雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

1965年頃のレース界

2006-10-19 09:46:29 | M/Cレース
1965年(昭和40年)ごろ、今から40年程前の話だが、二輪のレース界の中にいた。

1964年10月10日が東京オリンピックの開会式だから、その頃のことである。

オリンピック開会式の当日も、伊豆丸の山で開催されたMCFAJの全日本モトクロスの会場にいた。
当時のカワサキのレーシングチームのマネージメントを担当していた。

面白い想い出が沢山残されている、私にとっていい時代であった。

当時、4サイクルのホンダは、モトクロスには参加せず,スズキ、ヤマハ、ブリジストン、カワサキで争われた。
マシンも未だバックボーンフレームだった。
ツインエンジンのモトクロサーがあったりした。

メーカーとともに、各地の名門クラブチームが、日本のレース界を押さえていた。

東京の城北ライダース(S),神奈川のスポーツライダース(Y)、京都のマウンテンライダース(S)などである。

カワサキは、厚木で三橋実の率いるカワサキコンバット、関西では片山義美が主宰する神戸木の実クラブの選手でファクトリーチームを形成していた。

特に、城北は名門と言われ、後,4輪レースで亡くなった鈴木誠一が率いて,メンバーには当時最強といわれた久保和夫を始め、その後の日本のレース界をリードした、長谷見、菅谷,黒澤などがいたと記憶している。

カワサキコンバットは、安良岡健、梅津、岡部、若き日の星野一義、現在の星野インパルズの金子豊など多くのライダーを育てた。

神戸木の実も、当時のGPライダー第一人者の片山義美をはじめ、モトクロスの日本チャンピオンを何度も獲った山本隆や歳森康師、ロードレースで活躍した、金谷秀夫などが所属した名門クラブであった。

星野とほぼ同期で、永くモトクロス界に貢献した吉村太一は、小島松久が率いたマウンテンライダースにいた。

カワサキはレースを始めて2~3年だったが、結構強く、前述の丸の山の全日本でも、三橋,梅津、山本が優勝し4種目中、3種目を制覇した。

当時のカワサキは、二輪事業を本格的にスタートさせた頃で事業としては苦しい時代であったが、本社が二輪事業の開発費として、年1億円の特別広告予算をくれたので、レースもその予算の中で賄われた。

私の年収が50万円に満たない時代であったので、1億は相当の使いでがあった。
若いライダーの契約金が120万円、レーシングチームで、ヘリコプターを所有しレース場にヘリを持って行って、空からレースを見るような、今では考えられない経験をした。

レース場で、他メーカーのライダーたちにヘリに乗ることを、せがまれたりして、お陰で有名ライダーたちとも、仲良くなれた。

もうお互いにいい年だが、いい想い出が沢山ある。

ひとつづつ、日記の中から正確に記録をたどって、またご紹介します。

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