雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話-73

2007-09-21 16:08:57 | カワサキ単車の昔話
入社当時のカワサキ

ずうっと遡って私が会社に入社した頃、
昭和32年、何故か前年までの不景気が吹き飛んで、神武景気に世の中が沸き入社も意外に簡単なそんな年であった。

まだ西暦の年号など誰も使わなかったが、西暦で言うと1957年である。
実は、前年の卒業であったが、不景気で会社が人を採らないので、ゼミだけを残して1年間野球部の監督をしていたのである。

ツイテいたというべきだろう、前年に会社に入った人たちは余り大手には就職出来ていなかった。



就職したのは川崎航空機である。

軍事会社ということで、一時休眠していたのが再開された。
そんなこともあって、あんまり年寄りのいない若い空気の会社であったが、業績がどうだったのか余りそんなことは解からなかった。

給料が12000円ということだったが、入社してみると1時間残業をして12000円でその支払いは月2回だったから、業績が良かったはずはない。

ジェットエンジンのオーバーホールや発動機のエンジン、ミッションなどを作っていた。
オートバイのエンジンはメイハツ工業のものを供給していたのだと思う。



配属は財産課であった。
何をする課かというと、会社の財産の管理である。
入社して直ぐ、担当分けがあった。

先輩が「君、機械はわかるか」「?」「工具器具備品は」「車両運搬具は」と聞かれて、それは机や椅子や自転車だというので「それは解かります」と答えたら、その担当になった。


土地や建物など、或いはいろんな所有権のような管理もあるのだが、それはみんな
先輩たちが担当をした。

戦前の川崎航空機は非常に大きかったので土地は広いし、戦前の機械は山ほどあった。戦時中の空襲で工場は全焼していたので、その鉄骨などもあった。

そんな財産物件を売りながらの経営で、営業収入より財産課の財産処分益で食っていたような時代であった。



新入社員にはそんな大事な仕事は廻ってこずに、毎日がタイガー計算機を回しての償却計算に明け暮れていた。

当時の財産物件の基準は、取得価格1万円以上であったのだが、
ジェットエンジン工場は新設で、300円以上が財産に計上されていたので、バケツやすだれまでが財産物件、勿論机椅子の類もそうだった。

そんな訳で無茶苦茶数が多いのである。
これは今思うと先輩たちにハメラレタのかも知れない。数が多いということは、それだけ計算の工数が掛かるのである。


さらに、財産台帳が工具器具備品だけがちゃんと揃っていないのである。

課長に台帳の整備を命じられて、就職1年目がスタートしたのである。
まあ、大変な会社であった。今の人たちに言っても信じて貰えないと思う。



然し、1年目から思いのほか束縛されずに自由であった。
先輩で、誰もそれをやった人がいなかったからである。

1年目から私の流儀で仕事をすることが出来たのである。


この続きはまた。

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