★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』も4回目になった。
100回ぐらい続くだろうかとは思っているのだが、
幾らでも話題はありそうなのだが、
まずは10回ぐらいまでは少しピッチを上げてアップしておきたいと思っている。
このテーマの数値目標は『7万台・売上高400億円』なのだが、
これは当たり前だが『1年間』での数値なのである。
そういう意味では結構大きくて、だから簡単ではない目標なのである。
当時の資料が残っているが、こんな数値目標で、
二輪車で6万台、ジェットスキーで1万台 計7万台 なのだが、
当時の実力は、二輪車が44000台ジェットスキーは3000台だから、
これは普通ではない『大変な目標』であることがお解り頂けると思う。
今思っても、こんな目標をやると、よく約束したものだと思うのである。
88年以降の1年間の移動値のグラフ見ると、出だしは横ばいだが、
89年の半ばから、目標の線を上回って、
3年目にはほぼ目標を達成できる目途が付いているのである。
二輪も、ジェットスキーも、ともに目標推移を上回った傾向を示しているのである。
なぜ、こんなことになったのか?
確かに、思いもよらぬ ZEPHYR の好調や、
当時は新製品であったジェットスキーの好調もあったのだが、
基本的には、従来の販売促進策などには頼らない、
『カワサキの新しいイメージ創造』というソフト重視の基本戦略が功を奏したと言っていいだろう。
二輪車もジェットスキーも、『遊びの道具』なのである。
そんな遊びも、『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と、
『遊びの専門会社・ケイスポーツシステム』を立ち上げて、他社とは全く差別化したいろんな仕組みシステムを立ち上げたり、実践したりしたのである。
いまも尚続いているユーザークラブKAZEは、ケイ・スポーツ・システムが一番最初に取り上げて、89年1月にスタートしているのである。
スタート時点は1000人ほどだったのだが、それ以降どんどん伸びて最盛期は55000人を擁して、実質ホンダHARTの5倍の陣容になったのも、専門会社が本格的に取り組んだからである。 いつか『KAZEのコンセプト』についても取り上げてみたいと思っている。
そんな『新しいカワサキのイメージ創造』の核となるソフト会社KSSの設立は、
当時新しく創った末端のユーザーが走れるサーキット『SPA直入』の管理運営会社という理由で申請したので、川重本社の承認も簡単に取れたのだが、この会社の運営対象は、本音はそんなハードの管理ではなく、
それを利用する『末端ユーザーへの働きかけのソフト』が第一目標だったのである。
★ホントに、なぜこんな目標が達成できたのか?
端的に言うと『私は兎に角ツイている=いい運を持っている』から出来たのかも知れないと思ったりしているのである。
私の人生は不思議なほどツイていて、いろんな新しいことを手掛けるのだが、目論んだことはほぼ実現しているのである。
その時々に『いい商品』に巡り合えたり、『いい仲間と組む』ことができるのである。
SPA直入の建設計画は私が計画して始まったものなのだが、当時は別に国内担当でもないので、その運営に関係するなどとは夢にも思っていないのである。
それが結果としては、『自らが運営できる』そんなラッキーなことに繋がっていくので、『ツイている』としか思えないのである。
★この際昔を振りかって、『SPA 直入が出来た経緯』を纏めるとこんなことである。
ずっと遡って1970年代後半、Z1などの大型バイクの開発にテストコースが必要だと当時の技術本部(技術本部長髙橋鐵郎さん)が言い出して、大分県直入町にテストコース建設用の広大な土地を購入し所有していたのだが、その後の事業部の事情などから、大規模なテストコースの建設はムツカシク、ずっと放置されたままになっていたのである。
その購入条件の中に、直入町の人たちの雇用なども入っていて、直入町からは事業本部に対してそんな約束履行を厳しく要求され続けていたのである。
