昨日の大西宏さんブログ、『お城が背景の赤煉瓦美術館 』と題してこんな記述があった。
『美術館そのものに観る価値があるように感じます。
ちょうど、姫路の地にゆかりのある大正、昭和にかけて活躍した日本画家橋本関雪の回顧展をやっていました。
橋本関雪といえば、京都の哲学の道に30年の歳月をかけて創り上げた「白沙村荘」もありますね。』
橋本関雪、小学校の子供の頃に家でよく『関雪さん』の絵が掛かっていた。
明石の伯父の家にもいろいろあったように思う。
絵も字も趣味であった父が、
『書は海関先生に、絵は橋本関雪に習った』と自慢していたのを思い出す。
どの程度どんな風に習ったのかは不明だが、『何となくエライ先生なのだ』と子供心に思っていた。
明石の遠い親戚に当たるなどとも言っていた。
ソウルの家にあった絵はすべて置いてきたし、明石の伯父の家にあった絵は戦災で焼けてしまって1枚も残っていない。
大西宏さんのブログにリンクしてある、橋本関雪の解説にはこんな風に書いてある。
橋本関雪
1883(明治16)~1945(昭和20)
神戸市郊外の坂本村(現神戸市中央区)に生まれる。本名関一。父海関は明石藩の儒者であった。12歳の時、四条派の片岡公曠に学び、その後京都に出て竹内栖鳳の「竹杖会」に入門。初期文展で活躍、大正5年から3年連続特選、大正8年からは帝展の中心画家として活躍した。昭和9年帝室技芸員、翌年帝国美術院会員となる。多数の著作があるほか、古美術研究家としても知られている。諸派の画風に学びながら深い教養に根ざした格調高い作品を残した。水墨の動物画に卓越した筆技を見せている。
父より16歳年上である。
神戸で生まれているのである。
橋本海関さんのお墓は、明石の長寿院にあるのだが、関雪さんの墓はない。
長寿院は明石藩主松平家の菩提寺である。明石天文科学館の直ぐ下のお寺である。
先日、墓参りに行ったときにたまたま撮ってきた写真である。
こんなブログに使うとは夢にも思わなかった。
『橋本海関先生之墓』という文字は、橋本関雪の書だと伯父が教えてくれた。
書も達筆である。
京都の
白沙村荘橋本関雪記念館には一度だけトモダチといったことがある。
『橋本関雪と橋本海関』、会ったことも話したこともないのだが、
伯父と父の話の中にはよく出てきた名前で懐かしかった。
最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか
『美術館そのものに観る価値があるように感じます。
ちょうど、姫路の地にゆかりのある大正、昭和にかけて活躍した日本画家橋本関雪の回顧展をやっていました。
橋本関雪といえば、京都の哲学の道に30年の歳月をかけて創り上げた「白沙村荘」もありますね。』
橋本関雪、小学校の子供の頃に家でよく『関雪さん』の絵が掛かっていた。
明石の伯父の家にもいろいろあったように思う。
絵も字も趣味であった父が、
『書は海関先生に、絵は橋本関雪に習った』と自慢していたのを思い出す。
どの程度どんな風に習ったのかは不明だが、『何となくエライ先生なのだ』と子供心に思っていた。
明石の遠い親戚に当たるなどとも言っていた。
ソウルの家にあった絵はすべて置いてきたし、明石の伯父の家にあった絵は戦災で焼けてしまって1枚も残っていない。
大西宏さんのブログにリンクしてある、橋本関雪の解説にはこんな風に書いてある。
橋本関雪
1883(明治16)~1945(昭和20)
神戸市郊外の坂本村(現神戸市中央区)に生まれる。本名関一。父海関は明石藩の儒者であった。12歳の時、四条派の片岡公曠に学び、その後京都に出て竹内栖鳳の「竹杖会」に入門。初期文展で活躍、大正5年から3年連続特選、大正8年からは帝展の中心画家として活躍した。昭和9年帝室技芸員、翌年帝国美術院会員となる。多数の著作があるほか、古美術研究家としても知られている。諸派の画風に学びながら深い教養に根ざした格調高い作品を残した。水墨の動物画に卓越した筆技を見せている。
父より16歳年上である。
神戸で生まれているのである。
橋本海関さんのお墓は、明石の長寿院にあるのだが、関雪さんの墓はない。
長寿院は明石藩主松平家の菩提寺である。明石天文科学館の直ぐ下のお寺である。
先日、墓参りに行ったときにたまたま撮ってきた写真である。
こんなブログに使うとは夢にも思わなかった。
『橋本海関先生之墓』という文字は、橋本関雪の書だと伯父が教えてくれた。
書も達筆である。
京都の
白沙村荘橋本関雪記念館には一度だけトモダチといったことがある。
『橋本関雪と橋本海関』、会ったことも話したこともないのだが、
伯父と父の話の中にはよく出てきた名前で懐かしかった。
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