雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話-76

2007-09-25 07:03:23 | カワサキ単車の昔話
青野ヶ原モトクロス

日時は明確に解からないが、1963年、昭和38年のことだと思う。
まだ、単車事業がふらふらしていた頃である。

私は、発動機の営業部門にいて管理を担当していた。
青野ヶ原のモトクロスには、直接関係はしていないが、いろいろとウラの事情は承知していた。

このプロジェクトというか計画は非公式なもので、
中村治道さんが音頭をとり高橋鉄郎さんや川崎芳夫さんが参加して、マシンは松尾勇さんたちの手作り、ライダーは飯原、加藤、秋原君などテストライダーたちである。

技術部ではなくて生産現場が主体のものであった。

会社が正式に認めたものではなく、残業時間帯にみんなボランテイアで計画は進められた。
そんなことを、苦々しく思っていたモット上の方たちが居たのも事実である。


何故、私が知っているのかというと、
上司の「おのすけ」さんが、残業料も出ないし、金もないので営業で管理していた金の中から「幾らか面倒見てやれ」と言われて私の管理していた中から、このプロジェクトの手伝いをしていた営業の川合寿一さんにそんなお金を渡したからである。


そんな状況の中で行われたモトクロスで、カワサキは優勝から4位、5位?までを独占する快挙で優勝を飾ったのである。マシンはB8。

決して、マシンが速かった訳でもないし、ライダーが速かった訳でもない。
当日は雨で、コースはいたるところに水溜りがあった。
当日のレースにその時はヤマハで出た山本隆君の話では、ヤマハやスズキのマシンはみんな水を被って止まってしまった。実用車に最も近かったカワサキだけが防水対策も完全でみんな完走したというのである。

神様が助けて下さったのだと思う。
私などその時のレースの写真を見て、モトクロスとはこんな水の中をしぶきを上げて走る競技だと本当にそう思った。


この快挙で、単車事業部は一挙にムードが上がった。
文句を散々言われていた上の方たちも、玄関前での記念撮影には最前列に並んで写っていた。

丁度、単車をどうするか、調査をしていた日本能率協会も、
事業部にはこの事業を続けたいと言う熱意があると、幾つかの条件をつけて、
単車再建を提言する結果になったのである。


そういう意味で、この青野ヶ原のモトクロスは、カワサキの単車事業の命運を分けたものだった。

カワサキワールドの単車のコマの最初にこのときの写真が飾られている。



このあと、単車事業再建の歴史が始まるのだが、その辺からは「カワサキ単車の昔話ー1」からアップしているので、私が入社して単車を本格的に担当するまでの当時の川崎航空機の様子を連続して纏めてみたものである。
(カワサキ単車の昔話73~76)

多分青野ヶ原について、そんなにに詳しくご存知の方も少なくなってしまったと思う。

(Z1会でもご一緒している川崎芳夫さんが一番詳しいのではないかとと思う。Z11会のメンバーには、このときのライダーの飯原君もいる。
先日高橋さんに、この写真に何故、治道さんが写っていないのかお聞きしたら、当日調子が悪くなって急遽高橋さんが指揮を取られたとか、確かそんな風に言われたと思う。これなどもはっきり覚えていない。つい、最近のことなのに。)

私もそんな年になってしまっているのである。
コメント (6)
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