1988年に、その対策としてモトクロスコースを作って対応するなどの案が出たのだが、私がそれを聞いて『モトクロスコースより小規模なサーキットの方がいい』と当時の髙橋本部長・柏木企画室長に言って即刻OKを取り、レースなどにも詳しい岩崎茂樹とのコンビで『SPA 直入』計画はスタートしたのである。
もしそんな話を私が聞かなかったら、サーキットなどは出来ていないのである。
なぜ、私がそんなことを言い出したのかというと、
この時代『レーサーレプリカ全盛時』で、ユーザーたちはそんな高性能車を走らせる場所がなくて峠に集まり『峠族』などと言われていた時代なのである。
当時は鈴鹿も菅生もほかのサーキットも、『素人に走らせたら危ない』などと言って、一般ユーザーには走らせなかったので、メーカーとしてはちょっと無責任だなと思っていたのである。
私はいつも、いろんな新しいことを考えるのだが、それは『業界の常識』によるものではなく、普通に自然に、常識的に考えることにしている。
二輪業界に限らず『業界の常識』などは業界に都合のいいように考えられていて、末端のユーザーなどは無視されていることが多いのである。
『素人は危ない』などと言うが、一方通行で、交差点もないし、対向車もいない
『そんなサーキットでの走行が危ない』などと言うのは、メーカーはそんな危険な商品を売ってるのか? 『二輪車はそんなに危険な商品ではない』とホントにそう思っていた矢先に、こんな話だったので即刻飛びついたのである。
小さなサーキットだがSPA直入の建設に着手したのは1988年春のことである。
ただサーキット建設など、川崎重工の本社財産課も造った経験など皆無だし、頼んだ建設会社も経験などないものだから、その基本設計のコンセプトは岩崎茂樹が一人で考えたようなものである。
私も岩崎も創成期のカワサキレースに関係していたので、コースレイアウトなども何とかなったのである。
この計画は、規模は小さいが本来の計画であった『二輪のコース』が出来るというので、直入町も大賛成で、大分県などへの申請などはムツカシイ面もあったのだが、町長自ら県への申請に同伴してくれて、当時の県知事に直接頼んでくれたこともあって、半年足らずで開発許可も下りたのである。
そんな1988年の10月に、突然私は『国内市場担当』となり、自ら計画したサーキットの運営もやることになったのである。
★ SPA直入は小さいが、こんなに綺麗なサーキットなのである。
ユーザーの安全も考えて、グリーンベルトも広く、
コース幅は鈴鹿サーキットと同じにしている。
そして、このサーキットの管理運営をする会社という名目で、
『ケイ・スポーツシステム』を立ち上げたのである。
ちょっと余談だが『SPA直入』のネーミングの名付け親は岩崎茂樹なのだが、
『SPA直入』のSPA は、確かに直入町の長湯温泉の意味もあるのだが、
ベルギーの世界的に有名なサーキットの『スパ・フランコルシヤン』とも賭けているのである。
★このSPA直入は89年4月に着工し、90年4月に完成、盛大なオープンセレモニーを行うのだが、日本で初めて一般ユーザーが走れるサーッキットだと大人気で、約4000人の二輪ユーザーが集まったので、小さなサーキットは人で溢れたような状況だったのである。
そこで挨拶に立たれた直入町長は
『有史以来初めてこんなに大勢の人たちが直入町に集まった』とご挨拶されたのである。
確かに有史以来の出来事で、多分その後も直入町に4000人を超す人たちが集まったことなないのではと思うのである。
ユーザー走行は1周だけで、直線コースは当日は走らなかったのだが、流石にコースは満杯で、今思うとよく事故が起こらなかったなと思ったりする。
当日は清原などカワサキのライダーの他に、当時はヤマハにいた金谷秀夫なども参加してくれて、模範走行や、ユーザーたちの走行の先導を務めてくれたのである。
当日の写真は手元には持っていないのだが、小林茂さんなど、お持ちではないのだろうか?
あれから30年経った今も、SPA直入は、当初のコンセプトの通り、多くライダーたちに可愛がって貰っているようなので、起案者としては大満足なのである。
SPA直入については、オープン後もいろんな話題がいっぱいなので、
次回、もう一回 『SPA直入』についての話題をアップしてみたいと思っている。