A1(1966),H1(1968),Z1(1972)。
この3機種と共にカワサキの二輪事業は発展し、カワサキのブランドと二輪事業の基盤を造ったと言っていい。
これらはアメリカでのカワサキの事業展開の歴史であり、この時期のアメリカでの事業展開が若しなかったら、カワサキの二輪事業はまた違った道を歩んだであろう。
この時期のアメリカを引っ張ったのが浜脇さんである。
今回、改めて浜さんの本を読んでみて思うところがいっぱいあったし、当時を懐かしく思い出せた。
A1の発売からマッハⅢの60年後半にカワサキは実用車のカワサキから大型車、スポーツのカワサキへとイメージを変えていった。
国内でもB8,B1の実用車が主力で東北、九州などの地方の時代から、ようやく東京、大阪などの都会へと販売の重点が移されたのである。
私自身もその流れの中で、67年から4年間東北を担当していたが、71年には大阪担当となり73年には東京、名古屋、大阪の直営部の担当となっている。
アメリカも日本もZ1で大躍進をするのだが、
この時期のアメリカ市場の拡大は凄まじいと言っていいほどのものであった。
1966年に部品会社としてシカゴに直販会社アメリカカワサキ設立し、現地主義を表明してアメリカ人アランマセックをGMに採用し優秀な現地人中心のアメリカ式経営方式を採用している。
商品開発も経営方式もベースにある考え方は「差別化」である。
他の競合他社との徹底した差別化戦略がそこにあった。
浜さんの本の中に「差別化」と言う言葉を見つけて大いに我が意を得たのである。
68年にはKMCを設立、現地のマーケッテングから72年に上市されたZ1の開発を技術部と共に成功させて飛躍を続けた。
73年には売上高1億ドル、税引き前利益400万ドルの優良企業になっている。
ニューヨーク市場への上場を究極の目標とし、コマーシャルペーパー発行による資金調達やアメリカでの現地生産を目指したリンカーン工場の設立など、いずれもスケールの大きい日本の企業では初めての試みであった。
73年にリンカーン工場の建設に着手しているが,ホンダのアメリカ生産に先んずること3年であった。
このような新しい取り組みにより75年頃まで、アメリカ市場の最盛期が続いたのである。
単車に携わった人たち誰もが懐かしく想い出す最高の時期であった。