雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話-74

2007-09-23 05:52:50 | カワサキ単車の昔話
入社当時のカワサキー2


何にも整備されていなかった当時の川崎航空機ではあったが、
ジェットのオーバーホールは東洋でこの明石工場だけで、米軍が駐留しており、社内にカフテリィアなどというしゃれた喫茶室やIBM室があったりして、そこにはエアコン完備で夏も涼しいという当時では考えられない環境のところもあった。


私の担当は、工具器具備品で机や椅子、車両運搬具で自転車などがあり、この修理や新品の配布なども担当した。

みんな、それを今の世では考えられぬほど欲しがるのである。
昭和32年当時は貧しかったのである。
新人といえども一応配分の権利は持っていたので、課長さんなどが頼みに来たりするのである。

木の椅子がよく壊れるのでネコスのスチール製の椅子や机に変えることにした。
そんな判断も、変更も1年生で意見を述べたら大丈夫出来たのである。
そういう意味では、自由でいい会社であった。
基準や規定が余りきつくなかったのである。戦後の中断がそうさせたのだと思う。

いいものになると、余計に欲しがるのだが、
一斉に変える訳にはいかずその基準の設定や判断も任してくれたので、
新人といえども大きな権限を持って、あんまり頭を下げずにむしろ頼まれる立場で過ごせたのである。



ただ、別の面では苦労した。
財産台帳を整備せよと課長に指示されて、数を数えたりしていたのだが、会社に職制変更や異動などあるのが解からなかった。

折角苦労して数えていた椅子や机が、一斉の職制変更でどこに行ったのか解からなくなってしまったのである。

仕方がないのでその後は、プレートをつくり番号を打ち、釘と金槌を持って、これは数えましたという証拠を残す作業をほぼ1年やっていった。

「お前はいつ見ても釘と金槌を持って歩いている」と言われた時期である。



償却計算も大変であった。
工具器具備品は単価は安いのだが数がべらぼうに多い。
単価は安くても高くても、計算に掛かる工数は同じである。
私独りが休日出勤して片付けねばならなかった。
こんなことを1年やったが、どうしても納得いかず、機械化を考えたのである。

それも、日本の事務機もいろいろ当たったが機能がもう一つである。
「そうだ。ジェットのIBMを頼もう。」とIBM室に頼み込んだのである。

これも手伝ってやろうというIBM室の若手の久森君が現れて、
償却計算の仕組みとコードなどの設定を約1年掛けて完了した。
IBMの威力は物凄く、10人ほどいた財産課の計算要員の人たちはみんな要らなくなってしまったのである。

そんなことで私は単車営業に転籍することになった。
私と単車とのご縁は、自らやった償却計算のIBM化で、お払い箱になった結果のことである。



ずっと後に、IBMの研修でIBMに関係した自己紹介をというので、このことを話したら、
先生が「10年ほど違っていませんか。
日本でIBMが導入されたのはオリンピック以後のことですよ」と仰った。
「間違いなく、1958,9年の話です。米軍が使っていたIBMのコンプユーターです。」と答えたらビックリされていた。

日本にコンユーターなどなく電気計算機の時代の話である。
機械の仕組みはみんな久森君がやってくれて、
私はコードの設定などを担当したのだが、ついでに岐阜も本社も巻き込んでのコード統一が出来た。
給与形態などもまだ完全に統一されていない時代で、財産のコードが一番先に統一できたと褒めてもらったりした。



こんな新人時代だったので、
殆ど上から指示を受けたり教えてもらったりすることはなかった。

そして、新しく転籍した単車も、上の人が経験をしたことのない分野であった。

サラリーマン生活を長くやったが、上から目標の指示は受けたが仕事を教えて貰ったことは、あまり記憶にないのである。


そんなことが、「何でもやりたいことをやる」
「何をやりたいか」と目標を定めてやる面白さを覚えて、この年までずっとそのスタイルが続いている。
しんどいこともあるが、そのほうが間違いなく楽しい。


これは私だけでなく、同年代を生きたカワサキの単車の人たちは「同類項」がいっぱい居た面白い集団であった。
コメント (2)
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