1960年(昭和35年)ごろ、日本には100社を越す二輪メーカーが乱立していた。
三菱重工業、富士重工業、トーハツ、ブリジストンなど大企業もその中に名を連ねていた。
大企業を含む100を越す企業が、浜松出身のホンダ、スズキ、ヤマハとの競争について行けずに事業から撤退し、最後まで残ったのはカワサキだけで、今の四社体制になったのである。
何故、カワサキ一社だけが浜松勢とともに、生き残れたのか。
その理由はいろいろあると思うが、私なりに次の二つが大きかったと思う。
一つは、運が良かった。天が味方してくれたと思う。
1963年に出した、B-8が何となく売れ出して、ひょっとしたら脈があるかもと、日本能率協会に調査を依頼し、事業再建の見込み調査を始めた。
この年、兵庫県の青野ヶ原でモトクロスレースがあり、B-8の改造モトクロサーで出場した。
このレースで、優勝はもとより上位を独占したのである。
この結果で、事業部内は大いに盛り上がった。
能率協会の報告書の中でも、事業部内のやる気に触れ,再建を提言する大きな要素になったのである。
このレースで、なぜ初出場のカワサキが圧勝出来たのか。
マシンもライダーも、そんなに大したものではなかった筈である。
後になって、山本隆君(元日本モトクロスチャンピオン)に聞いた話だが、彼も当日ヤマハで出場していたが、当日は大雨のあとの水溜りばかりで、所謂高性能のレーサーは、水をかぶってみんな止まってしまったという。
カワサキは市販車に近かったから雨のなかも止まらずに完走したというのである。
まさしく、天が味方をしてくれたのである。
もう一つは、第一線の販売を川崎航空機の人がやらなかったことだと思っている。
若し川崎航空機の人がやっていたら、間違いなくギブアップしていたと思う。
第一線の雰囲気や発想は、そのスピードと共に、とてもメーカーの人たちには考えられない種類のものだった。
当時、国内の販売は、明発やメグロからきた人たちが担当してくれていた。
海外では、責任者はともかく、第一線はアメリカ人や現地の人たちであった。
社内の進級試験の論文にそんなことを書いたら、えらく怒られたが、今でもそれは正しかったと思っている。
第一線を自ら担当した他の大メーカーは次々に競争から脱落した。
逆に、ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢はそれほど競争意識が強かったとも言える。
競争は激しかったが、面白かった。
そんな競争を経験できたことを誇りに思っているし、自信にもなっている。