雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話ー54

2007-04-23 05:54:59 | カワサキ単車の昔話
若い頃のこと

カワサキの単車事業は会社にとって始めての未経験の分野であった。

そんなことで、経験を積んだ先輩が殆どいなくて、若い頃からいろんなことが経験できてよかったことも多かったが、中にはやはり若過ぎて、もうひとつしっくり来ないことにも度々出くわした。

まだ30代後半の頃だが、その頃の肩書きが余り一般的ではないが「大阪母店長」であった。
小さな営業所を統括するという意味だが、銀行などではよく使われていた肩書きである。

大阪のある銀行の「大阪母店長」と名刺交換したことがあるのだが、相手は正真正銘の専務取締役母店長だった。
こちらはただの母店長で、こういうときは少々気まずい思いがした。


当時、全国カワサキ会の副会長もさせられていた。

東京で世界のBPICMの総会があって、この肩書きに対して招待状が来たのである。
世界の流通業界の団体の長が,メーカーの招待を受ける形だったのだと思う。

高松の宮様が出席され、歓迎委員長は本田宗一郎本田技研社長が務められた。
日産の川又社長や自動車工業各社の重役さんや、川重からも中南専務、吉田常務、山田事業部長らが出席されていて、その方たちがずらっと並んでアタマを下げて出迎えられる前を,夫人同伴で40才前の実質課長の若造が歩くのは、どうしてもサマにならなかった。

世界各国からの招待客が主流のそんな立派なパーテイで、本田宗一郎がされた歓迎挨拶は、日本人離れして本当に立派だったのをよく覚えている。
あのような挨拶は、長い経験がさせるものだ思った。

高松の宮様も出席されるようなパーテイだったから、多分堅苦しい雰囲気ではと思い、出席前にラーメンで腹ごしらえをしてから出席したのだが、そんなことは全然なく和やかないい雰囲気でパーテイは進行した。

私も場違いに若かったが、同伴した家内も確かに出席者の中で若いことには間違いなく、会社の偉い方々に殊のほか気軽に声をかけて頂いて喜んでいた。


こんな経験は、私に限らず当時世界のあちこちで同じような経験をした人は多いのだと思う。
段々とこんなことにも慣れて、一見厚かましい人たちや単車独特の雰囲気が造られていったのだと思う。

カワサキだけでなく何となく二輪業界の特徴のような気もするのだが。

確かに、どんなことにも動転したような記憶はない。
そんな風に育ってしまった。環境が人を造るということか。
コメント
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