雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

明日はZ1会のゴルフですが、放射能は大丈夫? 風評被害?

2011-04-04 14:25:51 | 発想$感想

★福島原発の放射能問題は、政府発表や所謂専門家の先生方がいろいろ言われますが、正直なところよく解りません。

そんな状況の中で、いろんなデーターを入手しました。

そんな中でドイツのデータによると、

4月6日ごろからは風向きによって関西にも放射能が飛来する

このデーターを入手しているのは、私だけではないようで、昨日の午後にはツイッターなどで流れていました。

 

★ たかじんのそこまで言って委員会などに、よく出られる、武田先生のブログの中にも引用されています

 この原発問題の、特に放射能のところは、幾ら聞いても、読んでもよく解りません。

武田先生が言われるように、これは風向きで、全然影響が異なるのだから、気象庁などの出番のように思いますが、

気象庁の仕事の中に、『放射能汚染』という項目はないので、何の意見も差し挟まないのだと思います。

 

★あまりこのようなことに言及すると『風評被害』として怒られるかも知れませんが、

『風評被害』についてこのように書いておられます

「風評被害というのは、正しい情報を伝えないことによって起こる」

 そしてその理由は、 人間は自分の身を守ろうと考えるので情報が不完全な時は、余計に不安になって慎重な行動になる」 つまり「風評被害」というのは「悪いことでも異常なこともなく」、情報が不足した時に起こる「正常な人間の社会活動」ということです。 一にも二人も人間が自分を守りたいという本能に適した「正確な情報を提供する」ということなのです。

 

要は、私にとってみれば、明日のZ1会のゴルフは、『やっても、大丈夫なのかどうか』 と言うことなのです。

危ないと聞いても、多分それが中止にならない限り、参加するのだと思いますが、

ひょっとして、参加者の中に、このブログを読まれる方もいるのではないかと思って、1日前の4月5日にアップしているのです。

 

★確かに、過去のデータ―を見る限り、関西は大丈夫で、みんな太平洋の方に飛んで行っているようです

ただ、武田先生のような意見は、多分政府にも届いているのでしょうから、この未曽有の地震に津波、原発事故と重なった危機の時期ですから、

政府はもう少し、具体的な情報や、風向きなど、あるいは放射能の影響などは、少なくとも『花粉の飛散状況』よりは重大な情報だと思うのですが、なぜ発表しないのでしょうか?

もし、発表したらそれこそ、『どうすればいいのか?』 国民が迷ってしまうからかも知れません。

 

確かに、何事も自分で判断せず、『お上に聞きたがる』、国民の態度もイケないのかも知れません。

明日のゴルフどうするでしょう? お上からは、多分、何の通知もないでしょうから、行くことになるのだと思います。

 

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こんなドイツのデーターがありました。

2011-04-04 13:24:08 | 発想$感想

 

こんなドイツのデーターを入手しました

 

この風向きでは、4月6日以降は関西にも放射能が来る予測の様です。

コメント (2)
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昭和47年、(1972年)39歳、 30代最後の年は、大きな重荷をいっぱい背負った年でした。

2011-04-04 06:06:08 | 自分史

★昭和47年、1972年は、どうも景気はもう一つだったようである。

二輪車はあまり景気には関係がないのだが、前年のように景気よく販売は伸びたりはしていない。

今から40年ほど前なのだが、2月末には軽井沢の連合赤軍事件が起きている。今の世の中では考えられない時代だったのである。

この年の7月には長く続いた佐藤内閣に代わって、田中角栄が自民党新総裁に就任した。54歳、若い高等小学校出身の総理大臣が日本に出現したのである。

2カ月後の9月末には、周恩来との間で、日中国交回復がなされた、記念すべき年でもあった。

これ以降、日本大改造計画が推し進められ、日本の一般の生活も様変わりしてゆく、そんな端緒になった年でもあった。

 

★私自身も、39歳。

30代最後の年であったが、個人的には今住んでいる三木に家を建てる契約を結んでいる。

34坪の建屋で、大和ハウスと結んだ契約金は600万円、そのすべてを住宅金融公庫と銀行からの借入金400万円で賄ったのである。

土地や外部工事など入れて、ざっと総額1000万円で、当時の給料でホントに返せるのか、そんな見込みなどよくわからぬままの決心だったのである。

当時の世の中の雰囲気は、みんな自分の家や車を持とうと言うムードいっぱいで、そんな空気に押されて、自然にそんな風になってしまったのだと思う。

 

大きな重荷を背負うことには、間違いなかった。

返済に自信が持てなかったので、返済が始まる2年間の返済金額を借り増してのスタートだったのだが、

この後の数年間、サラリーマンの給料は、25%も30%も上がったりしたのである。計算されてみたらいい。こんな率で給与が上がったらすぐ所得は本当に倍増するのである。

2年後に返済が始まるときには、苦しかったが何とか払えるようにはなったのである。

 

★この年まで、まだ高槻の芥川のすぐ近くに住んでいて、息子と淀川や近くの池に釣りばっかりに行っている。

家内は仙台から高槻に移って、初めての姑との同居で、大変だったようである。

気晴らしにアルバイトまがいの務めをしたりしている。

休みには時折、車で家内の仕事を手伝ってやったりした、そんな時期であった。

息子が小学校2年生、娘は幼稚園だったと思う。

 

