雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 5

2020-05-22 05:12:28 | 私の生き方、考え方&意見

★ SPA直入のことや、これに関係した人たちのことをもう少し書いてみたい。

 私の40年間の現役生活ではいろんなことがあったが、
一番心に残っていること一つ上げよ』と言われたら『SPA 直入』と答えるかも知れない。

 最初に岩崎茂樹と二人で、草ぼうぼうの現地を歩いたのが最初だが、
 日本の中で一番多く訪れた町は『直入町』だし、思い出いっぱいなのである。
 直入町長以下、町の方たちとも仲良くなったし、
 SPA直入は町の活性化にもお役に立てたこともよかったなと思っている。


 この当時、1988年から1990年代の初めの頃、 
 7万台の目標達成のために、一番力を入れてたのは、
 『遊びのソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)で、
 そのスタート時期には、私自身もこの会社のことに掛かりきりだった。

 そのKSSの常務として実際に動いてくれたのが南昌吾くんである。

 
ずっと昔、カワサキが特約店制度を立ち上げたのは1973年だが、
当時の二輪業界では初めての本格的な二輪車専門店制度だった。
ホンダ・スズキ・ヤマハさんはいずれも50ccモペット全盛期で、自転車屋さん主力の販売網だったのである。

最初にこの制度を展開したのは大阪南営業所、京都営業所そして岡崎営業所の3地区だったのだが、この制度を全国に展開するためにも、最初は絶対に失敗は許されなかったのである。


大阪は私の直轄だったが、藤田孝昭くんと南昌吾くんが担当していた京都岡崎を選んだのは、この二人なら上手くやるだろうと期待したのである。
当時の京都には、今もお付き合いのある柏原久・関初太郎、レース界で『ヨシケン』で通っている吉川健一くんなどがいたユニーク極まる営業所だったし、
岡崎営業所では、あの杉浦さんが『ヤマハオートセンター』を立ち上げたばかりで南くんは、そんなムツカシイお店の対応をしていたのである。 
今はレッドバロンとしての全国展開だが、そのスタートからカワサキとはお付き合いがあって、私も懇意にして頂いているのである。

カワサキのこの特約店制度は見事に成功するのだが、この3営業所を嚆矢としてほぼ3年で全国展開が図れたのである。
 

★それから20数年近くも経って、『7万台の販売目標』というムツカシイ課題に立ち向かったのだが、この時も、新事業のジェットスキーを藤田孝昭、新しいソフト会社KSSを南昌吾くんの二人が担当してくれたのである。 

この辺りの『私のやり方』はずっと一貫していて、社内にはいろんな優秀な人材はいるのだが、『前例のないはじめての仕事』をやれる人というのは、これは『ちょっと変わった独特のもの』を持っていないとムツカシイと思っていて、そんな人材はなかなか社内でも少なくて、この二人の他には平井稔男さんぐらいで、平井さんにも、いろいろと『全く新しい仕事』をお願いしたのである。

新プロジェクトであった『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム(KSS)』では、
南昌吾常務の下に、今もお付き合いのある渡部達也・吉田俊くんなどのホンの数人でのスタートだったのである。



★オモシロイ会社には、自然にオモシロイ人たちが集まるもので、
当時のKSSには外部のいろんな人たちが集まってきたのだが、
レースにも、ジェットスキーにも関係があり、SPA直入とも最も関係が深かった人と言えば、あの『岩城滉一』なのである。


彼は単身で突然、東京事務所に私を訪ねて来たのだが、当時は4輪のレースをやっていて、新しく『二輪のレースをカワサキでやりたい』というのである。 

そんなことから『岩城滉一』とのお付き合いは7年間ほど続くのだが、そんな大物と直接付き合ってくれたのが南昌吾くんで、なかなか密接な関係で、ざっとこんな感じのお付き合いだったのである。

  
  


★そんな岩城滉一が当時一番気に入ってたのが『SPA直入』で、直入町での滞在日数は相当なもので、直入町の人たちとも密接に繋がったりしたのである。


これが直入町のSPA直入の立地だが、ご覧の通り『芹川ダム』がすぐ近くにあって、
当時は『芹川ダム』をジェットスキーゲレンデにしようという計画が進んでいて、
岩城滉一はジェットスキーにも惚れ込んで、直入滞在時には、SPA直入では二輪を、芹川ダムではジェットスキーを存分に楽しんでいたのである。



 


★そんな岩城滉一とのお付き合いなのだが、
東日本大震災のあった年2011年の3月半ばに、突然『岩城滉一』から電話が入ったのである。
何事かと思ったら、青森県のどこかで計画していた『旅サラダのロケ』が地震のために出来なくなってしまったので、
SPA直入』をお借りするように頼んでいただけないか? というのである。

私もカワサキを退職して10年以上経ってるし、頼むにしても『どのような頼み方』がいいのか考えて、上からのルートではなく『ずっと下の私がよく知ってる人』に頼んだのだが、上手く社内を動いてくれて、半月余りの間に現地でのロケも終わって、4月2日のオンエアとなったのである。
 こんな頼まれ仕事は『前向きにやってくれる人』でないと、『余分な仕事だ』と思うような人では上手く回らないものである。


★ 4月2日の『旅サラダ』を見ての感想を、こんな風にブログにアップしている。


   


こんな風に『旅サラダ』に 『SPA 直入』が岩城滉一と共に登場したのである。
 
   

  




 二論でサーキットを走る画面も写ったし、


   
   
   


当時泊ってた旅館『翡翠』の首藤文彦さんとも再会して、SPA 直入のメンバーたちとも旧交を温めた様子もテレビに放映されたのである。


   


★こんなことがあるから、
 『人とのお付き合い』はちゃんとしておかないとと思うのである。

 岩城滉一という有名人との7年間のお付き合いも、『二輪やジェットスキーのファン』としてのお付き合いで、そこには契約金のようなビジネスライクなものはなかったのである。

 『旅サラダ』も東日本大震災という思わぬ出来事から、大慌てだったと思うが無事間に合って、ホントによかったなと思っているし、カワサキも、直入町にとってもよかったなと思っている。



★『旅サラダ』には『SPA直入』だけでなく『オートポリス』での走行シーンも入っていたのだが、SPA直入建設当時に、同時に建設が行われていたのが『オートポリス』で、当時の金でその建設費用は300億とも500億円とも言われていた。
SPA直入』は土地代は不要だったので、その100分の1ぐらいの費用で出来上がっているのである。

不思議なご縁で、『オートポリス』は今はカワサキの所有になっていて、そのオートポリスの経営を担当し確固たる運営方式に仕上げたのは、かってのKSSで南昌吾常務を支えた渡部達也くんなのである。


 いろいろと想い出の多い『SPA直入』なのだが、そのスタートは30年前だし、
『旅サラダ』ももう10年前の話なのである。

いま、シリーズで纏めようとしている
7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』での『私の生き方、考え方&意見』は今現在もそのまま続いていて、ネットの世界でも、現実にもホントに昔と同じように多くの方たちとお付き合いがあることは嬉しいことである。

そんな方たちの名前がいっぱい飛び出すことになるだろう。



 
 



コメント
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