな夢もあった”“もしもこれこれこんな世界になったら、俺も戦いから解放される”、或いは“(あの仮面ライダー○○は)倒さなきゃいけない敵だが、これこれこんな魅力もあって惜しい男だ”的な、“やおい”趣味の人たちならふるいつきそうな視点で歌わせる曲もあって、ドラマの物語世界観が曲を聴いてみることで広がったり、「そうかこのキャラはわかりにくかったけど、そういう性格の人物として造型されているわけか」「このキャラとあのキャラは、ドラマではかぶり気味でどちらか1人要らないんじゃないかと思ったけど、考えてること、立ち位置そんだけ違うのね」と読解の糸口が見つかったりすることもある。

何より、“製作陣がこの人物をどう造型し、どうパーソナリティや背景を賦与し、どういう角度から見ればどんな輝きを放つように作りたかったか”が、楽曲や歌唱の仕上がりでかなり読み取れ、想像を広げる糸口ともなるから、月河はキャラソンが好きなのです。

昨日の記事に戻りますが、『相棒』を「戦隊だな」と思うようになった理由のひとつに“キャラソンが作れそう”というのもある。

そこそこ熱心な特撮ファンなら皆知っているように、あの手のシリーズは何をさておき“玩具販促”が最優先事項。ドラマがどんなに良質でも、巨大スポンサーにして製作リーダーでもあるメーカーさんたちの主力商品=おもちゃ、ウェア、グッズ、菓子や食品などの売り上げにつながらなければ失敗作と見なされる世界です。

特に小さなお友達に玩具を欲しがらせ、親御さんたちにねだらせてお財布の紐をゆるめてもらうためには、とにかくキャラに“興味を持って”“興がって”“「カッコいい」「かわいい」「ボクも、ワタシもなりたい」と好きになって”もらわなければなりません。大人向けの夜のドラマやエンタメ小説などでよく言う、“キャラが立っている”だけではなお不十分で、1人ずつキャッチーな決めゼリフ、決めポーズ、変身モーションはもちろん、劇中の立ち姿、カメラに対する顔の向け方の角度まで、キャラごとにきっちり決まっている。何か事件が起きた、これこれこんな敵が出現した、斯く斯く然々の局面になったというとき、“みんなワイワイ似たようなリアクション”をとることは絶対にありません。

変身モーションこそ無いものの、『相棒』はこうしたキャラ立ての仕掛け、工夫彫琢に満ち満ちています。戦隊シリーズのように、“初めにグッズ販促ありき”で世界観を組み、キャラを立て持ち道具を立てることから逆算してストーリーを作り連続させ着地させることを義務づけられているわけではないのに、「この人物にはこんな特性があるから、彼を主語にこういう状況を設定してこういう対応をさせれば、こういう風に局面が展開してこう転結する話が成立するな」という演繹的な作り方がほとんど可能に思える。

決めゼリフだけでも、おなじみ「最後にもうひとつだけ」「1分だけ」(←人差し指立て)「行きましょう」「~したものですから」を筆頭に、「右京さん!?」「ヒマか?」「何でオマエが居んだよ!」「バカモン!」「~じゃないかしら」「~したまえ」「さしずめ~と言ったところでしょうか」…

…まだ何かあった気がするな。頭より高い位置から紅茶カップに注ぐとか、無言でコメカミにスジ立てて錠剤噛む、叩かれて肩すぼめて頭押さえる、回転寿司の皿コンベアに戻すなど、戦隊における決めポーズに相当するものならもっとある。

想像ですが、もし『相棒』がらみで、DVDCDなどのパッケージソフト以外にも劇中登場する衣装や道具類のレプリカなど関連グッズを作って販売しているとしたら、現時点で相当な売り上げを叩き出しているのではないでしょうか。観客・ファンの気持ちを“モノ”に惹きつけ、何らかの思い入れを仮託させるようなベクトルが、この作品からは強く感じられます。

それこそ、俳優さんたちサイドから歌唱OKが出るかどうか(水谷豊さんなら速攻ゴー?)は別として、キャラクターソングアルバムなんかリリースしようもんなら、企画段階で先取り完売じゃないかと。

このことと一部地続きで、昨日触れた、小芝居による視聴者プレゼント告知コーナーも然りです。○○レンジャーがDVDを自分たちの本拠地(デカベース、恐竜や、小津家、ギンジロー号等々)で観たり、「ご応募待ってまーす!」なんて現実世界立脚な発言をしたりするわけはないと、大きなお友達ならずともはなからわかり切っている。それでもキャラソン同様、現実世界で“演じる”という現実的な行為をしている俳優さんたちが、“キャラ”という虚構世界のコスチュームをまとったまま、TV画面の向こうから「ご応募待ってまーす」と現実世界向けの発言をしてくれる、それをまるごと“虚構”として観客に受け容れさせ、享受さしむる波長を、戦隊同様『相棒』も持っているのです。

「現実と虚構の区別がつかなくなる」と言えば最近の“ゲーム脳”“ヴァーチャル脳”の説明として、非健康的・反社会的で嘆かわしいことのように捉えられがちですが、虚構と現実とが干潮時・満潮時で景観を変える砂洲のように入り混じった世界観構築と描出の手練れっぷりは、ひょっとすると戦隊も『相棒』も製作する東映&テレビ朝日チームの持ち味、社風なのかもしれません。

逆に言えば「なんかマンガチックで好きになれない」と言う人も少なからずいるのでしょうね(月河に言わせれば、あらゆる局で最近めっきり多いマンガ・コミック・ケータイ小説等原作のドラマのほうが、「原作とイメージが違う」とそっぽ向かれるのを怖れるあまり、虚構構築の姿勢においてよっぽど腰が引けていると思いますが)。

昨日の記事でちょっと書き捨てた、『渡る世間は鬼ばかり』は告知小芝居は成立しそうだけど戦隊ではないなと思った理由は「エピソードが独立で味わえない」。あまりにも話の連続性が強力すぎて、どのクールのどのエピが面白かった、好きだったという鑑賞の仕方が成立しないのは、如何におなじみキャラのおなじみ性が定着していても、やはり戦隊ではないでしょう。これも持ち味です。

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