★会社の仕事の方も、大変な重荷を背負わされた1年であったと思う。

今思えば、よく背負いきれたと思う。

東北での代理店営業を4年経験しての大阪だったが、前年度は何も解らぬままに結構好成績だったのである。

1月に兵庫営業部も大阪に編入され文字通り近畿圏担当となったのだが、4月には名古屋、長野、北陸の中部関係もテリトリーとなって、関西、中部の大テリトリートなったと思ったら、

10月には、新しく直営部が新設されて、東京営業所も含めての二輪営業担当を命じられたのである。

 

実用車のカワサキから、A1,マッハⅢ、W1S、とようやく中大型、スポーツ車のカワサキになろうとするころで、

それこそ、東、名、阪の太平洋メガロポリスは、国内販売会社の中枢市場であることは、間違いない事実であった。

この大市場を39歳の私が担当したのだであるから、東京も、名古屋も大阪も、それらの地区を実際に担当した所長連中は、みんな私よりさらに若い連中だったのである。

 

会社に年配者がおられなかったわけではない。当時の田中社長は、ホントに思いきったことをされたものだと思っている。

東京を除く関東、東北、北海道を加茂常務、西日本、九州を清水屋常務が担当されて、これらの地区の営業はかっての代理店社長などの経験豊かな方が担当されていたのである。

 

★この年の10月には、二輪業界でも特筆される特約店制度を大阪南、京都、と岡崎の3地区でスタートさせている。

従来のホンダさんなどが推進してきた自転車屋さんにバイクを委託販売して技術サービスはホンダさんが推進するSF制度で担当すると言う販売体制が当時の中心であったが、モペットを持たないカワサキは「中大型車中心の」販売はもとより技術サービスも担当する新しい販売網体制を創ろうとしたのである。

さらに、一切委託ではない買い取り制度、手形発行する販売店は、担保提供を求める厳しい条件ではあったが、販売店を育成するために店数は、極端に絞った選定をしたのである。

お互い納得して契約する甲乙それぞれの申し出を認めあった価格体系も契約により1店づつ異なる手書きの契約書を策定してのスタートであった。

とても全地域一斉に実施に踏み切れるようなものではなくて、3地区でスタートした特約店制度が全国展開されるまでには、数年を要したのである。

この制度は、昭和42年に、東京都で、茂木所長の強烈なリーダーシップで、東京都と言う大市場特有のカワサキ専門店が成り立つ環境の中でスタートされたものだが、大阪と雖もカワサキオンリーでの販売店経営は難しく、全国展開を図るためには、中大型スポーツ車を中心に販売する二輪専門店を目指したものであった。

 

★現在では大型二輪専門店が当たり前の販売網となっているのだが、この時代では非常に先進的な販売網政策で、9月初めに計画を発表した大阪の特約店政策は、二輪車新聞のトップページを大きく飾った大ニュースだったのである。

大阪の船場モータースや、今の株)忍者、 岡崎営業所では、今や世界一の販売店になっている当時のヤマハオートセンター(現在のレッドバロン)がまだ1店だけの規模であったが契約しているのである。名古屋では中部ミスターバイクが、まだ春日井スズキと言っていた時代なのである。

この年、一緒にこの政策を推進した仲間たちとはその後も、いろんなことで、いろんな時期に、関係して現在に至っている。

当時、兵庫を担当していた平井さんとは先日『カワサキの想い出、そして未来』を一緒にやっているし、この年6月山本モータースを開業した60おじさんは、いまもNPOの理事さんでのお付き合dasiし、京都や大阪のセールスで元気だった関君は、今は東京のモトボックス、セキでいろんなところで援けてくれている。

船場さんも、忍者の伊藤さんもNPOの団体会員さんだし、ミスターバイク、鈴鹿ツインサーキットを経営する斎藤さんも先日の『カワサキノの想い出、そして未来』には顔を出してくれた。

レッドバロンの杉浦さんとは、仕事の上では何回もケンカもしたが、何となく気があって、親しく付き合わせて頂いた。

そんな方たちにとっても、ある意味、『スタートの年』であったのかも知れない。

 

★この年1月前年度に実施した10周年記念セールを受けて、全国販売店からなるアメリカ市場視察旅行を実施している。KMCのあったロスを中心に、サンフランシスコ、帰りにハワイで遊んでと言うスケジュール、全国から80店余りが参加したが7割は東京から大阪からも4店ほど名古屋、京都、神戸からなど大都市圏が中心であった。

多分二輪業界初めての海外旅行であったし、アメリカの販売店などの実態を見て、大いに刺激を受けたものである。その団長の様な役割をさせられたが、自分自身が初めての海外旅行で、いろいろと大変だったのである。

 

昭和47年は、1月8日からこんあアメリカ旅行からスタートしている。

 私自身にとっても、大きな重荷をいっぱい背負った年でもあったが、『新しい販売網の創造』という挑戦にスターを切った想い出多い年でもあったと言えるだろう。

 

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