★ 先日、山本隆と、歳森康師というブログをアップしたら、
当ののご本人の60じさん、山本隆君からこんなコメントが届いたのである。
『カワサキMXライダー契約第1号の歳森から、広島テックでB-8MXが1台余ってるから乗って見ないかと言われて乗ったのが、最初でした。
私は、トーハツランペット50とヤマハ125で個人エントリーで行ってました。
神戸木の実には既にメンバーになっていた時でした。』
私も知らぬ話である。そんな昔のことが懐かしくて、久しぶりに、『カワサキ単車の昔話』と言うカテゴリーで、初代のレースマネージャー故川合寿一さんのことを書いてみたい。
★ 私が川崎航空機に入社したのは、昭和32年のことである。
学生時代、野球部にいた。
当時の川崎航空機には野球部はあったが硬式のチームではなかったのだが、軟式の野球チームがあって、そこで何年間か野球を楽しんだのだが、
そのマネージャーをしていたのが故川合寿一さんなのである。
そんなことで川合さんとは入社早々からのお付き合いなのである。
国内のバイクや、ジェットスキーの関係された方は、ご存じの方も多いと思うが、藤田孝明君も同じ年の入社で野球部だった。私と三遊間や1,2番コンビを組んでいたりしたのである。
川合寿一さんについては、旧いライダーの人たちはよくご存じだが、京都の方で当時も確か『京都あたりから明石に通っておられた。
喜怒哀楽のうちの『喜』と『哀』が特に激しくて、『勝てば喜び、負けたら哀しむ』のが川合さんの専売特許だったのである。
こんな性格は、レースのマネージャになってからも変わらなかったのである。
★当時は書類はみんな手書きで、大事な書類だけが、タイプライターで打たれて、謄写版という器械で1枚1枚刷り上げていたのだが、川合さんはそのタイプ室にいたのである。
昭和36年ごろになって、個別のタイプライターなどがだんだん社内でも一般的になって、タイプ室がなくなって、当時スタートしたばかりの単車営業に異動になり、同じグループになったのである。
川合寿一さんが、レースに関与することになったのは、
カワサキ初のモトクロスと言われている『青野ケ原のモトクロス』に出場することになって、川合寿一さんがそのマネージャー役を引き受けたのである。
青野ケ原のレースは、雨で防水対策の完璧であったカワサキだけが完走して、他車はみんな水で止まってしまったようである。その結果1位から6位までを独占すると言うカワサキ圧勝となったのである。
その時走ったライダーは、社内ライダーばかりで、契約ライダーなどいなかったのだが、大勝利でレース熱が一挙に盛り上がり、
関東では三橋実率いるカワサキコンバットと関西では神戸木ノ実の歳森康師と最初に契約したのだと思う。
川合寿一さんは営業の同じグループではあったが、レースでどんな契約をしていたのか、詳しいことは知らない。 そんなころ山本隆君も歳森に次いでカワサキに乗るようになったのだと思う。 どれくらいの契約内容だったのか? 全然知らない。
★ 当時の川合寿一さんは、チームを引き連れて、地方レースの勝てそうなところばかりを選んで出場していたようで、どこに行っても優勝カップを持ち帰ったので、みんなホントにカワサキは強いのだと信じて疑わなかったのである。
これも川合さんの勝てば喜び、負けたら哀しむ性のなせる技だったのかも知れない。
翌年春の全国の強豪が集まった相馬が原で行われた、MFJの第1回日本グランプリでは、6位までにも入れなかった、その程度の実力だったのだが、
航空機の技術者のエンジン技術が高かったのか、
車体を担当した名物メカニック故松尾勇さんのノウハウが生きたのか、
契約ライダーたちのライデング技術が進歩したのか、
その年の秋ごろには、ライバルメーカーに互角に戦えるようになったのである。
★そして、その翌年事件が起きた。
契約ライダーの、山本隆、歳森康師の二人が、起こしたBSとの仮契約問題である。
契約担当は川合寿一さんであった。『大変なことと』大騒ぎになって、ライダー契約の場に私も引っ張り出されることになったのである。
この事件は、片山義美さんが纏めてくれて、無事収まったのだが、
多分、BSの契約条件の中にあったのだろう。山本隆君が鈴鹿のジュニアロードレースに出ると言い出して、
当時会社では認められていなかったロードレースの世界に、会社には黙ってマシンを2台造って、こっそり出場したのである。
5月3日、鈴鹿の現場に行ったのは川合寿一さんである。
山本君が3位に入賞して、
私の自宅に5月の連休中に電報が届いた。
『ヤマ3、シオ8、セイコウ カワ』
川合寿一さんが打った電報である。
このとき、8位に入った北陸の塩本君もその後白衣シーサイドレースの練習中に事故で帰らぬ人となった。
★川合寿一さんは、モトクロスも、ロードレースも、
カワサキの初めてのレースに現場にいた、レースマネージャーである。
間違いなく、カワサキ初代のレースマネージャーなのだが、
この鈴鹿のジュニアロードレースが、川合さんの最後のレース現場かもしれない。
1ヶ月後にあった鈴鹿のアマチュア6時間耐久レースには、大西健治君と私で望んでいる。
多分、6月にオープンした明石営業所の初代所長として、異動されたのだと思う。
川合寿一さんも、次に現場マネージャーをしてくれた大西健治君も、さらにその次の岩崎茂樹君もみんな故人となってしまわれた。
当時のライダーでは豪快に走った梅津次郎もなくなってしまった。
ご冥福を祈るばかりである。
そんな、昔の話なのである。
もう50年近くも前のことだから、間違いなく昔話なのである。
★NPO The Good Times のホ―ムページです。(会員さんのon time のブログもツイッターもFacebookも)