★昭和32年、川崎航空機入社以来、1年ごとに時系列で『自分史』を続けてきた。
昭和63年(1988)までの31年間は、所謂サラリーマンとしての会社勤めであった。
この31年間の間でも、長と名前の付かなかったのは昭和40年までの8年間ほどで、
殆どの期間を、課長、事務所長、所長、母店長、部長、統括部長、、副会長、常務、室長、などなどの職名はいっぱい貰っていたが、どちらかというと更に上に上司がいて、その方の求める方向に支える所謂中間サラリーマンの道を歩いてきた。
そんな環境の中でも、殆どが自分の思う方向に上司が思ってくれるように、仕向けるというか誘導していたので、
上司は私のやりたい方向を『やれ』と指示して頂いたことが、殆どであった。
「自分は本件反対だが上司の指示だから仕方がない」というような仕事は、入社以来やった記憶がない。
ただ、他の人がつまらぬと思うようなことでも、やりようでは結構オモシロイことも多いと思ったものである。
★今までの時系列の状態で書くとすれば、昭和64年である。
この年の1月、昭和天皇がお亡くなりになって、昭和の時代が終わり、平成の新しい年が始まるのである。
竹下時代も終わったし、昭和の歌姫美空ひばりも亡くなったのである。
私自身も、前年サラリーマンを卒業し、理事という資格になって、退職金ももらって、今までの貯金のなかった生活も変わったし、
前の年の10月にはカワサキの二輪事業の円高対策としての国内市場担当を命じられたのである。
当時のカワサキオートバイ販売会社は、全国各地に地域販売会社やジェットスキー販売や部品販売の専門会社を有する国内グループを形成していた。
その中枢のカワ販の専務と系列会社の社長となったのだが、当時のシステムでは社長は何もせずに名前だけ、専務、常務が実務を仕切っていたのである。カワ販の社長も川崎重工の常務、CP(コンシューマー、プロダクト)事業本部長の高橋鉄郎さんが兼務されていた。
高橋さんとのお約束は、国内市場を強化すること、具体的には
●7万台を販売目標とすること
●事業本部に年間100億円の限界利益が国内市場から得られること
というべらぼうに難しい課題を背負っての就任だったのである。
★この年56歳、最後の仕事だと思ったし、目標も大きかったし、
これからの5,6年は誰からも指示されずに、自分で考え、自分でやり抜く以外に道はなかったのである。
結果から言うと1999年まで、これから11年間の私の会社生活だったのだが、
この11年間は、私の会社生活の最後の極めてオモシロかった時代だから、従来の時系列の自分史を踏襲しながらも、
もう少し幅を広げて、纏めてみたい。
ご紹介したい資料など手元に山ほどあるのである。
★この時代の特にスタートから3年間ほどの活動がどんなものであったか。その記録が残っている。
高橋鉄郎さんの指示で行われた講演会である。
私と、ソフト会社を担当した南君と、レース担当の重本君、そして広告担当の小林君とでぶっつけほんばんで行われたものである。
高橋さんから当時の川重の社長以下全役員に、更に英訳されて全世界のカワサキ関連に送られた冊子の中からご紹介したい。
★ 就任して一番先にやったのが、博報堂に依頼したカワサキのイメージ調査なのである。
当時のカワサキのイメージはご覧のとおりで、
●『玄人受けのする』『海外評価を』頼りに、『デザインセンスはないが、』『個性的なデザイン』
●『広告のセンスもアフターサービス』もダメ、『レースに弱く』『常にチャレンジしない』そして『大衆的でない』
一言でいえば『ユニークなKawasaki』で、イメージとしては、そんなに悪いとも言えないのだが、
『イメージ総量は小さいし』このままでは、7万台を売るという目標など立ててはいけないのである。
7万台を実現するためには、『常にチャレンジするカワサキ』への脱皮、
一番基本的にベースにあったのは、『新しいカワサキのイメージの創造』だったのである。
★市場が伸びているのならともかく、市場は年々縮小しているのである。
前年10月、就任2週間目に、『ファクトリー結成25周年のOB会』を開催したのも、今後は創成期のような積極的なレース展開を図るという決意表明であったし、
従来の『カワサキ一筋のユーザー』を集めていたユーザークラブKAZEを発展的に解散したのも、熱烈なカワサキファンだけではとても7万台は難しいと思ったのである。 別にバイクのユーザーでなくても、『二輪に関心のある人を集めよう』これがスタート時のKAZEのコンセプトである。私は、バイクを自分で持ったことはないのだが、今でもKAZEの現役会員なのである。
カワサキが常にチャレンジし、広告のセンスもよく、レースにも強いKawasaki に変身させることが、拡販のMUST条件だと思ったのである。
昭和から平成に変わった初年度は、兎に角『イメージチェンジ』が最大課題だったのである。
こんなことから入ってゆくリーダーは1%もいないと思うが、誰にも相談せずに、そんなことから『7万台の挑戦』は始まったのである。
若い時にいた広報の世界の経験がそうさせたのだと思っている。
★まず、一番最初に取り組んだのがイメージ調査で、一体カワサキはどんなイメージを持たれているのか?
博報堂の調査の結果である。
講演の中でも、同じようなことを言っているが、
1989年、たった1年で、Kawasakのイメージは変化の兆しを見せている。
広告宣伝のセンスも上がったし、レースもそれなりに実績を残した。
常にチャレンジするカワサキに変わりつつあると『世間が認め始めた』のである。
では、この1年どんなことを具体的にやったのか?
それは上表の『対策の方向』
1)商品開発は、技術部の担当だが、
2)流通機構
3)ユーザー(KAZE)
4)社会環境、市場環境との調和
5)ブランドイメージの高品質化
の2~5項までが販社グループが担当した。
そして
『総合的な新しい仕組みの構築』だったのである。
64年の具体的な動きについては、明日続けてアップすることにする。